原南陽の「主客」- 叢桂亭医事小言 より

原南陽の医学観

前章では診断における病因・病本について解説されていました。本章ではその診断の精度を上げるために、主客すなわち主証と兼証とに分け、病理を立体的に組み立てる法を示しています。


※『叢桂亭医事小言』(「近世漢方医学書集成 18」名著出版 発刊)より引用させていただきました。

※以下に現代仮名書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

主客 『叢桂亭医事小言』より

腹候叢桂亭医事小言 巻之一 

主客

凡の病を治するに先ず病因をたずね、其の後主証と兼証とを分けるべし。主客みえねば薬は効かず。其の分けようにて病名の付けようも違うなり。是れ其の医者の診立てにて工拙の分ける処にて、眼の付けどころ第一也。

悪く心得ると主客の差別もなく、うかとして薬を与えるものあり。たとえば熱ありて寒けもあり、頭痛もすれば咳も出る、痰もはると云う時は、桂枝湯も麻黄湯も又、小青龍湯も参蘇飲も芎蘇散も敗毒散のようなるものはみな用いて不適といわず。人々の心得えて用いた所が何れでも治す①。
是れは元来引風か主証故発散すれば外邪の氣去りて彼の兼証の咳も頭痛も治するなり。是に悪しく飲み込むと方は何れにてもよき事と思うは大非也②。
其の主証は軽邪なれば、薬にて無しとも、温麺(うどん)にても、生薑酒にても、一汗して治す。引風の病人を見合にして、大病にても何方にてもすむと取りさわぎをするは不案内より起きたるなり。
初めの邪氣が強ければ、うかうかとして居る内に大病になる。
主客の証みえねば、一方にては主治不足な様になるは筋(すじ)を飲み込まぬなり。

方は短味を貴び、一味の分量多き故、其の氣強し。多味なれば匕(さじ)に少しばかりをかける故、何ほどの神品にても其の力豈強からんや。慾心深く加減と云うも、“減”はせずに“加”ばかりして、本方の薬味より加味多くなる有り。全く主客の見えぬ人のする所にて、是れを大損と云う。

さて主客のとりように付けて一つのはなしあり。
夏日、奥州白川郡渡瀬村の農人の娘、産をしたりけるが、時々寒熱ありて大汗の流れる如く遥に、予を迎う。
因りて官に乞うて宿を経て行て治す。豪農なれば、医者大勢あつまりて衣被沢山着せて大事にかけて戸障子も閉じて独参湯と大補湯にて数日を連服すといえども、大汗二三日に一発し、少しずつの汗は毎日なり。
予、脈を診するに浮数、産後血熱の常体なり。飲食乏しく傍人の騒ぎつよき故、当人も必死の氣になりて甚だ衰たる様なり。
医生等が曰く、汗多亡陽おそるべきの第一にて頻りに参耆(人参黄耆)の効をたのめども自汗多く、衣被も二三度ずつも着かえるに猶お滫のごとくすと云う。
予、病家へ告げて曰く、着服多く戸障子も閉めたれば、温熱の時節に余り鬱して悪し。平日通りに少し心を付けて取り扱いてよし。氣力益々衰えるなれば、よきほどにすべし。以来は汗も出まじと言い含めたれば、医生等、予が高言吐きたりと思いしや、詰問す。
予、曰く公等(医生達)は兼証を治せし故に治することなし。自汗ばかりが風(ふ)と発するならば公等の主方通りてよきことならんか。先ず寒熱がきてから汗を発するは、汗は兼証にて寒熱が主証也。寒熱をさえとれば汗は出づるべきはず無し。是れ主客の証の取りちがえなり③。
極めて知る、此の婦人は産後壮健をたのみて保護の仕方悪くして、此の証を発したらんと云えば、家人皆な曰う、平産故にあまり用心もせざりけるが一日悪寒戦慄して此の如くになりたりとかたる。産後二三日を経て、発熱するは血氣も新たに動きて未だおちつかぬ処へ、外より動ずる故に件の如き証を発するもの多し。即ち柴胡桂枝湯を作りて飲ましむるに、宿に逗留する中、起色を得て、是より寒熱来たらず。寒熱なき故発汗もなく、全快したり。

