栗園医訓五十七則(橘窓書影より)その3

浅田流の臨床医訓ともいうべき五十七カ条の続きその3です。(その1はコチラ)(その2はコチラ

『橘窓書影』画像は京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下、青枠内が本文です。

その27、そこにはすべて意味がある

一、 薬剤の再煎、麻沸および先煮、後煮の別、混ずべからず。

湯液の煎じにも順序があります。
例えば、小柴胡湯は〔柴胡、黄芩、人参、甘草、生薑、大棗、半夏(分量略)〕の七味から成りますが、グツグツ煎じてハイ出来上がり!ではありません。「以水一斗二升、煮取六升、去滓、再煎取三升。…」とあるように滓を取って再び煎じます。
麻黄湯における麻黄、葛根湯における麻黄、葛根の先煮なども同様です。

これらの精密な工程には意味があると思われますし、鍼灸にも当然「工程の僅かな差により結果が異なる」ということがあります。

例えば配穴の順序が逆になっても治療の意味が変わります。
合谷-三陰交の組合わせを例にしましょう。

「合谷から先に刺鍼するのか?」「三陰交から先に刺鍼するのか?」で意味は変わります。
抜鍼の順番もまた然りです。
他にも刺鍼の深度角度・押手の具合・刺鍼抜鍼の徐疾・呼吸…など細かな差で意味が変わるという点では湯液に比べて鍼の方が複雑であり、より精密さが求められるでしょう。

その28、湯散丸の違いは鍼・灸の違いに通ず

一、 湯散丸の分別、研究すべし。
此の三法、薬病の各々宜しき處あり。乃ち別ある所以なり。婦人妊娠中、丸散多くして、湯剤少なし。以て其の端を悟るべし。

漢方薬にはその服用形式に湯・散・丸があります。
湯とは湯液、すなわち煎じ藥ですね。煎じてエキスを抽出して液体(スープ)にして服用します。
散薬は粉薬。婦人妊娠病編では当帰芍薬散、当帰散、白朮散があります。現代ではエキス剤としての漢方薬が良く知られていますが、それとは異なります。
丸薬は煉蜜などで練って丸く粒状にしたお薬です。

散薬は上焦に効かせ、湯液は中焦より入り、丸薬は下焦に達して効く、とは古典上で記されていた話です。
効かせるターゲットによって藥の形状を変える。これもまた鍼灸でも同じことが言えます。

毫鍼と鍉鍼では効かせる層が異なります。
温灸(台座灸やカマヤ灸など)と艾灸(艾をひねる知熱灸)でもやはり効かせる対象が異なります。それを使い分けることができるからこそ鍼師・灸師なのです。

その29、治効を増すために工夫すべし

一、薬の修治は、製して毒を増すものは必ず製すべし。

「毒を増す」これは毒性を増すというよりも薬性(薬能)が増すという意味でしょう。
そもそも『素問』の頃から藥は毒薬なのです。これはその18「薬は偏性の者なり」と書かれてある通り。
そして病態を理解し、その薬の偏性を理解した上で治療を施すのです。

各々の治療手段や治療道具の特性を理解することで、その効を増すように誘導することは鍼灸治療に於いてもよく行うことです。
何気なく行っている「置鍼」ですらその一つです。置鍼の意味をよくよく理解することです。

その30、診鍼一貫に通ずる

一、 病、上焦にあるものは必ず薬剤を軽くすべし。又、腹満水腫などの如きは薬剤を大量にすべし。

治療のターゲットに応じて、その手を選ぶこと。

氣分には氣へのアプローチ、水分・血分には水や血へのアプローチということです。
これは当会の診鍼一貫の根本となる考え方です。

その31、治療が有利となるよう事を運ぶ

一、 蚘蟲を兼ねるものは先ず駆蟲の剤を与え、而る後に本病の薬を与うべし。

蚘蟲とははらのむし、今でいう回虫などの寄生虫というと分かりやすいでしょう。
まずは虫下しをしてから、本治すべし…ということです。

湯液ではまず胃腑に入ってから効かせる治療形態です。その胃腑を始め消化管内に薬力を閉塞させる要素があれば、速やかにそれを除く必要がある…と考えてみたのですがいかがでしょうか。
また鍼灸も胃腑とは無関係ではありません。経絡と胃腑の関係をよく理解し、それでいて漢方と鍼灸の違いを弁えて鍼灸治療を模索・構築すべしです。

