鍼灸茗話・その1

鍼灸茗話とは?

石坂流鍼術の書の中でも『鍼灸茗話』は比較的よく知られている書だと思われる。
医道の日本社から『復刻版 鍼灸茗話』が出版されており、リーズナブルな価格で入手可能となっている。
本書は石坂宗哲の娘婿、石坂宗圭の著書であり、石坂宗哲の伝承が伺い知れる書とも言えるのではないだろうか。

まずは第1章「鍼刺の要」を紹介したい。

写真:『鍼灸茗話』(臨床実践鍼灸流儀書集成12・オリエント出版社)より引用させていただいています。

 

鍼灸茗話     櫟園 石坂圭公琦著

鍼刺の要

凡そ針刺の要を知らんと欲せば、先ず霊枢の九針十二原に載する所の、「その経脈を通じて、その血気を調ひ」を、「その順逆出入の会を営す」を云う数語を能々辨うべし。
故に扁鵲も疾の血脉に在る也、針石の及ぶ所也と云いし也。
夫れその経脉を通ずれば、陰陽血気も自ら調う、その逆順出入の会を営すれば、経脈自ら通じて、陰陽血気も亦調う。

然らば則ちその極まる所は、その逆順出入の会を営すと云、一緒にあるのみ。この事を経にはその要を知れば則ち一言にして而して終わると云いたり。

さてその順逆出入の会とは、いかなるものを謂うぞとならば、先ずその栄衛の相い受授するゆえんを知るべし。栄は心臓に起こりて、内より出、衛は四肢頭面の肌表に起こりて外より入り、故に来て入る者を逆とし、内より出て往く者を順となす。

これを経には栄気脉に順じ、衛気逆行す①とも説き、又、去る者を陰とし、至る者を陽とす。陽は気を四肢に受け、陰は気を五臓に受くとも説きし也。

栄は大経より、支絡、孫絡、細絡の末梢に至りて、又その血気を衛して細絡の末梢に輸(おく)る。
衛、これを受けて、孫絡支絡より、大経大絡に入りて、心に還り、肺に行きて、又 心に入る。
かくめぐること昼夜間断なきを往来循環、環の端の無きが若しとも説きし也。

その相い受授する所の交際をさして出入の会と云う②。この所が大事の場所にて、気血の阻滞、外邪の侵入する場所と知るべし。気とは宗気と云う、血とは栄衛を云う。故に経にも衛気の留止する所、邪気の客する所、針石(に)縁りて而之を去ると説きたり。

邪気一たび之に客するに宗気栄衛倶に阻滞し、汗孔閉じて、上焦通ぜず。故に種々の百病を生ず。その生ずる所の疾に、有餘不足あるに従いて治術に補瀉の法あるなり。

順逆出入の会を知っているか?

本書第一の章「鍼刺の要」は文字通り鍼術の要となる内容である。
注目すべきは「順逆出入の会」というフレーズ。

石坂氏が述べるとおり『霊枢』九鍼十二原ののっけから「順逆出入の會」が登場する。
「微鍼を以ってその経脈を通じ、その血氣を調え、その逆順出入の會を営して、後世に伝えうべからしめんことを欲す。」の一節である。
(ちなみに霊枢では順逆ではなく逆順である)

ではこの逆順出入の會とは何ぞや?それが分からないと、微鍼の要諦が分からないではないか…ということで同じく九鍼十二原に以下の記述がある。
「節と言う所は、神氣の遊行し出入する所也。皮肉筋骨に非ざる也。」

神氣の遊行し出入する節という表現はいかにも詩的で道教的な思想も感じられるフレーズである。それでいて人体は本来は天地と互いに交流し感応し合う存在なのだ、というメッセージも伝わってくる。多くの現代日本人にはすぐに理解できないボディ・イメージであろう。「個と全、全と個」を共に観じられることが重要なのだと思う。

さて『鍼灸茗話』本文に戻ろう。
石坂氏はこの順逆出入の會を「その相い受授する所の交際をさして出入の会」(下線部②)と記しているが、「大経」「支絡」「孫絡」「細絡末梢」「環の端の無きが若(ごと)し」といったそれまでの文脈からみて経脈のことを指しているようでもあり、下線部②以降の表現では経穴そのもを指しているようでもある。

おそらくは「経穴を含めた経脈システム」もしくは「経脈を含めた経穴システム」を意味しているのではないか?と思われる。この石坂氏の観点は非常に優れたものであると唸らされる。横の世界観を説いたかと思いきや、縦の世界観をも含めた、非常に示唆に富む解説であると思う次第である。
ちなみに『霊枢』の「神氣の遊行出入」という人体観・生命観は『黄帝内経』を理解する上で、そして鍼を行う上で非常に重要な思想である。
全から隔絶した個として生命は成り立たないという思想なのではないだろうか?これは『内経』だけなく『難経』にも伝わっていると思われる生命観である。

