医源 石坂宗哲

石坂流の書、第2弾は『医源』の書き下し文です。
当会の石堂文庫(私の足立の大先輩、石堂智行先生にお貸しいただいた書籍)から拝借しております。

石坂流は独特の氣の概念を持つようだ…と、前回記事で書きましたが、『宗榮衛三氣辨』にもあるように、宗氣の概念が特徴的です。

内経にある宗氣

『素問』平人気象論には以下のような記述があります。
「胃の大絡、名を虚里と曰う。鬲を貫き肺に絡す、左乳下に出る。その動、衣に應ず。脈の宗氣なり。盛んに喘して数々絶する者は則ち病、中に在る。結して横なるは積有り。絶して至らざるを死と曰う。乳下にその動、衣に應ずるは宗氣の漏れなり。」

そして『霊枢』邪客には次の記述。
「伯高曰く、五穀は胃に於いて入る也。それ糟粕、津液、宗氣の3つに分かれる。故に宗氣は胸中に積む。喉嚨に出て、真心脉を以て呼吸を行らす。」

「宗気は胸中に積む」という表現はよく知られています。が、これより詳細な宗氣の解釈が見受けられない気がするのは私だけでしょうか(まだまだ勉強が足りませんね)。

しかし、石坂流では「内経にいう元氣、真氣、精氣、神氣、陽氣、大氣はみな宗氣の別称である」と言っています。賛否両論はあるでしょうが、どのような論拠なのか?まず読んでみましょう。新しい身体観が得られるかもしれません。

『医源』本文

『医源』(本文より)

脳髄は精神を出す、之を宗氣と謂う。
内経に曰く、脳は髄海と為すは頭髄也。髄は脊髄なり。頭脳脊髄は宗氣の源也。脳と髄とに出て、胸中に積み、一身に周し、故に曰く、頭氣に街あり、胸氣に街あり、腹氣に街あり、臂氣に街あり、脛氣に街あり。皆 宗氣の會聚する所なり。内経に曰く、元氣、真氣、精氣、神氣、陽氣、大氣とは皆 宗氣の別称なり。
宗脉と曰う者は、精神の道する所也。夫れ人々は已に具して而して已に知らず之を用と為す者は、精なり。故に経に曰く、夫れ精は身の本なり。又曰く、人始めて生ずるに先ず精を成す。又曰く、常に身に先にして生ず。蓋し人の生長する也。精熟して而して神生ず矣。故に経に曰く、精を積み神を全うす。又曰く、精は乃ち神を養う。又曰く陰は形を成し、陽は氣を化す。神は外の衛(まも)り也、已に具して而して已の使用に供する者也。精は陰也、神は陽也。精神合して、心志治まる。故に経に曰く、精神合し得て而して精明なり。
予、故に曰く、心とは精神魂魄、和合の名也。神に随いて而して往来する者、之を魂と謂う。精に並びて出入する者、之を魄と謂う。任ずる所以の物に者の之を心と謂う。知るべし、魂魄心の三つの者は形無くして而して精神は形有る。故に経に曰く、天、人に食むるに五氣を以てし、地、人に食むるに五味を以てす。
又曰く、神不足の者、之を温めるに氣を以てし、精不足の者、之を補うに味を以てす。
乃ち水穀、口に入り、胃に納る。上焦、氣を出しこと霧露の漑(ひたす)が如し、以て神を養う。中焦、味を蒸して汁を取る、以て精を養う。穀盛んなれば精神盛ん。穀虚すれば精神虚する。故に経に曰く、五穀 胃に於いて入る也、その糟粕津液宗氣、分れて三隧と為る云々。然れば則ち脳髄、宗氣を生ずと雖もその源淵は則ち胃と腸に在ることを知るべきなり。
解剖家曰く、意識、神経、内経の謂う神なり。曰く、運化、神経、内経の謂う精なり。精神の道する所、行に経紀有り。周に道理あり、その細絡の毫毛の如きなる者、下焦と和して蒸蒸と躯体を謝し去る也。