その32、駆邪の追い出し口をイメージせよ

一、 汗・吐・下・和・温の別、能々(よくよく)甄別(けんべつ)すべし。

汗法・吐法・下法は外邪を駆邪する法です。和とは和解法、温とは温補とみて良いでしょう。

鍼灸では補瀉の二法に大別しますが、より明確に病理と治療を理解するためには、以上のように五つの治法に分類する必要があります。
なぜかというと、病位が明確となり、具体的な邪の追い出し口を理解することができるからです。

汗・吐・下は瀉法に属します。この三法に加えて滲法(利尿)を病理、治病の中に組み込みます。
これらの治法は水を動かすことで駆邪を行う治法といえます。もちろん鍼灸でも再現可能です。

その33、医が迷うな

一、 故なくして処方を転ずべからず。山脇東洋、常に戒めて曰う、醫、自ら易(かえ)ると云う。

永富独嘯庵の『漫遊雑記』巻之上に「山東洋(山脇東洋)、其の門下の毉生、故無く處方を轉ずる聞けば則ち嘲りてて曰く、毉 自ら轉ず、と。凡そ百技、其の極地を造るときは則ち意思必ず毫髪に入る。機緘の存する所、耳食吠聲の徒の為に説き難し。必ず也、疑わざる者を待ち受けて後に之を傳えん。…」

訳もなく治療方針を変えてはいけません。山脇東洋は弟子の迷う姿を見て嘲り嗤いて戒めたとあります(Sだなー)。

実際の現場では、患者さんに「あまり変わってないね~」と言われると「じゃあ治療を変えようか…」とつい思ってしまうわけでして…。しかし、ここで確たる診断が問われるのです。

「症状が不変=無効」という訳ではありません。
ここは多くの臨床家が迷うところではないか?と懸念する点です。

「すぐに…」「ピタッと…」と魔法のような治療効果を求める心情は分からないでもありませんが、特に鍼灸においてのそれは術の領域ですね。医術と医学の両方を知るべき鍼灸師はこの境界を自分なりに線を引いておく必要があるでしょう。
しかし医学においては「不変=無効」ではないことも念頭に置いて冷静に診断すべきです。即効だけが治療ではないのですから。

冷静かつ正確な診断のもと治療を変える必要が見つからないとき、これが「故無くして処方を転ずべからず」ということでしょう。

その34、病位病理と治法と方術

一、陰陽表裏は病の位なり。発・攻・温・清は法の極なり。大小二一は方の製なり。
此の三者を詳らかにして治療精細にすべし。

病位と治法そして方について述べられています。

病位の重要性はこれまでも各記事で述べてきた通りですのでここでは省きます。
法については「発」は発汗・発表、「攻」は攻下、「温」は温補・温法、「清」は清熱を指すとみてよいでしょう。

大小とは方の大小でしょうか、例えば、柴胡湯、承気湯、青龍湯、建中湯、陥胸湯などの大小を指しているのかもしれません。
同様に二一は桂枝二麻黄一湯、桂枝二越婢湯、さらには桂枝麻黄各半湯といった配剤の微妙を指しているのかもしれません。

いずれにせよ、湯液・鍼灸ともに病位病理・治法・方術の一貫性こそが最重要であるということです。

補足:35と1/2、医法に基づく医意

一、 医経経方は医の法なり。臨機応変は医の意なり。
医意を精しくして聖治を用ゆるときは上工に至るべし。

医経経方、すなわち医の“経”といえば『内経』や『難経』『本草経』などを指し、経方は『傷寒雑病論』を指します。
すなわち医法とは医書に書かれている“法”であり、その法を基盤としたうえでの臨機応変を医意、すなわち医の機転としています。

臨床ではこの医の機転の要素として、その人の経験や直観などに依るものもあると思います。たとえば、鍼灸でいうと「鍼や灸という道具に縛られない」というのも一つの機転だといえるでしょう。道具、すなわち方法論に囚われないという思考の自由さは大切です。

医経経方に記されるのは原則や法則、すなわち“理”です。我々が古典を学ぶ意義・目的は、古典を通じてこの“理”を得たいのです。
現場ではその“理”に則して治療の応用を行うことで、上工に一歩近づくということですね。
※本条文は渡辺先生よりコメントをいただき、補足条文を加筆させていただきました。この場を借りて渡辺先生にお礼を申し上げます。