主客の見わけようにて、病人を不治の郷へ案内して引き込むようになることあり。又、産後二三日を過ぎて血暈を発するものは必ず乳汁出でず。其の熱も解きかぬること産の当坐に発暈するよりも悪しきものなり。

診断における病因・病本そして主客

下線部②「是れは元来に引く風(風邪)か主証ゆえ発散すれば外邪の氣は去りて彼の兼証の咳も頭痛も治するなり。」
この文は前章の「その病の起こる所の根本なり。其の本を治すれば、他はひとりによくなる」に通ずる内容です。
そのため一見すると両文は同じ趣旨のようにもみえてきます。しかし両章内容を比較すると、本章ではより病本に焦点を当てたメッセージが込められていることが分かります。
そして病本を見極めるには主客という見極め方も重要です。

でもその前にチョット寄り道。病を治すこととは?について考えてみましょう。

詰まるところ治療は治ればなんでもイイ?

下線部①をみてみましょう。
「たとえば熱ありて寒けもあり、頭痛もすれば咳も出る、痰もはると云う時は、桂枝湯も麻黄湯も又、小青龍湯も参蘇飲も芎蘇散も敗毒散のようなるものはみな用いて不適といわず。人々の心得えて用いた所が何れでも治す。」
この文章(下線部①)は臨床経験をもつ先生なら、たいていニヤリとしてしまう話ではないでしょうか。

「熱が出て寒気もあり、頭も痛み咳が出て、痰も出る」このような症状群に対して、
「桂枝湯も麻黄湯も、また小青龍湯も参蘇飲も芎蘇散も敗毒散のような処方もみな不適ではない。」と指摘しています。

もちろん“治るのならば、処方・治療はなんでも良い”なんて暴論を示しているのではありません。本文に「是に悪しく飲み込むと方は何れにてもよき事と思うは大非也。」と書かれてある通りです。

確かに治療は病苦を癒すために行うもの。しかし、その行為が無法(治療に診断という法則が無い)であれば、それは医学とは言えないのです。

このことは現代だけでなく、古来より数々の医家たちが医書に記しているメッセージでもあります。

自身の医学を省みることの大事

しかし日々の臨床の中では、自身の治療に対する精密な確認作業というのは怠りがちになるものです。その結果・・・

・症状の主客の判断を見誤ると、診断が曖昧なものとなる。
・的外れな診断ではあるが、大外れでもない。
・従ってそれなりに効果もあり、それなりに症状は緩和する。
・いつの間にか治癒してしまうため、己の診断の不備に気づかない。
・そのような経験を積み重ねることで、正確とはいえない治病観が構築されていく。

という“ボタンの掛け違い”のようなことが知らず知らずのうちに進行してゆき、治療経験・治病観・医学観がブレたり、誤ったものとなってしまうのです。

これを防ぐためには、日々コツコツと自身の医術・医学を確認し続けるしかありません。その確認法とは“カルテの見直し”などの確認ではありません。
自分の基盤となっている医学を確認することです。つまりはこのように医学経典・文献を丁寧に読み解くことです。
このような観点で自分を見直すことができれば、「古い医学文献などは“机上の空論”だ」「理論よりも実践が大事だ」などの言葉で片づけてしまうことはなくなるでしょう。

主客について

さて、主客について話を戻しましょう。
下線部③「是れ主客の証の取りちがえなり」の言葉は奥州は白川郡渡瀬村の娘さんの症例の締めくくりに記される言葉です。奥州白川郡渡瀬村とは今も現存する地名のようで、現在の福島県東白川郡鮫川村に渡瀬という地名が残っています。グーグルマップでみることができますので、当時、江戸の小石川に住む原南陽が福島の山村部にまで往診した様子に思いを馳せることができるでしょう。

本文の症例を理解する

主客を理解させるために、原南陽先生は産後女性の症例を挙げてくれているのですが、どうも分かりにくいかもしれません。ですので、ちょっと長文になりますが、症例解説を試みることにしましょう。

女性の症状は「時々寒熱あり」「大汗の流れる如く」
この症状に対し、前医たちは補剤の独参湯と大補湯(十全大補湯)を連用していたとのこと。その理由として前医たちは「汗多亡陽」を恐れたため人参・黄耆を主薬とする補剤を用いたのです。