しかし医学が発展するにつれ、個としての人体をいかに治療するか?が主テーマとなっていく。
病理は複雑化していくが、根本的にはシンプルな正と邪の対立構造であり、天人合一・天人相応の生命観は薄れていく。

蛇足ではあるが、節は神氣の遊行出入する所であり、関節ではない(皮肉筋骨に非ざるなり)。
また同じく『霊枢』小鍼解第三には節の交は三百六十五あるとし、人体の経穴と天地の数(一年の日数)との相応性を示唆している。

栄気順脈、衛気逆行とは

栄気順脈、衛気逆行とは『霊枢』五亂第三十四の言葉である。
私見ながら、営気と衛気は相い随う関係にはあるが、24時間どの身体部位に於いても相随の関係にあるとは思っていない。

営気順脈、衛気逆行、つまり営気は脈に順ずるが、衛気はそれに逆行する(パターンもある)ということだ。
詳しくは霊枢シリーズの五亂をアップした際に紹介したい。

第2章「補瀉」に続く

補瀉

補瀉のことは、予が嘗て著す所の補瀉迎随抄説に詳らかに説きたれば、ここには又その余意を陳べし。

夫れ上古の聖人、病を治するには、補瀉の両道に通ざることを知覚し玉いしに、千状万態の疾病に、争(いかで)か一針を以て、是に應ずることのなるべきや。
是故に九針を製して以て、その應用の事に欠くことなからしむ。
この事を経に、皮肉筋骨 各々處(処)する所有り。針も各々形を同じくせず。以てその宜しき所を任ずと見えたり。
九は数の極まる所なれば、その事も亦た此にて至らざる所なきの義なり。

さりながら此の九針の内に、補を言うものは、唯々毫針と圓針とのみ、その他は盡く瀉の為に設けられたれば、瀉法は多くして補法は少なきように思わるる故に、後世に針に「無補有瀉」のみなど云い、心得違いの説も出来たり。

夫れ微針の病を治する主意は、いかなる主意と云うことを先ず第一に心得るべきか。
凡そ人身の邪を受けるは、必ず皆宗気の虚に由りて然るなり。この事も聖人は邪の集まる所は、その気必ず虚すと云う。

又、風雨寒熱も虚を得ざれば、邪獨り人を傷ること能わず。などとも云う。

その外にも、諄々と叮嚀に説きおかれたり。
その宗気の虚と云うものは、即ち栄衛の阻滞也。元来 人身に針刺を行うは、肌肉へ竹木の刺(とげ)たちたると同じ分也。肌肉へ竹木の刺たつ時は、必ず痛を生じ(宗気に抵触すればなり)、痛を生ずれば、その所が必ず熱す(宗気これを排出さんと欲してここに聚まるなり)。
熱畜すれば、膿にに化し、膿化する時は、又腐潰して、膿汁出づ。膿汁出盡すれば、下より生肉を上げ、彼の竹木の刺は自ら出去る。
この道理をよくよく会得すべし。

人身中は元来一点の物も外より入れざる所が持まい也。
故に竹木の刺 入れば、宗気に触れて痛を生ず。且つ宗気が益々力を出して排出さんと欲する故に熱生ず。これを経には「神これに帰すれば則ち熱生ず」と説あり。

神とは宗気也。

さて、その熱、久しければ、血液腐熱して、膿化する也。
是の如くに手続きの次第よく揃う所の人身自然の良能とは云う也。

夫れ邪気、経絡に在りて、栄衛の順行を妨ぐれば宗気これが為に力を用いて、強く禦がんと欲する故に、必ず先ず発熱し、或いは悪寒す。悪寒する者は、邪気の侵入する也。発熱する者は、宗気が力を用いて、その邪を推し出さんと防ぐなり。
この合戦のことを古人も邪正相い戦いて、寒熱すと云いしなり。

もし宗気勝つことを得れば、邪気敗走して退く。故にその身も亦平穏に復す。
邪気の勢い極にして、宗気これに當たりがたき時は、防禦の力及ばずして、これを避く。宗気避けて禦がざれば則ち腠理開く。腠理開けば則ち邪気いよいよ勢を得て侵入するなり。
此の事を経にも「百病の始めて之を生ず也、必ず先に皮毛に於いて邪之に入れば則ち腠理開く。開けば則ち絡脉に於いて客する。留めて去らず、傳て経に入れば則ち臓腑に内連し、腸胃に散ず。」と説きしなり。