その35、先後の判断は治療家の力量を問う

一、 治療に先後と云う事あり。或いは先表後裏、或いは救裏治表、
或いは先に小建中を用いて後に小柴胡、
或いは小承気を與て後に大承氣、或いは小柴胡を與て後に柴胡加芒硝、
或いは甘草湯より桔梗湯を云う先後の次第を誤るべからず。

治療の先後、これも現場の判断において大事です。
浅田先生は方剤を挙げて、その先後を説明してくれていますが、鍼灸ももちろん同じことが言えます。

藥を煎じ服用する時間が漢方湯液には必要ですが、鍼灸はそれが必要ありません。ということは一穴一穴、一鍼一鍼の判断の重さとその先後の意味を常に考え、鍼灸を行う必要があるのです。

先補後瀉だけでなく、先緩後通、先緩後急、先小後大、先浅後深、先清後温…といった各局面での先後の判断が必要となるかと思います。

但し「先表後裏」と言いつつも「救裏治表」と順序が逆のこと記してもいます。
セオリーであれば表から治すのですが、例えば裏虚が強いときは先に裏を救ってから表に着手します。緊急時の優先順位ですね。

「傷寒、醫下之。續得下利清穀不止、身疼痛者、急當救裏。後身疼痛、清便自調者、急當救表。救裏宜四逆湯、救表桂枝湯。」(『傷寒論』太陽病中編)とある通りです。

同様に少陰病、厥陰病のような陰証であっても承気湯類を用いるような先裏救裏の方も指示されています。
「少陰病、得之二三日、口燥咽乾者、急下之、宜大承気湯。」
「少陰病、自利清水、色純青、心下必痛、口乾燥者、可下之、宜大承気湯。」
「少陰病、六七日、腹脹、不大便者、急下之、宜大承気湯。」
厥陰病編にある小承気湯も同様の病態ではないかと考えます。

これは虚実の違いこそあれ、先裏救裏の局面といえるでしょう。

その36、機をつかむことの大事

一、 逆治と云うことを慎むべし。汗すべきを下し、下すべきを吐するの類なり。

逆治、すなわち誤治の戒めです。
発すべきを攻め、攻めるべきを吐してしまう…とこのように書かれるとさほど難しくないように見えるかもしれません。しかし、急性熱病の激しい症状の訴えを目の当たりにすると、判断力も鈍ってしまう恐れがあります。

また、急性ではなく慢性疾患では症状の変化が緩慢であるため、急性病のような攻め時、守り時がつかみにくいものです。症状の変化の兆しを捉える眼を養うことが大事です。

病には急性・慢性の違いがあり、それぞれに病の流れ病伝・病機の特徴と違いがあります。
当然、診断の優先順位と治療の組み立てが異なります。本来は漢方も鍼灸も共に、急病慢病ともに治療ができる力を持っています。如何に使いこなすかは術者次第ということなのでしょう。

その37、常と変、持重と逐機

一、 治療に逐機・持重という二端あり。逐機は病 變ずるときは方 随いて轉ずる也。
持重は病 動かざるときは泰然として一方を主張するなり。持重は常なり。
猶、経と権とを知らざれば道 全からざるが如し。

「逐機」と「持重」という言葉は永富独嘯庵の書に見られます。その意味は浅田宗伯先生も書いている通り。

変化の早い病に対しては、その動きに随い自在に治療を対応させます。冷静な判断とそれに応じた技や術が必要です。
てこでも動かない宿痾・宿疾に対しては、泰然として方を曲げず…すなわち強固な意志と揺るぎない技が必要です。

常と変に対応できる医学を自分の中で構築し続けることが重要なのです。
「常と変」と少し似た表現として「経と権」という言葉を浅田先生は用いています。この言葉も臨床に照らして考えてみると良いですね。
人の心身に起こる病は生き物のようです。多様な要因でもって病は進み複雑化するものです。

永富独嘯庵の書に記される逐機と持重についての一節を以下に引用しておきます。

治療之道二端、曰逐機、曰持重。
所謂、逐機者、病移則輒隨、非迷惑而轉方也。
所謂、持重者、病深則治一、非迂遠而過日也。
持重者常也。逐機者變也。能逐機則失持重、能持重則失逐機。難矣哉、為古毉方。

鍼道五経会 足立繁久

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