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石坂流の鍼術書を読むの再開
石坂流鍼術書を読むシリーズ『九鍼十二原鈔説 補瀉迎随要略』続編、かなり久しぶりの更新になります。
(前回記事は昨年夏にアップしていますね…汗 前回記事はコチラ『九鍼十二原鈔説』その1)
2020年のご挨拶にも触れましたが、石坂流鍼術書を通じて衛気と営気のイメージが進みました。
衛気・営気の理解が得られると、当然ながら診法と鍼法の理解も進みます。今の脈診を始めとする診察法の問題点も見えてきました。そのおかげで鍼灸の補瀉論も自分なりにかなりまとまってきたと言えます。
ということで『九鍼十二原鈔説 補瀉迎随要略』後半を紹介しましょう。
写真:『九鍼十二原鈔説』(臨床実践鍼灸流儀書集成12・オリエント出版社)より引用させていただいています。
有形と無形の両方を感じとる必要がある
その往来を知り、要と之を期す。麤は之に闇し。妙なる哉、上は獨り之有り。往来は気の往来也。前に云う「其の来 逢うべからず、其の往 追うべからず」者也。
その往来の微を知りて、来る者は迎えて之を奪い、往く者は追って之を済う。
補瀉の術、その期 的を失はざる如くなれば、如何なる疾も治する也。
麤工はここの處に闇(くら)きゆえ、妙なる療治は出来ぬ也。
故に只 其の妙術は獨り上工のみ之有りと云えり。
※『霊枢』では工獨有之。ですが『鍼灸甲乙経』巻五 鍼道第四では“工”を“上”としています。
氣の往来を知らなければ妙なる鍼術はできません。
しかし、初学者が行う鍼術は触覚に頼っています。
鍼という物体・金属という物質を把持し、患者さんの肉体に触れる…有形である物質的触覚を頼りにしている間は、無形である氣の往来は分からないと思います。
触覚と氣の往来、有形と無形の両方を並行して感じとる必要があります。
一見、難しいようにみえるかもしれませんが、武術・スポーツ・芸道など、一つの事にやり込んだ経験のある人なら、すでに体験している感覚だともいえます。
往く者を逆とし、来る者を順とする。明らかに逆順を知り、正行して而問う無し。往者とは宗気の往く去る也。虚となし脱となし、離となし逆となす。
来者とは宗気の来たり至る也。實となし盈となし、吉となし順となす。
これを以て之を診るに、
虚者はその精気の衰うるを知り、脱者はその病の陥なるを知り、
離者はその死を知り、逆者はその難治を知る。
実者はその邪の熾なるを知り、盈者はその病の進むを知り、
吉者はその死せざるを知り、順者はその治し易きを知る。
明らかにこの順逆を心得て、さてその補瀉迎髄進退の法に従い、正しくこれを行いて、他に問うことなかれと也。
この如くなれば、死生吉凶進退逆順の理に明らかなる故、如何なる難症痼疾に臨むと雖も、規矩己に備わりて、治術自ら錯(あやま)らず。多くに益々辨じて尚餘裕ある也。
前段は全体的にみた氣の往来ですが、ここでの往来はまた各論的に説いています。
“往(ゆ)く”を逆とし、“来たる”を順としていますが、宗気が往くことが逆で、宗気が来たるを順としています。
文にある通りですね。
陰陽とは単一のものを示すメタファーではない
逆へて之を奪う、悪に虚すること無きを得ん。追(したがって)之を濟(ととの)う。悪に實すること無きを得ん。邪気の来りて盛んなる者を實とす。實する者は迎えて之を瀉し、以て虚せしむべし。
故にその来たる者を迎えて、その實邪を奪えば、必ずこれを虚せしむる也。
宗気の往き去りて衰うる者を虚となす。虚する者は補て是を實すべし。
故にその往する者は随いて是を濟えば、必ず是を實せしむべし。
是、補瀉迎髄の簡要なる所にして、よくこの意を推し廣めて詳らかにすれば、一言を以て之を盡すとも謂うべし。
冒頭のフレーズ「逆而奪之(逆らいて之を奪う)」という表現、
これは霊枢では「迎而奪之」とあります。「迎えて之を奪う」の方に馴染みを感じる人も多いでしょう。
さてご存知の迎随補瀉ですが、迎随といえば『難経』七十二難を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?
迎随は「経絡の流れに沿わない or 沿うを迎随」とし、沿う=随う=補、沿わない=迎=瀉としています。
「迎えて之を奪う」より「逆らいて之を奪う」の方がストレートな印象を受けますね。
迎而奪之には逆らうとは別のニュアンスも含まれているかもしれませんね。
異なるニュアンスといえば、扁鵲はどのような迎随を主張していたのでしょうか?
参考までに『難経』七十二難を紹介しておきますと
何の謂いぞや?
