杉山神社にお参り

7月の東京講座前の・ぶらり寄り道旅日記を今ごろになってアップします。

勉強会の前にチョット寄り道

私は撚鍼法も使うが、普段の臨床では管鍼法を圧倒的によく使う。
となれば、管鍼術の開祖、杉山和一先生にお礼をせねばなるまい…ということで!

7月東京講座の前にちょっと寄り道。訪問先は江島杉山神社。

江島杉山神社は別名「本所一つ目弁財天」
場所は、東京のJR両国駅から徒歩7~8分のところにあります。


江島杉山神社 正面の鳥居。
写真左下に酒瓶が入った袋は私のです…。

杉山和一が遺したもの、それは管鍼術だけなのか?


写真:杉山検校 頌徳碑(表)
※検校とは、盲人の役職で最高位の名称。

杉山流鍼治導引稽古所の設立は1682年、徳川綱吉の治世のころ。
これが世界初の盲人のための教育機関といわれる。

左右には遺徳濟盲一管鍼(右)天女窟裡夜放光(左)と刻まれている。

弁才天の岩屋の闇の中でみたのは一筋の光明であった。
杉山検校の遺徳は盲人を済(すく)い、管鍼術を伝え遺した。

…と、そんな感じの意味であろうか。

石碑に温知舎(温知社)の名が刻まれていた!


写真:読みにくいが…即明庵由来、一部を以下に抜粋する。

即明庵由来
管鍼術之祖、杉山和一師 深く江之島辨財天を信じ 将軍綱吉之待醫に備り
元禄六年 当所に町屋敷二千七百坪を賜う。乃(すなわ)ち社地九百八拾九坪に辨財天社を建つ。
検校の没後直(ただち)に門弟 恩師之霊牌所として即明庵を社側に建つ。残余の千七百余坪 即ち杉山屋敷なり。
後 惣録役所鍼治稽古所を此處に移す。明治以後、千歳町と呼稱す。
明治維新の際、盲官廃止、辨財天社地以外没収され、神佛分離の際 之を江島神社と稱す。明治七年七月村社に列す。
明治廿三年、当流同門の徒、温知舎を興し、明治四年廃絶せる杉山検校の霊牌所 即明庵を再興。杉山神社と稱す。…(後略)

とある。
途中省略してしまったが、まだまだこの先に杉山神社、ひいては杉山流所縁の人たちの多難と活躍が刻まれているのだ。
気になる方は、江島神社にどうぞ。

さて、この碑文の温知舎、これは温知社のことだろうか。

温知社とは山田業広(当時 済衆病院 院長)が、漢方医学復興と存続のため1880年に結成、明治十三年のことである。ちなみに温知社の初代社主が山田業広、二代社主は浅田宗伯であり、中心メンバーに森立之がいる。

明治廿三(23)年といえば、西暦1890年であり、温知社結成1880年の十年後のことである。
碑文にある「当流同門の徒、温知舎を興し・・・即明庵を再興。」ということは、
杉山流一門の中にも温知舎(温知社)結成に関与した人物がいて、即明庵の再興に尽力した御仁がいたのだろう…と推測する。

その人物はいったい誰なのか?医史学的にも非常に興味があるテーマである。

余りにも有名な杉山和一のエピソード

写真:中に進むと弁財天が祀られている。弁才天は技芸上達の神であるため、杉山和一は鍼術大成祈願を行をおこなったのであろう。

師に破門され激昂憤厲した杉山和一は、江の島弁才天の岩屋(洞窟)に籠ること、七日七晩。食を断じ行を行った。
「もし術成らざれば請う速やかに命を絶てよ!」と決死の覚悟で祈念し、
その帰途、松葉と竹筒からヒントを得、管鍼術を考案したエピソードは有名である。

医術(鍼術)の一流門派に入門するも、あえなく破門、挫折…。
その後、一念発起し、命を賭して洞窟に籠り、オリジナルの必殺技(必殺ではない必愈!)
神から授かった鍼術をひっさげ、世に出て頭角を現し、ついには将軍のご典医となる。
その後、世界初の盲人教育機関設立のきっかけともなる…。

【挫折・命をかける・オリジナル技・成功・世界初(盲人教育機関)・江戸~令和と後の世に伝承・日本だけでなく世界に広まる技術】

そんな杉山和一のサクセス・ストーリーは、ドラマの素材を十分もっている。
作りようによっては大河ドラマなどに取り上げられてもおかしくないのにな~と常々思うところ。

韓国のホジュン(許浚)やチャングム(大長令)は流行ったのだが、流行に敏感な日本人は自国の文化・伝統にはあまり価値を感じないことが多いですもんね。
華岡青洲といい、杉山和一といい、どちらも世界初なのに…。

写真:いわやみち

江の島弁才天の岩屋への道を再現した「いわやみち」寛政八年(丙辰)は西暦1796年のこと。杉山和一没後102年後にあたる。


写真:再現された岩窟

かなりの雰囲気をお持ちの岩屋。窟内では杉山和一像とそして宇賀神が祀られていた。

岩屋内の説明によると

宇賀神、ウガはウカ・ウケ等食物を表す語で、日本古来の穀霊信仰に根ざした食物神であり、神道の宇迦之御魂神と同一神といわれる。
音楽・学問・弁舌・福徳と幅広い御利益がある弁才天と習合したのは、農耕に深く関係する水神信仰によるものである。
弁才天の使いが白蛇といわれることから、宇賀神の姿が人頭蛇身になった。(一部略)

とあり、巳(蛇)さんが多く祀られていた。

岩屋内の撮影は控えさせていただいたため、手元に無い。
興味のある方はぜひ一度お参りされたし。

鍼灸師であるならば、神社参りだけでなく色々と勉強になるハズですよ。

※日曜日のため併設されている杉山和一記念館は休館。見学することはできませんでした…残念。

ちなみに『杉山和一先生にお礼参りせねば!でも関東は遠い…』と思う関西在住の方へ
杉山和一先生のお墓は高野山にもあります。参考記事はコチラ「杉山和一の墓所が高野山に」

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