心臓、血脉を出納する、之を榮衛と謂う。
榮は動いて而して出る、脉中を行くこと循環たり。脉脉と動て而して居らざる也。経絡、別絡、孫絡、支絡、細絡あり。内より外に達す。解剖家、目して動脈と曰う者、是なり。
衛は動ぜずして而して入る。脉外を行くこと、その行に節あり。亦、経絡、別絡、孫絡、支絡、細絡あり。外より内に入る。解剖家の目して静脈と曰う者、是なり。
蓋し榮は心臓の左方に出づ。乃ち大衝脉なり。その源は経と為し、その末は絡と為す。衛、榮の終わる所に起きて、而して逆行して胸腹に於いて會し、心臓の右方に入る。その源は絡と為し、その末は経と為す。故に榮衛、互いに終始して而して経絡相い受授す。環の端の無きが如し。順にして降りる者は、榮なり。猶 天氣の下降するが如し也。逆にして升る者は衛なり。猶 地氣の升騰する如し也。
故に経に曰く、往く者を逆と為し(衛也)、来る者を順と為す(榮也)。明らかに逆順を知り、正行して間すること無し。
又曰く、人の血脉精神は生を奉りて性命に於いて周する者なり。後人、宗榮衛三つの者は何物と為ることを知らず、内経を読み内経を注する者は、猶 孝弟(孝悌)を辨ぜずして仁の字を釋(釈)するが如し。豈 謬らざらんや。

心、肺、脾、肝、腎、膻中
朱肱(宋代医学者、字 翼中、号 無求子『南陽活人書』『類証活人書』あり。)曰く、心の下に膈膜有り、脊脇と周囲に相い著く。所謂、膻中なり。この説是なり。王氷曰く、膻中は胸中両乳の間に在りと、非なり。

胃膽三焦小腸大腸膀胱、之を十二藏と謂う。
霊蘭秘典論に曰く、膻中は臣使の官。乃ち膈膜なり。その藏は前は胸膜に著き、後ろは脊の十二、三椎に著く。上は心藏を抱護し、下は胸膜を隔絶す。心藏を抱護する者は其の膜縦なり。胸膜を隔絶する者は其の膜、横なり。その系、両面に二孔あり。一は則ち衛の大経なり。一は則ち飲食の道なり。而して榮の衝脈、及び精糜の道は、其の原系の両條尾の如き際を行き、脊椎裏面に著いて而して上下す。故に貫かず也。然れども、上下に通ずる者は食道、精糜道、及び榮衛の四道而して已む。別に一線の貫く者無し、呼吸に因りて凹凸の機を為す。人、吸えば則ち凹し、呼は則ち凸し、榮衛を調え、飲食を化す。呼吸の氣、周身に充実する也。この藏、不利なれば則ち上下利せず、呼吸の調を失い、飲食化せず、榮衛平せず。脉 細数を見わず。宗氣、日に衰う。その縦に心藏を護する者、後人、目して心包と曰う。その横に胸腹を隔絶する者、目して膈膜と曰う。今、秘典論に據(よ)りて、縦横の者を合して膻中と曰う。
膻中は宗氣の海なり。故に秘典論に十二官十二藏に列す。解剖家は藏位に列せず。
秘典論に曰く、三焦は決意瀆の官、水道出づ焉。凡そ人身中の水道、皆 焦氣の生ずる所なり。焦とは蒸なり。その官、血を醸し液を取り水道を生じ、脂骨を造り潤澤を為す。
上焦は霧の如く、胃中に在りて善く五氣を化し、宗氣を養う。
中焦は漚の如し、小腸中に在りて、善く五味を化し、榮氣を生ず。
下焦は瀆の如し。腎下と周身の皮裏に在りて、善く汗と尿を化す。
故に氣を化する者を霧の如し、味を化する者を漚の如し、汗と尿を化する者を水瀆の如しなり、これ上焦、中焦、下焦なり。所謂、三焦は藏なり。胃の下に居り脾に属す。猶 膽の肝に於るが如しなり。その形、牛舌の如し、その大きさ掌の如し。善く汁を製し之を腸中に灌ぐ。膽汁と相い並びて消化の用を為す。
形象、本草綱目に胡桃の條下に詳らかなり。
解剖家、多く内経の目を用いて、而して特に三焦の目を用いず。曰く大機里爾。曰く粹(※)。曰く小機里爾。曰く線。線は内経に謂う所の霧焦、漚焦、瀆焦なり。粹(※)は内経に謂う所の三焦にして藏なり。十二官十二藏に列す。
※粹は原文では米ヘンに華です。