彼の正邪相争の時に當りて針が肌肉の中に入りて、宗気に抵触する時は宗気いよいよここに聚まり、憤激して力を出しこれを防ぐ故に邪気、竟に敗走する也。

然らば則ち微針の功は直にこれが邪気を駆逐して去らしむる者には非ず①。宗気を激発して針下に聚め、それが力を増して邪を駆逐せしむれば、宗気の為には、援兵加勢とも云うべき者が、人参附子を補薬とゆえども、彼の辛温の気味を以て、宗気に加勢して、その力を増さしむるの道理は同じ。

故に微針の能は補なり。瀉には非ず。
されども子細を論ずれば、陰中に陽有り、陽中に陰有りの道理にて、補中にも又補瀉有るべし。

但、その補瀉の両道を対待する時は微針を以て、補法となすべし。右(上記)にも言いし如く、微針の要は但、針下に宗気を致し聚めることを欲するのみ。宗気聚まり至れば、邪気は自ずから逃げ去ることを得る。

この義を経には「刺して気至らざるはその数を問うこと無く之を刺し、而して気至りて乃ち之を去り、復た針する勿れ」と説きたり。さてその宗気一たび至る時、邪気忽ち去りて、快復に●々の即効あり。故に古 聖人も「刺之要、気至而有効、効之信、若風之吹雲。明乎、若見蒼天」ともの玉いき(宣う)。
とかくにその宗気を手段に招く専一の職分なれば、是を補といわずして何哉②

さて又 瀉とは、三稜針にて絡脉を刺して瀉血するの類を云う。
故に員利針を以て毒水を去り、鈹針を以て膿汁を去るの類、盡(ことごと)く皆 瀉法也。

瀉は元来、多気血盛の實症に施すの術なる故に、存外の異功を顕すこと少なからず。
経に曰く、「迎えて之を奪う(迎而奪之)」、邪気の方に来たるは敵の熾に押し寄せ来たる如し。故に迎と云う。
奪と云うは、その血絡結絡を誅りて、その酷血を奪う也。

さてその血絡と云う者は、赤き者あり、黒き者あり。或いは紫黒にして細き縷(すじ)のむらむらとして肌肉上に見(あら)わるる也。
委中、尺沢などの處、常に多しといえども、定まりたる處はなし。

経に謂う所の、血絡は盛にして堅く、横に以て赤し。上下無常の處、小なる者は針の如く、大なる者は筋の如し。刺して之を瀉せば萬全也と云う者、是也。これ皆、栄衛の末梢に濁血滞りて、衛の細絡へ輸(おく)りかねて、在る者也。
結絡とは衛絡の結ぼれて、血有る者、青筋など云う者、即ち是也。
俱に皆、栄衛の経絡中に血の止まりて流通せざる者也。
この事を経に「結絡は脉結て血の行かず之を決すれば即ち脉行く」(霊枢陰陽二十五人篇)と説きたり。
又「必ず血を留める無し急に取りて之を誅する」(霊枢九鍼十二原)ともある也。

凡そ結絡を見ればその血を瀉す。初めは紫黒黯淡の悪血出て、これが漸く盡きて、生血にならんとすれば、乃ち止む者也。
この事を経にも「色変じて而して即ち止む」(出典未詳)と云えり。

又、その悪血の多き者は何ほど出るとも、懼れるべからず。悪血盡れば乃ち止む也。
故に経にも「其の血絡を瀉し(血を)盡れば殆からず矣(瀉其血絡、血盡不殆矣)」(霊枢禁服)と説きたり。

唯、その動脉の上、及び宗気の大會する所の處を妄りに誅して瀉血を行う時は、血出て止まざること往々あり。これ大いに戒慎すべきこと也。
これらの術は親しく其の口授を受けて、数度の場数を歴る者にあらざれば、容易に行う事尤も難し。

鍼と見えない氣の関係

この章は鍼師にとって非常に重要な内容である。鍼師は無形の氣を扱うことで治術を行う。
目に見えない、手に触れられない“氣”を拠り所に診断治療し、病者の苦痛を取り除くことは、有形の価値観のみに慣れてしまった現代日本人にとって困難なことだと思われる。

しかし不可視だからといって“氣”は存在しないわけではない。『霊枢』にあるように「有るが如く無きが如く」な存在である。
「若有若無」な存在だからこそ、分からない人にとっては本当に分からない存在となるのが“氣”である。
この理解し難い「鍼と氣」に関して、石坂氏は懇切丁寧に説いている。

不可視の氣と鍼の関係について説く医書が『針経』と呼ばれる『霊枢』である。この『霊枢』における本旨を重視しながらも、その流儀を説く鍼灸書として石坂流鍼術書は非常に貴重である。

鍼の瀉有りて補無しは本当か?