その意図も分からないわけでもありません。産後といえば、氣血の虚がベースにあります。裏位における氣血両虚があり、それに起因する「悪寒・発熱・大汗」などの表症がみられる…と判断すれば、上記処方にてまずは補気・補血を行うという思考を推測することもできなくはありません。結果、虚に乗じたる寒証と判断したのでしょう。
その意図は本文「衣被(被衣・きぬかずき)を沢山着せて、戸障子も閉じて…」から分かるように、それはもう冷やさぬように保護しています。
加えて、前述の補剤の連服です。「大汗二三日に一発」「少汗は毎日なり」に至るのも無理からぬこと。

しかし患者女性の治療経過は捗々しくありません。補剤を服しているにも関わらず「飲食乏しく」「甚だ衰たる様」と、一見したところ虚の症状は深刻なままです。(そして脈診情報は「脈は浮数」)

このような状態を診て原南陽先生をみて、次のように診断と処方を行っています。
まず「着服多く戸障子も閉めたれば、温熱の時節に余り鬱して悪し。」「平日通りに…取り扱いてよし。(このままでは)氣力益々衰えるなれば、(平常通りの)よきほどにすべし。」と。そして柴胡桂枝湯を処方します。

しかし、諫言ともとれるアドバイスを聞いて、地元の医家(前医)たちは異議を唱えます。そんな彼らに対して南陽先生は次のように説得してます。
「自汗ばかりが発するのであれば、貴公らの主方(処方)も通りて良きことだ。」
しかし「先ず寒熱が来てから汗を発するということは、汗は兼証であり寒熱が主証なのだ。」として、“大汗”を兼証として、「汗多亡陽」には目を向けず、寒熱に目を向けるべきと説いています。

そして寒熱に対して柴胡桂枝湯を処方したのです。
「寒熱さえ治すれば、汗は出るはず無し。」「貴公らは兼証の大汗に対して治療するが故に愈ることがないのだ」と説明しています。

つまりは虚証ではなかったわけです。これに関する解説も丁寧です。
「この婦人は産後でも(元来の)壮健体質をたのみて保護(産後養生)の仕方が悪いため、この症を発したらん」と。家人(家族)が言うには「安産であった故にあまり用心もしなったため、一日悪寒戦慄してこのようになった」とのこと。「産後二三日を経て、発熱するのは(産後に)血氣も新たに動きて未だおちつかぬ処へ、外より動ずる故に件の如き証を発するもの多し。」
と、柴胡桂枝湯証の形成に関して丁寧な解説を記してくれています。

以上のように診断・証立てにおいて、病因・病本を決定することの大事を、実例を挙げてまとめてくれています。
病本を見極めるためには、症状の主証と兼証があり、主客があります。これを見極めるためには病理を冷静に把握する必要があるのです。現病症が成立するまでのストーリーがあるのです。そのためには病症・病態を経時的に把握する必要があるのです。
このような診断を理解するには、前の記事『病因』にて紹介した宇津木昆台の八条目が参考になるのです。

上記症例では、前医の誤診誤治が目立ちますが、少しだけ彼らの弁護にも試みようと思います。

地元の東北史から考えると…

当時の歴史を考えると彼らの誤診誤治にも一定の酌量の余地があるかもしれません。

この症例の舞台は奥州白川郡渡瀬村。そしてこの時代背景を振り返ると彼の“天明の大飢饉”が起こった頃です。天明の大飢饉とは、1782~1788年にかけて起こった災害です。
1782年前後から東北地方一帯は冷害に見舞われ、とくに1783年は冷害・冷夏・長雨が続き、さらに追い打ちをかけるように浅間山の噴火が1783年7月に起こります。この冷害・冷夏・飢饉の惨状については各サイトで確認できますが、『東北の基層文化を探る⑤ 総括編その1』(森と水の郷あきた)さんの情報は分かりやすいと思います。

このように当地域における歴史をみると、非常なほどの冷夏・飢饉を数年前に体験したばかりの地元の医家たちが、産後の氣血両虚の状態でさらに寒熱・大汗による陽氣漏出を恐れ、補気剤を連用した…という背景も想像できないこともないと言えるのではないでしょうか。

