種痘 こと始め -緒方春朔の偉功-

ワクチンの歴史を西洋と東洋で簡単におさらい

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のワクチン接種が始まりました。ワクチンに対する意見も賛否両論あると思います。高まる期待、そして反対意見と…それぞれの是非についてはいったん置いておきましょう。

今日はワクチンに関係のあるエピソードを文献から紹介したいと思います。

そもそも始めてワクチンが実施されたのは天然痘(痘瘡)に対してです。
1796年、イギリスのエドワード・ジェンナーが牛痘法を行ったことはよく知られています。

しかし、人痘接種法(牛痘法よりも危険性は高いとされている)はそれより以前に行われていた記録があります。
この人痘接種法はトルコでも行われていたようで、トルコに駐在していたモンタギュー夫人がその知識をイギリスに持ち帰ったという記録が18世紀初めに残されています。

しかし人痘接種は中国医学でもすでに行われていた記録があります。『種痘新書』(1741年)の自序には以下のような記述があります。

「余祖承聶久吾先生之教、種痘箕裘已経数代。」
余読余の祖は聶久吾先生の教えを承け、種痘を家業とし、すでに数代を経た。
※箕裘とは父祖の生業

そして種痘という名称および技法が使われ出したのが、この頃からなのでしょう。
そして、乾隆皇帝の命により編纂された『医宗金鑑』(1749年 刊)には種痘法の項目があり、その方法や注意事項について詳細に記されています。つまり国の事業政策として、すでに18世紀中頃には種痘法が実施されていたと考えられます。

日本に種痘法が初めて伝わったのは…

種痘法が日本に伝わったのは1744年、李仁山によって伝えられたとのこと。彼に学んだ日本人医師が郷里に帰り、人痘接種を実践し効果をあげていたそうです。(※)

さて今回紹介する緒方春朔は長崎にて学び、やはり郷里にて種痘法を行いました。その第1回の種痘の様子が実にリアルに『種痘必順辨』に記されています。読んでいて、今の新型コロナワクチンの接種状況を髣髴とさせるような気がするのは私だけでしょうか。

いつものように現代語訳はせず、そのまま書き写しさせていただきます。当時の状況を脳内再生しながら読んでみてください。
(※旧字や送り仮名は筆者の判断により修正を加えています)

※参考資料:酒井シヅ,日本における人痘接種の意義,第115回 日本医史学会(→リンク


※『種痘必順弁』画像は京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下、青枠内が本文です。

『種痘必順辨』始めて種痘を試むるの説

「始めて種痘を試むるの説」

我藩、寛政己酉の冬より痘疫流行して庚戌の春に至りて益々さかんなり。秋月の市中の酒家、坂田某なる者の家に痘あり。きわめて稀少にして順症也。故に其の落痂を乞うて納めて貯えて種痘せること欲すれども、我家に試むべきの児無く、未だ熟せざるの術、他に施すべきに非ず。
空しく痂を蓄えるのみにして日過ごせり。一日郭南上、秋月の郷、大保生 天野某なるもの来たり、予に語りて曰く。曽(かつ)て足下種痘の説を為(な)せり、今痘既におこなわる、之を試むるや否や?と。
予、答るに前意を以てす。天野曰く、我 二子、僥倖に未痘。此の児に試みんことを乞う。
予、堅く之を辞す。
天野ひたすらに請うて不已(やまず)。予責めて説きて曰く、種痘何ぞ試することを恐れんや。只應ずると不應との間試るのみなり!假令(たとえ)應ぜずと雖も害をなすに至らんや。應ずるに至らば、後来幾ばくの人の益にか有らん!と頻りに説いて之を求む。予も其の理について諾し、同二月十四日、苗を下すの日たり。故に痂を懐にして、其の家に至り、詳らかに望聞問切するに全身満足 正に種すべきの時なり。
故に巳の中剋(刻)に至りて二児共に苗を下しおわりて、期して至るを俟(ま)つ。一七日(1週間)に至る廿日(二十日)の薄暮に二男 熱を発するの旨を告げ来たる。
行きて之を診するに頭痛し鼻塞がり声重くして、恰も風寒に感冒する者に似たり。故に先ず表解の剤を投じて帰る。