脳、胃、衝脈、膻中を四海と謂う。
脳は髄の海と為す、乃ち宗氣の原なり。胃は水穀の海と為す。凡じて飲食 口に入り、皆 胃に納まる也。衝脈は血の海と為す。乃ち榮の大道也。膻中 宗氣の海と為す。前注に詳らかなり。

男子の莖垂、女子の子宮胞、之を生化の源と謂う。
垂は睾丸なり。莖は陰莖なり。
睾丸 之器と為す。宗氣血液を醸し、静液を造る。故に経に曰く、莖垂は身中の機、陰精の道なり。云々。
男女、精を構(ずる)萬物化生する者、実に莖垂に於いて源する也。莖は精を射するの器なり。垂は陰精を製する所以の器なり。
胞は包なり。子を姙する所以の室なり。子宮は解剖家の謂う所、卵巣なり。乃ち子精を蓄う所以の宮なり。難経に命門は精神の舎なり。男子は精を藏し、女子は胞を繋ぐと。無稽の言のみ。

頭、面、背、腹、手足の六部と謂う。
部は府と腑と同じ。人身内に十二藏あり、外に六部あり。五藏六府の目の如きは、後人の説なり。
胃、大腸、小腸、これを府と謂うも亦可なり。膽、三焦の如きは之を府と謂うべからざる也。
我が門には胸腹の諸器を命じて、十二藏と曰う。頭、面、手、足、背、腹を六部と曰う。経に曰う、「邪が六府に有る」という者は頭面背腹手足を指して言うんあり。

頭項の太陽と謂うなり。面これを陽明と謂うなり。頬これを少陽と謂うなり。これを三陽、頭に在りと謂う也。胸これを少陰と謂う也。腹之を太陰と謂う也。小腹これを厥陰と謂う也。これを三陰、胸腹に在りと謂う也。
素問熱病論の三陰三陽、これなり。後人、足の三陽を以て傷寒熱病の三陽と為し、足の三陰を傷寒熱病の三陰と為す。故に傷寒論を注する者を三陰の部位を説きて窮す。これ他に無き也。手足三陰三陽を十二経脉流注の説に拘泥する故なり。蓋し、経脈の一篇は榮氣篇の文脱落し散じて他篇に於いて在る者を以て、集めて一篇と為して、偽作する者なり。下文に謂う所の、診脉の大道晦(くらま)して、一脈死生を決するの偽脈法興る矣。榮衛経絡の真 隠れて、而して十二経脉流注止まずの説を作す矣。
精神宗氣の道、闇にして而して陰陽氣血の論立つ矣。要するに皆その本の真なる者を拂いて、而してその末の偽なる者を取る。故に醫、定理を失う。これ余のこの文を作り辞せず、四方の君子の誉?議を?所以なり。

皮に部あり、肉に柱あり、榮衛に輸あり、骨に属あり。
皮の部、乃ち頭面背腹手足、乃ち前章の六部なり。肉の柱に七あり。宗脉一なり、榮二なり、衛三なり、下焦四なり、水道五なり、筋六なり、膜七なり。凡そこの七の者、会聚して肉を作る。肉の厚い者を経肉と曰う、㬷肉と曰う。聚る者の大にして多きを言う也。榮衛の二経絡、別れる處を輸と為し、これより彼に輸(みちびく)の義なり。輸は乃ち外邪の入る所なり。鍼灸薬を以て之を除去するは可なり。凡そ一身の骨髄連属して、益を脳髄に於いて受けて、屈伸坐起、手舞足踏を為す也。故に経に曰く、骨の属する者、骨空の益を脳髄に於いて受ける所以の者なり。

