霊枢 本神篇第八の書き下し文と原文と

霊枢 本神篇のみどころ

本篇 本神では、五神についての記述がある。
精神意魂魄は五神または五志として総称され、各五臓に蔵されている。

しかし、これら五神(精神意魂魄)はどのように生じてきたものなのか?
この点に対して言及しているのが、本神の内容である。

天の徳が流れ、地の氣が薄(せま)ることを前提条件とし、
生が来たるには精が必要であるという。
この徳・氣そして精という三要素にも天地三才の思想を髣髴とさせるものがある。

そして関与する精は二つある。両精相い搏つことで神が生まれる。
この精と神を起点に魂魄が生じ、心意志思…と精神の骨格が形成されていく。

いわば、東医的な発生学ともいえる内容である。
この東医的発生学は、経脈篇第十の「人始生成精、精成而脳髄生、骨為幹、脈為營、筋為剛、肉為墻、皮膚堅而毛髪長、穀入於胃、脈道以通、血氣乃行。」に続くと考えることも可能であろう。

『霊枢講義』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

『霊枢』本神第八

黄帝が岐伯に問うて曰く、凡そ刺の法、必ず先に神を本とする①
血脈、營氣、精神、これ五藏の藏する所也。
それ淫泆して藏を離るに至るときは則ち精を失う。
魂魄飛揚し、志意悗乱し、智慮の身を去る者は、何に因りて然らしむる乎?
天の罪と人の過ちか?
何をか徳氣は精神、魂魄、心意志思智慮を生ずると謂うのか?
請うその故を問わん。
岐伯答えて曰く、天の我に在るは徳なり、地の我に在るは氣なり。
徳流れて氣薄(せま)って生ずる者なり。
故に生の来たるこれを精と謂う、両精相い搏るこれを神と謂う。
神に隨いて往来する者、これを魂と謂う、
精に並びて出入する者、これを魄と謂う。
物に任ずる所以の者、これを心と謂う、
心に憶する所あり、これを意と謂う、
意の存する所、これを志と謂う、
志に因りて存變する、これを思と謂う、
思に因りて遠く慕う、これを慮と謂う、
慮に因りて物に處する、これを智と謂う。
故に智なる者は生を養う也、必ず四時に順じて寒暑に適し、喜怒を和して居處に安んじ、陰陽を節して剛柔を調える。
これの如くなれば則ち邪を僻けて至らせず、長生久しく視る。これの故に怵惕思慮する者は則ち神を傷る、神傷れるときは則ち恐懼、流淫して止まず。
悲哀に因りて中を動ずる者、竭絶して生を失う。
喜楽する者は、神憚散して藏せず。
愁憂する者は、氣閉塞して行らず。
盛んに怒る者は、迷惑して治せず。
恐懼する者は、神蕩憚して収せず。
心、怵惕思慮すれば則ち神を傷る、神傷れるときは則ち恐懼自失す、㬷破れ肉脱し、毛悴し色夭して、冬に死す。
脾、愁憂して解けざるときは則ち意を傷る、意傷れれば則ち悗乱す、四肢は挙がらず、毛悴し色夭して、春に死す。
肝、悲哀して中動ずれば則ち魂れる、魂傷れれば則ち狂忘して精せず、精ならざれば則ち正ならず、當に人陰縮して攣筋し、両脇骨挙がらず、毛悴し色夭して、秋に死する。
肺、喜楽すること極まり無ければ、則ち魄傷れる、魄傷れるときは則ち狂す、狂する者は、意、人を存せず、皮革焦げ、毛悴して色夭して、夏に死す。
腎、盛んに怒りて止まざるときは則ち志傷れる、志傷れるときは則ち喜(しばしば)その前言を忘れる、腰脊以って俛仰屈伸すべからず、毛悴し色夭して、季夏に死する。
恐懼して解せざれば則ち精を傷る、精傷れるときは則ち骨痠痿厥し、精、時に自ずと下る。
これの故に五藏は精を藏することを主る者也、傷るべからず、傷れるときは則ち守りを失いて陰虚する、陰虚すれば則ち氣無し、氣無くせば則ち死する矣。
これの故に鍼を用いる者は、病人の態を察し観て、以って精神魂魄の存亡、得失の意を知り、五者以って傷れば、鍼以ってこれを治すること不可なり。肝は血を藏し、血は魂を舎す、肝氣虚すれば則ち恐れ、實すれば則ち怒る。
脾は營を藏し、營は意を舎す、脾気虚すれば則ち四肢不用、五藏不安、實すれば則ち腹脹し、経溲不利。
心は脈を藏し、脈は神を舎す、心氣虚すれば則ち悲しみ、實すれば則ち笑して休まず。
肺は氣を藏し、氣は魄を舎す、肺気虚すれば則ち鼻塞不利、少氣し、實すれば則ち喘喝し、胸盈し仰息す。
腎は精を藏し、精は志を舎す、腎氣虚すれば則ち厥し、實すれば則ち脹して、五藏安からず。
必ず五藏の病形を審らかにし、以ってその氣の虚實を知り、謹しみてこれを調う也。