もちろんこの推測は、原南陽が渡瀬村に往診した期間が1789~1803年の間であれば、成り立つ話であります。
※1789年は大豊作になったのとこと。故に本文のように依頼主である豪農の羽振りの良さも1789年以降であれば納得できることであります。
※1803年とは『叢桂亭医事小言』の刊行年です。それ故、1789~1803年の期間での症例である必要があると考察します。

鍼道五経会 足立繁久

脈論 ≪ 腹候 ≪ 察色病因 ≪ 主客 ≫ 傷寒

原文 主客 『叢桂亭医事小言』より

■原文 

腹候叢桂亭医事小言 巻之一

主客

凡の病を治するに先病因をたつ子、其後主證と兼證とをわけへし。主客みへ子は藥はきかす。其わけやうにて病名のつけやうも違ふなり。是其醫者の見立にて工拙のわける處にて、眼のつけところ第一也。

わるく心得ると主客の差別もなく、うかとして藥を與るものあり。たとへは熱ありて寒けもあり、頭痛もすれは咳も出る、痰もはると云時は桂枝湯も麻黄湯も、又小青龍湯も參蘓飲も芎蘓散も敗毒散のやうなるものはみな用て不適といはす、人〃の心得て用た所か何れても治す。是は元來引風か主證故發散すれは外邪の氣去て彼兼證の咳も頭痛も治するなり。是に惡しく飲込と方は何れにてもよき事と思ふは大非也。
其主證は輕邪なれは、藥にてなしとも、温麵にても、生薑酒にても、一汗して治す。引風の病人を見合にして、大病にても何方にてもすむと取さはきをするは不案内より起たるなり。初の邪氣か強けれはうか〱として居る内に大病になる。主客の證みへ子は、一方にては主治不足な様になるは筋を飲込ぬなり。方は短味を貴一味の分量多き故、其氣強し。多味なれは匕に少はかりをかける故、何ほとの神品にても其力豈強からんや。慾心深く加減と云も、減はせすに加ばかりして、本方の藥味より加味多くなる有。全主客の見へぬ人のする所にて、是を大損と云。

さて主客のとりやうに付て一つのはなしあり。
夏日、奥州白川郡渡瀬村の農人の娘、産をしたりけるか、時〃寒熱ありて大汗如流遥に、予を迎う。因て官に乞て經宿行て治す。豪農なれは、醫者大勢あつまりて衣被澤山きせて大事にかけて戸障子も閉て獨參湯と大補湯にて數日を連服すといへ𪜈、大汗二三日に一發し、少つヽのあせは毎日なり。
予、脉を診するに浮數。産後血熱の常體なり。飲食乏く傍人のさわきつよき故、當人も必死の氣になりて甚衰たる様なり。
醫生等曰、汗多亡陽おそるへきの第一にて頻りに參芪の効をたのめとも自汗多く、衣被も二三度つヽも着かへるに猶●(さんずい修)すと云。
予、病家へ告て曰、着服多く戸障子も閉たれは温熱の時節に餘り鬱して惡し。平日通りに少し心を付て取扱てよし。氣力益衰るなれは、よきほとにすへし。以來は汗も出ましと言𭇥たれは、醫生等、予か髙言吐たりと思しや、詰問。予曰公等は兼證を治せし故に治するヿなし。自汗はかりか風と發るならは公等の主方通りてよきヿならんか。先つ寒熱がきてから汗を發するは、汗は兼證にて寒熱か主證也。寒熱をさへとれは汗は出づへきはつなし。是主客の證の取ちかへなり。極て知る、此婦人は産後壮健をたのみて保護の仕方惡くして、此の證を發たらんと云へは、家人皆曰、平産故にあまり用心もせさりけるか一日惡寒戰慄して如此になりたりとかたる。産後二三日を經て、發熱するは血氣も新に動きて未たおちつかぬ處へ、外より動す故に件の如き證を發するもの多し。即ち柴胡桂枝湯を作りて飲しむに、宿逗留する中、起色を得て、是より寒熱來らす。寒熱なき故發汗もなく、全快したり。
主客の見わけやふにて、病人を不治の郷へ案内して引込むやうになるヿあり。又、産後二三日を過て發血暈するものは必乳汁不出。其熱も觧かぬるヿ産の當坐に發暈するよりも惡しきものなり。

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