「鍼に瀉有りて補無し(無補有瀉)」という言葉がある。虞天民が『(新編)医学正傳』に記している言葉であるが、筆者の調べでは朱丹渓の『丹渓心方』(※)にもこの言葉を見つけることができる。

しかし、石坂氏は言う。鍼の中に補はある!特に圓鍼と毫鍼は補に特化した鍼である。と。

下線部①には「微針の功は直にこれが邪気を駆逐して去らしむる者には非ず」とあり、以下に続く文章では毫鍼の鍼効機序が非常に明瞭に記されている。
「宗気を激発して針下に聚め」「それが力を増して邪を駆逐せしむ」等々後に続く言葉や表現は石坂氏の鍼に対する信念や気迫が感じられ、反対に現代の日本の鍼がなんとも優しく、ややすれば遠慮がちな鍼にも感じられるのは私だけであろうか。
『氣とは見えないもの、故に分からないもの…』といった先入観を持つと、このような信念・気迫の不足しがちな鍼になりやすいと思われる。
故に往時の鍼医たちの言葉から、鍼や氣に対する世界観をできる限り読み学び触れておくことはとても重要だと思う次第である。

 

第3章「二瀉一補」に続く

二瀉一補

補瀉のことを細かに言えば、瀉に二法ありて、補は一法也。

何をか瀉に二法ありと謂うや?

曰く、先ず試みに形気と疾気との有余不足を以て言わん。
両方俱に有余の者は瀉しべきこと勿論也。
若し形気不足なりとも病気有余ならば、瀉せざることを得ず。
これを瀉に二法ありと云う。
形気有余にして病気不足のことは、勿論補うべし。
若し形気不足、病気も又不足ならば、これ陰陽ともに不足也。
仮(たと)えこれを補うとも、益なくして害ある也。
補は唯々 一法也。

この事を今の霊枢経の根結篇に形気不足・病気有余、これ邪の勝つ也。急に之を瀉し、
形気有余・病気不足の者は、急に之を補え。
形気有余・病気有余、これ陰陽ともに有余と謂う也。急にその邪を瀉し。
形気不足・病気不足、これ陰陽俱に不足也。
之を刺すべからず。と説きたり。

これを二瀉一補と云う也。

実践的な石坂氏の二瀉一補

二瀉一補という言葉は『霊枢』終始篇にある。本文(二瀉一補に関する解説は無いが)コチラ『霊枢』終始篇を参考にされたし。
人迎脈口診における補瀉のバランス・比率について論述している(と解釈されていることが多い)。

しかし本書で述べる石坂氏の「二瀉一補」は『霊枢』のそれとは違った意味合いとして二瀉一補を用いている。
まず人迎脈口脈診でいう陰陽の偏差に対しバランスを取るための二瀉一補ではなく、瀉法には二法あるとしている。

この瀉の二法として「形氣の実に対する瀉」と「病氣の実に対する瀉」とに試みに分けている。これを形氣を素体の虚実、病氣を病所の虚実として張志聡は註釈している。分かりやすく言うと「全体的な虚実」と「局所的な虚実」である。

病所は常に邪正相争が起こっている前提条件があるため、たとえ素体が虚証であっても、局所的に実証が起こるというパターンは十分にあり得るのだ。
故に石坂氏は瀉法には二法あるとして、二瀉一補を提唱している

また補はなぜ一法しかないのか?
形気不足、病気不足ならば陰陽ともに不足である。この場合『霊枢』では鍼すべからずと戒めている。

基本的に鍼は体内の氣を動かす術法である。手持ちの予算(正氣・生氣のこと)は限られているのだ。
寿命の蝋燭(ロウソク)の長さは誰にもつぎ足すことはできない。できるのは火加減であり、蝋燭の消費速度を調整することである。しかし実際には病氣の調整を図りながら、即ち患者の苦痛を緩和しながらの蝋燭の調整をすることは非常に難しいのだ…。

ともあれ、以上の鍼術観により「瀉は二法、補は一法」であるという石坂氏の言である、と私は解釈している。終始篇の二瀉一補とは趣きは異なる実践的な観点ではないかと思う次第である。
形氣と病氣について詳しくは『霊枢』根結篇の「形氣と病氣の違い」を参考にされたし。

 

鍼道五経会 足立繁久

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