人の始めて生じる、先ず精を成す。精を成して而して脳髄を生ず。骨を幹と為し、脉を榮と為し、筋を剛と為し、肉を牆と為し、皮膚堅にして毛髪長ず。穀、胃に於いて入り、脉道以て通ず。血氣乃ち行く。行に順逆出入ある也。順なる者を榮と為し、逆なる者を衛と為す。衛は静にして榮は動く。
牆;ショウ、ゾウ、かき
夫れ人の始めて生ずる、天の徳と地の氣に因りて、徳流れて氣薄まりて生ずる者なり。母を以て基と為し、父を以て楯と為す。猶 草木の萌生するが如し也。生の来たる之を精と曰う、男女交媾の際、この精を得て、而して生ず矣。二三歳少しく知り矣、七八歳にして初めて識あり矣。両精相い搏つ也、之を神と謂う。精既に熟して而して神、厥の中に生ずる(を)、故に曰く、陰平に陽秘すれば、精神乃ち治まる。陰は藏して而して起きること亟かに、陽は外を衛りて而して固を為す也。是に於いて乎、精神具わる矣。精は内の守り也。己に於いて具して而して己れが使用に供する者なり。精神鎔合の中、心の字を生ず。藏の心に非ざる也。之を無形の心と謂う也。心に憶(おぼ)う所あり、乃ち意 志 思 慮 智の者を生ず矣。精神睽すれば乃ち狂す矣、心意志思慮智共に滅す矣。
夫れ膻中膈肓の部は乃ち精神輻湊の地なり。故に曰く、膻中は臣使の官、喜楽出づ焉。又曰く、氣海は膻中なり。
皆、心の字を指す也。経に曰く、精を積み、神を全うす。又曰く、聖人、精神を傳えて天氣を服して而して神明に通ず、之を失えば則ち内は九竅を閉じて、外は肌肉を壅し、榮衛散解す。
又曰く、精は則ち神を養う。
又曰く、神不足の者、之を温むるに氣を以てす。精不足の者は、之を補うに味を以てす。
又曰く、頭は精神の府。頭傾き、視ること深ければ、精神将に奪われんとする矣。背は髄の府。背曲がれば、髄将に壊れんとす也。
又曰く、脳は髄の海也。
又曰く、精成りて而して脳髄生ずと云々。
脳髄、精神を出て(ること)疑うべからず也。蓋し、筋 精神を受けて乃ち力有り、屈伸縦横、その数数千百、一身の剛を為す也。榮及び肉の羲は前注に詳らか也。
皮膚堅き者は、下焦堅し矣。毛髪美なる者は血液に余り有る也。以上の諸器、五氣五味を以て之を養う。故に曰く、天 人を食しむるに五氣を以てし、地 人を食しむるに五味を以てす。乃ち五穀の氣と味を受けて而して精神、榮衛を滋養する也。又、按ずるに経に曰く、頭脳脊髄、説文に曰く、脳は頭の髄なり。俗に脳と作る。乃ち頭項中の髄、之を脳と謂う。経に曰う、髄は骨を充たせる也。説文に曰く、髄は骨中の液なり。乃ち脊骨中の髄なり。頭には乃ち脳と曰い、脊には乃ち髄と曰う。
※鎔:ヨウ、ユウ、とかす、とける
※睽:そむく、はなれる

脳髄は精神を出す。膻中は之が臣為り。肺、呼吸を主り、心は榮衛を出入する。膻中、之が使と為る。膻中は膈膜なり。脾は津液を主る。三焦、之が属と為り、肝は血を醸し、液を造る。胆は之が属と為る。二つの者會聚して、中焦消化の機を助く。
胃中の者は上焦なり。五穀の氣を醸して、四方に達す。小腸は中焦なり。五穀の味を化して精微を作り、宗氣榮衛の根と為り、胃腸和せざれば則ち精氣竭く。穀盛んなれば則ち精神盛んに、穀虚すれば則ち精神虚す。
下焦は腎なり。膀胱、之の属と為り、下焦の職は善く血中の汚濁を去りて而して水を生ず。その器の大なる者は腎に在り。その小なる者は一身に周布す。時寒なれば乃ち腎の下焦善く化し。小便善く利す。
時暑なれば乃ち肌表の下焦、善く化し、汗出ること溱溱たり。之を氣化と謂う也。
大腸は傳道の官なり。糟粕を秘別することを主る。経に曰く、榮衛精神、これ十二藏の藏する所なり。その淫泆して藏を離れれば則ち精神失い、魂魄飛揚す。
蓋し、人の體に不快の無ければ、十二官、その職を守り、以って生身を奉ず。これを醫の定理と謂う。疾病有るときは定理に由りて以って之を治す也。