翌廿二日(ということは、20日は泊まり、21日に処方して帰ったということか)の暁より長女も又 発熱すと告げて速かに行きて之を候うに少男の候に異なること無し。故に主に語りて曰く、二男共に此の如く若しくは種痘應験ならん歟。
主の曰く、何れの疑うことあらん。我、素より他の病せずと、自らことを極めて他の言をいれず。種痘已に成れりと大いに喜ぶ。
三日にして両児 偕に痘形を見(あらわ)す。稀疎平順にして十一日に至りて収靨(しゅうよう)す。
主大いに歓して諸客を會し肉を阜(おか)と酒を泉と為して大いに宴を設けて賀せり。同邑の長、本田某なるもの 予に告げて曰く、我家 痘せざるの児多く、願くば種痘を作らん。天野も又頻りに進むといえども、予以為(おもえらく)此の二児の痘、必ずしも種痘と為す可からざらんか。其の故は今、痘疫もっぱらに行わる矧(いわん)や此の家の親戚皆 痘有り。郭村所を隔つといえども信(たより)日々に通ず。故に其の痘気を傳えて此れ等の痘をなすに至れりと疑いて決せず。

天野 本田共に予の言を用いず、廿二日終に其四児に種痘す。
一七日にして皆 発熱して三日をへて出痘す。稀順、前の二児に異なることなし。予も又ここに至りて種痘の應験あることを知る。

此の術、中華と雖も近(近世との表記の版あり)に至りて行わる、いわんや我国に於るをや。人更に知ることなし。近ごろ偶(たまたま)此の術あることを聞くと雖も、其の真術を眼前に見るものなし故に之を為も人疑いて信ぜざることを計り同曹の医官、江藤養泰なるものをして此の四児の痘を見せしむ。養泰の児をして甚奇として賞歎し、同月廿七日、下苗の日なるを以て終に自ら少女に施す事よりして後、同藩の侍医、皆自家の児に種痘す。
医家既に此の如き故に官家より商家農家に至りて二月より三月清明の節に至るの間に種痘するもの凡そ一百有余。一児も面上瘢痕を残すの痘無し。
衆人 目のあたり之を見るといえども禍(「福」さいわいと作す版あり)と為す反って忌み嫌い、誹謗する者又すくなからず。医家といえども未だ信ぜざるものあり。嗚呼、人心の狐疑することや甚し。

種痘大いに生霊に益あるの術なるを以て乾隆の聖帝自ら撰む(撰ぶ)所の金鑑(医宗金鑑)に著してひろく衆を救わんと法を後世に垂る。豈に無益の術ならんや!
金鑑曰く、種痘一科、口傳心授多く、方書には末だ載せず。恐らくは後人視て虚誕の詩と為し、相沿すること日久しく、考稽する所無く、至理良方をして竟に無用の地に置かしむる。神功漂没、豈に大いに惜しむ可らざらん哉!中土(中華・中原)といえども宋より以後始めて此方あつて幸いに児をして仁壽の域に躋らしむるの一具を起こせり。
和邦も亦、漸く此の術に馴致して衆人皆信用の日に至らば天下の児、痘に斃れる者恐らくは半に減ぜん。

1789年(寛政己酉の歳)に秋月藩(今の福岡県の小藩)にて痘瘡(天然痘)が大流行したという話からスタートします。

秋月藩の市中、酒家さんに痘瘡に罹患した人がいる話、その人はまだ軽症であること。
また疫病の流行に備えて、安全性の確認は不完全とはいえどうしても予防接種を受けておきたい!という人(天野さん)が来訪してきます。
天野さんの二人の子にこの予防接種(種痘)をしてくれ!と一心に緒方先生に頼み込んでいる様子が強く伝わってきます。

文中の「苗を下す」とは接種のことで、天然痘を発症した痘瘡から病原(天然痘ウイルス)を採取して、それを種痘に用います。いわゆる生ワクチンです。
苗にも四種あり、「衣苗」「漿苗」「水苗」「旱苗」と分類されていました。詳しくは『種痘必順辨』をご覧ください。苗ごとの違い、その軽重、そして接種後の人体における発症機序が、その当時の医学観を基に記されています。ちなみに緒方春朔は胎毒説を採用しているようです。

さて、接種後の子ども達はどうなったか…。一週間後、男児が発熱した!と知らせが来ます。
望聞問切を基に証に随い適切な処置を行いますが、その間 緒方先生の心中はいか程であったことでしょう。読んでるこちらがドキドキします。

日にちの経過と共に痘形(天然痘の所見)が現れてくるのですが、見事に軽症のままに11日で収まるという結果となりました。
この時「稀疎平順」という言葉を用いて、痘瘡が現れる勢いが稠密でなかったことを表現しています。

さて、ここから種痘成功の宴が始まります。この時の沸き上がる喜びを抑えつつも安堵した緒方先生の心情がやはり文章から垣間見える気がします。

種痘の効果と安全性が確認された後は、医官・商家・農家と種痘を行う人々が増えてきました。
しかしそれと相反して、種痘そのものを忌み嫌い、果ては緒方先生を誹謗する者まで出てきます。このような一部の反対意見が生まれるのもまた、今も昔も同じく、そしてワクチンに限ったことでもないのでしょう。

最後は緒方先生のやるせない気持ちが全面に出てくる文章となっています。

順序は逆になりますが「種痘必順辨自序」を紹介します。

■書き下し文「種痘必順辨自序」

夫れ痘者、生死の関わる所、最も重し。之を上にして王侯 貴族、之を下にして閭閻 郷黨、一生一発にして免れること能わざる所也。然れども其の険逆なる者多く、順吉なる者は少く、天下 之が為に斃れる者、尠からざること為さず、歎くべきこと甚しき哉。
抑(そもそも)清朝の乾隆帝中に、諸臣に命じて『医宗金鑑』を纂修して、篇中に種痘の法を載す。
其の説に曰く、渺茫に似たりと雖も理を以て之を撥し、実に参賛する化育の功有らん。慈幼の術に於いて、鴻宝と謂うべき也。
正に是、乾隆徳化の致す所にして大いに後世において益有り。此の書の吾が邦に来たること宝暦二年(1752年)今を距ること四十二年、未だ曽つて試み用いる者有らず。噫(ああ)、崑山の玉を取らざれば、何の光輝有らん耶。
予、之が為に心を苦しめ意を刻むこと有年、往歳 崎陽に寓して其の原を探り、其の理を窮めて以って痘疫の至るを俟つ。
我が藩、寛政己酉(1789年)の冬に痘行わる。始めて種痘を試むる者、六七兒。皆その応、響の如し。其の痘も亦(また)稀少にして順候也。以来、癸丑の歳に至り、種痘を得る者は三百余家、四百児。一(一人)も稠密蠶種の患は見(あらわれ)ず。
奇なる哉、妙なる哉。嗚呼、造化の機は、掌握中に有る也。
経に曰く、聖医は未病を治す、適(たまたま)此れを謂う。
本朝、昌平の日久し。百藝、日に精(くわし)く月に審にして治術大いに成る者は実に昭代の徳澤也。
蓋し種痘なるは、人 其の法の奇なる怪しとして信ぜざる者頗る多し。故に『種痘必順辨』を著して、録するに国字を以てす、而して文辞の鄙陋なるを厭わざる者は、寒郷幽僻の人をして其の理を通暁せしめんとし、幸いに危痘夭折の難を免れんと欲する也。
諸海内に苞苴して、庶幾(こいねがわくば)天下の児をして寿域に躋るの一助(とならんことを)因りて此に記し、以て巻首を題す。

寛政癸丑春分日筑前秋月醫官 濟菴緒方原混卿 撰

「造化の機、掌握中に有り!」の言葉は、理を得てそれが実際に成果を再現し証明できた時の緒方春朔の達成感や喜びが伝わってくる言葉です。
そして、まだまだ日本では馴染みのない種痘法に偏見の目を向ける者、奇異に思う者も多かったことでしょう。
そのためこの書『種痘必順弁』が日本全国津々浦々に広まることを祈念してもいます。

このような時世だからこそ、このような文献を読むと単なる古文ではなく、疫病に恐れ苦しむ人、医療に携わる人、それでも不安に駆られる人々の気持ち…等、よりリアルに感じることができるのではないでしょうか。

鍼道五経会 足立繁久

■原文「種痘必順辨自序」

夫痘者生死所関最重矣。上之王侯貴族、下之閭閻郷黨、一生一發所不能免也。然其險逆者多、順吉者少。天下為之斃者、不為不尠、可歎甚哉。抑清朝乾隆中、命諸臣纂修医宗金鑑篇中載種痘之法。其説曰雖似渺茫以理撥之實有参賛化育功矣。於慈幼之術、可謂鴻寶也。正是乾隆徳化之所致而大有益于後世矣。此書之来吾邦寶暦二年距今四十二年、未曽有試用者。噫、崑山之玉不取、何有光輝耶。
予為之苦心刻意有年、往歳寓崎陽、探其原、窮其理、以俟痘疫之至焉。
我藩寛政己酉冬、痘行焉。始試種痘者六七兒、皆其應如響、其痘亦稀少而順候也。以来至癸丑歳、得種痘者三百餘家、四百兒。一不見稠密蠶種之患矣。奇哉、妙哉。嗚呼、造化之機、有掌握中也。
経曰、聖醫治未病、適謂此乎。本朝昌平日久矣。百藝日精月審、治術大成者實 昭代之徳澤也。
蓋種痘者、人怪其法之奇而不信者頗多。故著種痘必順辨、録以國字、而不厭文辭之鄙陋者欲使寒郷幽僻之人通暁其理、而幸免危痘夭折之難也。苞苴諸海内、庶幾、令天下之兒躋壽域之一助乎。因記此、以題巻首。寛政癸丑春分日筑前秋月醫官 濟菴緒方原混卿 撰

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