然り、所謂迎随という者は、榮衛の流行、経脈の往来也。
其の順逆に随いて之を取る。故に迎随と曰う。
調氣の方 必ず陰陽に在りとは、その内外表裏を知る。
其の陰陽に随いて之を調う。故に調氣の方と曰う。必ず陰陽あり。
迎随に説明に、陰陽・内外・表裏と言葉を用いており、単に経脈流行の順逆だけを指摘しているのではないことが分かります。
営気と衛気、経脈の陰陽、人体の内外…対比させる要素はまだまだあります。
陰陽という言葉が出ている時点で、単一の対比を示唆しているのではないと考えます。
迎と随で陰陽、さらに“和”という要素
之を迎え之に随い、意を以て之を和すれば、鍼道畢わる矣。右(上記)の如く、虚する者は随いて之を補い、實する者は迎えて之を奪う。
迎随の法、よくその病の虚實に當り、
その上にて尚 醫者の意を用いて、過不及のなきように、調和して治術を施せば、鍼刺の大道、簡要なる者、是にて大概畢らんとなり。
尚 その義は後條を逐いて説くを看よ。
迎随の本旨を理解すれば、鍼道は究め尽くされる…とのこと。
となると、やはり経脈流行の沿う・沿わないだけの問題ではないとも思えます。
人体は経脈だけで構成されているのではないのですから。
とはいえ、鍼治・鍼道は経穴・経脈から始まります。営衛の流れ、経脈の流行は大事です。
矛盾した文になりますが、畢竟するには矛盾した表現を使わざるを得ません。
経脈に鍼したその先を如何に観想できるか?ということが肝要だと思います。この点、難経七十二難の文章は参考になります。
また「以意和之、意を以て之を和す」
非常に考えさせられる言葉です。意とは?和するとは?
この理解によって、畢く鍼道を網羅できるかがかかってくるのでしょう。
鍼術の四法
凡用鍼者、虚則實之。満則泄之。宛則除之。邪勝則虚之。
凡そ鍼を用いる者、虚すれば則ち之を實し、満すれば則ち之を泄らし、宛すれば則ち之を除く。邪勝てば則ち之を虚す。
凡そ針を用いるの法、四法に過ぎず。
精気虚する者は補いて之を實し、
満する者は泄して之を疎し、
宛陳とて病毒積久にして鬱する者は、除きて之を去る。
邪気精気に勝ちて實する者は虚して之を奪う。
此れの如く虚實泄除と四法に分かつと雖も、泄除ともに虚法に属すれば、約する處は虚実の二法のみ。
前段の鍼道は迎随にあり、和することにあり…と迎随二方、そして三つの方と説かれていましたが、
本段では四法と展開されています。
すなわち虚・実・泄・除の四法です。
そしてまた虚実の陰陽とまとめ、2から3から4、そして陰陽へと集約させています。
九鍼の最妙
大要曰、徐而疾則實。疾而徐則虚。言實與虚、若有若無。虚實之要、九鍼最妙。
大要に曰く、徐にして疾くすれば則ち實す。疾くして徐にすれば則ち虚す。實と虚を言う(に)、有るが若く無きが若く。虚實の要は九鍼の最妙なり。
大要と云る、上古の書(今は亡いたり)に載せたるには、
鍼を内れて徐々とゆるやかに遊ばしめ、熟(うま)く其の気の至るを待ちて、疾く其の針を引き、疾くその針穴を按するを實となし、
疾く針を内れて、放(ほし)いままに動揺せしめ、徐々と引きて其の針穴をも按せざるを虚法となすとあれども、
一針を以て虚と實との術を言うこと、有るが若し無きが若し、甚微にして顕著ならざるに似たり。
因りて九鍼とて、九の通りの針を製して、その針に由りて自ら虚實補瀉の出来るように、為したれば虚実の肝要なることは、九針の最も妙なるには如かずと也。
虚実補瀉の要を説いています。
徐疾補瀉と開闔補瀉について説いています。
テクニック的な話はご存知の通りなので割愛しますが、
有るがごとく無きがごとく、氣とはそのようなものです。
「有るようで無いようで…」有ると言ってしまえば、氣は有るのです。
でも、無形の氣のみに引っ張られているだけでは、それもまた良くないのです。
有るがごとく無きがごとく、良い表現です。
また九鍼という言葉が登場していることから、広い視野を持って読むべきだとも思います。
つい毫鍼における補瀉をイメージしますが、
もし鍉鍼や浅刺を主とした補瀉に置き換えると、どのようなイメージができるか?いろいろと応用が利くお話だと感じました。
少なくとも私にとっては押手のヒントになりましたね。
ちなみに『九鍼十二原鈔説』ではオリジナルより若干カットされているようでして…。
『霊枢』九鍼十二原では、もう少しあります。
「大要曰、徐而疾則實、疾而徐則虚。言實與虚、若有若無。察後與先、若存若亡。為虚為實、若得若失。虚實之要、九鍼最妙」とあり下線部の部分も通覧するとより分かりやすいと思います。
「先と後を察し、存るがごとく亡きがごとく、虚と為し実と為し、得るがごとく失うがごとく…」
有るがごとく無きがごとく…のみで読むよりもなんとなく理解しやすくなるのではないでしょうか。
あともう少し続きます。
石坂流鍼術書の記事はコチラ
第1回『宗榮衛三氣辨』
第2回『医源』
第3回『石坂流鍼治十二條提要』前半
第4回『石坂流鍼治十二條提要』後半
第5回『九鍼十二原鈔説』①