精神呼吸を察して而して臣使のその職を奉するを知る。上下左右の脈を診して而して榮衛の升降盛虚を知る。飲食溲便を問うて而して消化と氣化を知る。而して堅き者は之を削り客する者は之を除く、勞する者は之を温む、熱する者は之を寒す、結する者は之を散ず、留める者は之を攻む。燥く者は之を之を濡らす。急なる者は之を緩め、散ずる者は之を収む。損する者は之を益す。逸する者は之を行す。驚く者は之を平す。之を上らし(吐也)、之を下し、之を劫かし、之を開き、之を発し、之を薄め、之を磨し、之を浴す。これを醫の識と謂う。
七尺の躰、天地の大なるが如く、人民の衆なるが如き也。その要を知る者は一言で以って盡すべし也。道に真偽有り。識に浅深有り。その要を知らざれば則ち流散して極まり無し。

難経に曰く(今の難経は秦越人の舊本に非ず。三国の時、呉の呂廣が輩の偽作する所の者なり)
寸口を取り、死生を決すと云い、三焦は名有りて形無しと云い、左なる者を腎と為し、右なる者を命門と為す。命門は男子は精を藏し、女子は胞を繋ぐと云う(誕の最たる者)。心は血と榮を主る。肺は氣と衛を主る。衛は氣なり。榮は血なり。

王叔和、脈経を撰して而して難経の説を演べ、誤りを後世に貽す。これに於いてか、醫道の定理、既に誤れり矣。吾が謂う所、道とする者、その真を失い、而して彼の道と為る所の者は皆 謬を以って而して傳う也。之を偽醫学と謂う。古の真に非ざる也。

吾が謂う所の道は内経の道、天下の公言也、定理也。今の内経は古の全帙に非ざる也。之を読むに酔人に対する如し。忽ち理有りて忽ち理無し。務めて無理の言を芟り、而して之を読む。古の真を得ん。古の真を得て而して之を習い、已に厭うこと有りて而して後に人を治す。故に曰く、道に真偽あり、識に浅深有る也。今、無理の言を信じて、難経脈経を祖述し而してその誕を楽しむ。而れども亦た苦学してその理を窮めることを得るべからず。亦た、その誕且つ偽を識破すること能はざる也。故に真偽を併せて而して之を廃す。その言に曰く、萬病は一氣の留滞也。萬病は一毒也。その氣と為し毒と為る所の者、一人の私言也。醫の定理に非ず也。今の醫、偽醫学に入らざれば、一人の私言を信ず。彼に入るもの此こに出づ。彼に信ずるも此れを迂なりとす。噫。後の人、それ道理の道を聞かんと欲するも、孰(いず)れに従いて而して之を聴かん。偽者は曰く、素問は王氷の補足する所、舊本に非ず。その名は乃ち漢晋間に起これり矣。霊枢はその文義は浅陋、王氷の偽託する所と知るべし也。難経は秦越人の撰ぶ所。内経の大経大法在り焉。櫻寧生が注する所、辨論精梜、考證も亦極めて詳審なり。私言の者は曰く、内経は之を読みて益無し。難経の如きは陰陽五行の学。苦て而してその解を得る可からず。唯 仲景氏の書のみ、その方に熟し、その症を察(あきら)かにせば、乃ち足れり矣。弟子たる者、各々その説を習い聞きて、その誕を楽しむ。且つ膚浅の言は聴き易く入り易し。滔滔たる者は天下皆是なり。之を口に挙げて之を書に筆す。噫。之を浚う人、内経蘊奥の道理の説を聞かんと欲すと雖も、それ孰(いず)れに従いて之を求めん。甚だし矣、人の奇を好む也。偽学と私言、本(もと)信ずるに足らず。人の奇を好むに因りて、吾が謂う所の道理と並びに行われて而して或いは勝ことを得たり。
※浚:シュン、さらう