鍼の本旨は神を本とする

「刺の法は先ず神を本とする」

この言葉は『素問』『霊枢』における鍼法として重要な理である。
多様な刺法、九つの鍼があるが、突き詰めると「神を本とする」ことが鍼の本旨なのだ。

では「神を本とする」にはどうしたらよいのか?
『素問』『霊枢』は、各論篇に於いて様々な言葉や表現を用いて伝えようとしてくれている。

本篇では次のような言葉が続いている。
「血脈営気精神は五臓が蔵するもの」
「神を本とする」ためのひとつの方法論として五臓が蔵するこれらの要素を調和させることである。

個人的には根結篇第五の「…調陰與陽、精氣乃光、合形與氣、使神内藏。」が端的で分かりやすかったが、
その理解を踏まえて読むと、なるほどとも思える。
根結では陰と陽、有形と無形であった観念が、血脈営気精神とより具体性を示されてきたといえる。
また、ここで衛気には触れられず営気と表記されている、この意図も理解すべき点であろう。

官鍼篇第七 ≪ 本神篇第八 ≫ 終始篇第九

『霊枢』本神第八

■原文 霊枢 本神第八
黄帝問於岐伯曰、凡刺之法、必先本于神。血脈營氣精神、此五藏之所藏也。至其淫泆離藏則精失。
魂魄飛揚、志意悗乱。智慮去身者、何因而然乎?
天之罪與人之過乎?
何謂徳氣生精神魂魄、心意志思智慮?請問其故。
岐伯答曰、天之在我者徳也、地之在我者氣也。徳流氣薄而生者也。
故生之来謂之精、両精相搏謂之神。
隨神往来者謂之魂、並精出入者謂之魄。
所以任物者謂之心、心有所憶謂之意、意之所存謂之志、因志而存變謂之思、因思而遠慕謂之慮、因慮而處物謂之智。
故智者之養生也、必順四時而適寒暑、和喜怒而安居處、節陰陽而調剛柔。如是則僻邪不至、長生久視。是故怵惕思慮者則傷神、神傷則恐懼、流淫而不止。因悲哀動中者、竭絶而失生。
喜楽者、神憚散而不藏。
愁憂者、氣閉塞而不行。
盛怒者、迷惑而不治。
恐懼者、神蕩憚而不収。
心怵惕思慮則傷神、神傷則恐懼自失、破㬷脱肉、毛悴色夭、死于冬。
脾愁憂而不解則傷意、意傷則悗乱、四肢不挙、毛悴色夭、死于春。
肝悲哀動中則傷魂、魂傷則狂忘不精、不精則不正、當人陰縮而攣筋、両脇骨不挙、毛悴色夭、死于秋。
肺喜楽無極、則傷魄、魄傷則狂、狂者意不存人、皮革焦、毛悴色夭、死于夏。
腎盛怒而不止則傷志、志傷則喜忘其前言、腰脊不可以俛仰屈伸、毛悴色夭、死于季夏。
恐懼而不解則傷精、精傷則骨痠痿厥、精時自下。
是故五藏主藏精者也、不可傷、傷則失守而陰虚、陰虚則無氣、無氣則死矣。
是故用鍼者、察観病人之態、以知精神魂魄之存亡得失之意、五者以傷、鍼不可以治之也。
肝藏血、血舎魂、肝氣虚則恐、實則怒。
脾藏營、營舎意、脾気虚則四肢不用、五藏不安、實則腹脹、経溲不利。
心藏脈、脈舎神、心氣虚則悲、實則笑不休。
肺藏氣、氣舎魄、肺気虚則鼻塞不利、少氣、實則喘喝、胸盈仰息。
腎藏精、精舎志、腎氣虚則厥、實則脹、五藏不安。
必審五藏之病形、以知其氣之虚實、謹而調之也。

鍼道五経会 足立繁久

 

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