古の病、その因 三條。今はその因 数條。或いは曰く、一毒一氣。その定理無ことを知るべし矣。古の醫は曰く、精神榮衛、十二藏、三部の脈を診して(素問三部九候論)而して病の上下左右を察し、邪の劇易を知る。その生也、度量して而して之を知り。その死也、解剖して之を視る。
内経、道理の説、已に厭うこと有りて、而して後に人を治す。虚邪賊風を避け、以て生を養い、鍼灸薬を撰て以て疾を蠲(のぞ)く。源由を察して以て之が萌芽を誅す。
※蠲:ケン、のぞく
偽物は曰く、寸口は陰を候い、人迎は陽を候う。五色五行を以て五藏六府の有餘不足を知ると。私言の者は曰く、良毒を辨ずること将の兵を用るが如くなれば、乃ち足れり矣。方に熟し症を察(あきら)かなれば、乃ち足れり矣。
今の醫、偽醫學に之(し)かざれば則ち私言に之(し)く。二つの者、交乱れて、内経の道明らかならず。夫れ三部九候診脉の大道 晦じて而して一脉死生を決する(難経)の、偽脉法興る矣。
(仲景曰く、寸を按じて、尺に及ばず。手を按じて足に及ばず。人迎(人、一に大と作す)跌陽、三部参ぜず。動数発息、五十に満たず。短期未だ診に決することを知らず。九候曾て髣髴すること無し。死を視て生を別れんと欲す。実に難と為す矣)

榮衛経絡の真、隠れて而して十二経脉流注止まずの説を作る矣。
(宋の王維一、銅人腧穴針灸圖説。元の滑伯仁、十四経発揮。難経二十三難に本づいて作る。未だ揣摩臆度あることを決さずの疑いを免れざる也。)

精神、宗氣の道、闇して陰陽氣血の論立つ矣。
(内経を読む者、務めて是等、無理の言を芟して可なり。)
※芟:サン、セン、かる

その末の偽なる者を飾りて而してその本の真なる者を棄つ。嗚呼、亦た思わざるのみ矣。今の内経は古の全帙に非ず。残缼縦横、玉石混淆。之を読むに、酔人に対するが如し。忽ち理有り、忽ち理無し。然りと雖も、若し此の書 無くんば、醫の定理 滅するに幾し矣。儒経に曰く、夷狄も之 君有り。諸夏の亡きが如くならず。
今 喎蘭の醫学、東方に行われ、彼に於いて入る者は必ず此れに於いて出づ。入る者は之を主とし、出る者は之を奴とす。その説 名称 殊んと雖も也。定理の在る所、吾が内経醫道の定理と大いに同じくして小しく異なる也。その人や、将に夷狄の法を挙げて而して之を内経の教之上に加えんとす。甚だし矣。

人の奇を好む。その勢、将に夷に於いて変を見せんとす。詩に曰く、戎狄、これ膺。荊舒、これ懲す。吾が謂う所、内経の教えとは何ぞや?
精神これを宗氣と謂い、血脉これを榮衛と謂う。人始めて生ずる、先ず精を成す。精成りて脳髄生ず。骨を幹と為し、脉を榮と為し、筋を剛と為し、肉を濇とし、皮膚堅して毛髪長ず。
穀、胃に於いて入り、脉道以て通ず。その生や、度量して之を知り、その死や、解剖して之を視る。頭手足三部の脉を診て、九候して病の上下左右を察らかにし、邪の劇易を知る也。善くこの理に明らかなる、これ吾が謂う所、内経の道にして天下の公言なり。醫の定理なり。向きに謂う所の偽学と私言との道に非ざるなり。

和緩、扁鵲已に没す。華佗、仲景、復た起こらず。
然らば則ちこれの如く何ぞして可ならん也。
曰く、偽学を損じて私言を塞ぎ、内経の道を明らかにし、務めて無理の言を芟する。それ亦 その可なるに庶からん也。
(按ずるに、霊枢に曰く、その生や、度量して之を知り、その死や解剖して之を視る。云々。秦漢以上の醫を業とする者、後世の夜行に斗を失するが如くならず也。清の四庫提要に曰く、儒に定理有り、而して醫に定理無しと。嗚呼、清國四方幾萬里の世界、上一人より下幾億萬人に至るまで、千般の灰難、治を無定理の醫に受く。何んぞそれ陋なるや。)

醫源 終

以上、石坂流鍼書の『醫源』は臨床実践鍼灸流儀書集成12(オリエント出版社)より引用させていただいています。

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP