原南陽の医学(3)『叢桂亭医事小言』より

原南陽の医学観

前回の医学2では鍼灸や脈診、四診そして人の生死を知ることについて論じられていた。また印象に残るのが「古を学ぶを学者の要とす」という言葉である。まさに稽古という言葉そのものであるが、今回の内容も現代人の我々にとってはまさしく古を知る内容となっている。


※『叢桂亭医事小言』(「近世漢方医学書集成 18」名著出版 発刊)より引用させていただきました。
※以下に現代仮名書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

医学 『叢桂亭医事小言』より

腹候叢桂亭医事小言 巻之一 原南陽先生 口授

医学(医学2より続き)

余が学ぶ所は方に古今無し。其の験あるものを用い、されども方は狭く使用することを貴ぶ。約ならざれば薬種も多品になる。華佗は方、数首に過ぎずと云うは上手にて面白きこと味わい知るべし。其の源を取りて病を理会せば一方にて数病を治すべし。褚澄(5世紀の医、著書に『褚澄遺書』などがある)の善く薬を用ゆる者は薑に桂の効ありと云いしも、此の理なり。何ほど奇験の神方にても用ゆる場 悪しければ寸効なし。偏えに運用にあり。広く方を尋ねると繁雜になりて悪しけれども、博く方法を学んで是を約(簡約)にするを第一の学問とす①。用ゆる場よければ生薑か肉桂ほどな験をなすとは能く能く解了すれば将棋の如し。上手の指す駒も下手の指す駒も其のききようはかわらず、同じように動かすうちに歩兵は金銀よりもはたらきをなす、則ち此の理なり。下手のつけた桂枝湯も上手のつけた桂枝湯も同じ方なれども、下手なればつけた所ばかりなり。上手のつけたる方は外の処に響を以て誰も同くするように見える中に効を取るなり②

世に古方家なるもの出てより医の眼目を開き、今は人々 仲景氏の方を使用することを知る。偏に古方家の功なり。名古屋玄医と云いし人は丹水子と号して、至て功者の大家なりけるとなり。『医方問余』『難経註疏』と云う書を著し、附子を多く使用する療治にて痢病に逆挽湯とて天下に弘く通用する方は此の丹水子の方なり。此の一事にても其の功しるべし。『弁証録』(清代の医、陳士鐸の書)大瀉門に逆挽湯と云う方を出せり。此と同名異方なり。(其の方は、人参一両、茯苓二両、大黄一両、黄連三銭、梔子三銭、甘草二銭、水煎服一剤、腹痛除き、瀉も亦た頓ろに止む。此の方、人参を用いて以て脾胃の気を固める、則ち気、驟脱に於いて至らず然るに最も奇なるは大黄を用いるに在る也。丹水子の逆挽湯は桂枝人参湯に茯苓枳殻に加うる)

少しく仲景を用ゆるの意ありと云う時に、後藤昆山先生は佐一(俗称、左一郎のことか)と称す。後藤又兵衛が末の由也。先生、弱冠より心中に日本にて第一の坐に居て、第二に続けざる。上坐のことをなさずば生れても甲斐なしと思慮するうちに其の中、仁斎(伊藤仁斎)文学の名、海内に溢る。此の上に立ちがたし。僧は戒行にて世に勝れんも安かるべけれども、深草の元政(元政上人)をその頃如来の再生と人いえばその上に坐しがたし。医は今その人無きことに人を救ふ術也とて、丹水子の門に入りて丹水子に学ばんと、鳥目一貫文を携え束脩となして入門せん事を乞う時に、都講(とこう)その常式に恊(かな)わざるとてその入門を許さず。佐一、大いに怒りて一貫文を地に投じ押付け、此の門を傾け見せんと言い捨て去りにけると、後に苦学独立して古方家の元祖と仰かれたり。先生、治療を初められしときより、沈疴・廃疾、世医の難治として捨て置きたる者の治したるを見て、有志の輩一時に競い争いて門下に馳せ加う。故に高名の門人多し。その書は病因考師説筆記あり。又、傷風約、艾灸通説など云う書、その家に出て子孫に人物乏しからず。さて後藤の門人に数輩の豪傑を出せり。
その一人は山脇道作東洋先生と号す。『外臺秘要』を刻し『藏志』『医則』を著す。中風を熱癱癇と云う所より考えて、多く石膏を使用す。
又一人は香川太仲秀庵(香川修庵、字は太仲、号は修庵、別の号に一本堂)先生と号すれども堂号、世に高く聞こえて一本堂と称す。『薬選(一本堂薬選)』行余医言(一本堂行余医言)『医事説約』の著あり。艾灸を以て多く沈疴を療す。
又、一人は松原圭介と云。此の人はさせる著述も無きにや、経験の家方を記したる書のみを見たり、その門人に吉益周介東洞先生と号する人出でて大いに高論を吐き『建殊録』『薬徴』『方極』『類聚方』等の書を著す。今世に古方と云えば、吉益流のようになりたるは、全く吉益の豪傑によれり。別けて下剤を好む療風なり。此の頃、京師古方大いに行われて四方の書生競い学びて海内の療治の風、爰(ここ)に一変す。
世に四大家と云うは、後藤・山脇・香川・吉益の四流を指す。その意趣、家々に異なり。山脇の門人に永富鳳介と云う人出でて、赤馬関独嘯庵と号す。京師の俚言に、人の心の侭に任せずもと(悖)れる人を広く指して毒性(どくしょう)と呼ぶ。蓋しその唱の同じきを以て、此の如くは号せりや。
此の人、越前にて奥村良筑と云う人に従いて吐流を受て上京し、東洋先生に語れば、先生大いに嘉し嫡子東門先生を遥に越前へ下し吐方を学ばしむ。良筑教えて曰く、吾子こそ吐すべき証候具せりと云うより、徒に上京して東洋先生に其の候を告げ、又越前に下向して吐薬を試たり。
本邦にて上古は知らず吐流はこの(奥村)良筑翁より創(はじめ)たり。一代の内に一人も薬を乞うもの無く絶えたること両度ありと、されども泰然として吐を以て名医と呼ばれる事、その人物を思うべし。独嘯活達雅量にして『吐方考』『漫遊雑記』を著す。書中に人意の表に出たる所多し。山脇の塾に居る時、三條橋上に醉臥して奉行所より通達ありて引取ることありと、その任誕(やりはなし)なること斯くの如し。然れども書生を励まし人才多く出来したりとぞ。以上の著述は読まずばあるべからず。

(続く)

素は粗ならず

あれこれと知識を広めると選択肢も増え、処方も複雑となり、鍼灸を施す穴も増えることにもつながる。しかしこの傾向に対して原南陽は戒めている。

「広く方を尋ねると繁雜になりて悪しけれども、博く方法を学んでこれを簡約にするを第一の学問とす」

この言葉の意に通ずる言葉を和田東郭(1744-1803年)も残している。
「方を用いること簡なる者は、その術、日に精しい。方を用いること繁なる者は、その術、日に粗し。」(『蕉窓雑話』の医則八條より)

一流の仕事ぶりは複雑な仕事をシンプルにやってのける。二流・三流というのは簡単なことをさも難しそうにするものだ。このようなことは鍼灸や漢方に限らずどの世界でも言われることである。

鍼灸でも一風変わった特殊経穴や特殊な技法に拘らずとも、突きつめれば基本の積み重ねが一流の仕事に繋がるのだと思う。

このことを言っているのが下線部②である。桂枝湯という基本的な処方であっても、下手(凡医・下工)が処方するのと、上手(名医・上工)が処方するのでは、効かせる範囲が異なる。下工と上工とでは当然ながら見えている景色が違う。目の届く範囲が違うのであれば、響かせる範囲にもその違いがあらわれるのは当然であろう。

江戸期の名医たち

このパートには江戸期の名医たちの名が列挙されている。まずは名古屋玄医(1628-1696年)である。

名古屋玄医は当時隆盛であった金元(李朱)医学を主とする曲直瀬流に対して、古方(傷寒論医学)を見直すことを唱えた。その名古屋玄医に弟子入りしようとして断られ、憤激し大成したのが後藤昆山(1659-1733年)である。

さらにこの後藤昆山の門下から数々の名医が輩出された。山脇東洋(1705-1762年)・香川修庵(1683-1755年)・松原一閑斎(1689-1765年)、松原一閑斎の教えを受けたのが吉益東洞(1702-1773年)がいる。
当時の江戸でいう四大家とは後藤昆山・山脇東洋・香川修庵・吉益東洞の四人を指していた。

「今世に古方と云えば、吉益流のようになりたるは、全く吉益の豪傑によれり」と原南陽が言うように、吉益東洞は今の時代も「方証相対」や「万病一毒説」などの言葉で彼の名は知られている。

「この頃、京の都では古方が大いに行われて四方の書生は競って学び、国内の治療の風潮はここに一変した。」との言葉から、古方と後世方とが鎬を削りつつも医学研鑽が行われていた様子、その熱気が伝わるようである。

この吉益東洞をして「もし自分(東洞)が死んだらこの人(独嘯庵)が日本の医学のトップとなるだろう」と言わしめたのが、永富独嘯庵(1732-1766年)である。永富独嘯庵は奥村良筑に吐方を学んでおり、その後 山脇東洋の門下に入る。残念なことに35歳という若さで亡くなったが、もし長生していれば、さらに江戸期の医学界で活躍していたことであろう。永富独嘯庵はその名の由来から、圭角のある鋭才ぶりを連想するが、三條大橋のエピソードや指導者・教育者の一面に触れている件には、イメージとは違う人間味あふれる永富独嘯庵の姿を思い起こさせる。ちなみに永富独嘯庵の墓所・顕彰碑は大阪市内にある。詳しくはコチラ

以上は主に古方派の医家達を列挙しているが、この点からも原南陽(1753-1820年)の医学観を窺い知ることができよう。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 醫學 『叢桂亭医事小言』より

■原文 醫學

醫學(醫學2より続き)

余か學ふ所は方に古今無し。其驗あるものを用いされ𪜈、方は狭使用するヿを貴ふ約ならされは藥種も多品になる。華佗は方不過數首と云は上手にて面白きヿ味へ知るへし。其源を取て病を理會せは一方にて數病を治すへし。褚澄の善く藥を用ゆる者は薑に桂の効ありと云しも、此の理なり。何ほと奇驗の神方にても用ゆる場惡しけれは寸効なし。偏に運用にあり。廣く方を尋ると繁雜になりてあしけれ𪜈博く方法學んて是を約にするを第一の學問とす。用ゆる場よけれは生薑か肉桂ほとな驗をなすとは能〃解了すれは、将棊の如し。上手の指す駒も下手の指す駒も其きヽやうはかわらす、同じやうに動すうちに歩兵は金銀よりもはたらきをなす、則此理なり。下手のつけた桂枝湯も上手のつけた桂枝湯も同じ方なれ𪜈、下手なれはつけた所ばかりなり。上手のつけたる方は外の處に響を以て誰も同くするやうに見へる中に効を取なり。

世に古方家なるもの出てより醫の眼目を開き、今は人〃仲景氏の方を使用するヿを知る。偏に古方家の功なり。名古屋玄醫と云し人は丹水子と號して至て功者の大家なりけるとなり。醫方問餘、難經註疏と云書を著し、附子を多く使用する療治にて痢病に逆挽湯とて天下に弘く通用する方は此の丹水子の方なり。此一事にても其功しるべし。辨證録にも大瀉門に逆挽湯と云方を出せり。此と同名異方なり。(其方、人参一両、茯苓二両、大黄一両、黄連三戔、梔子三戔、甘草二戔、水煎服一劑、腹痛除瀉亦頓止。此方用人参以固脾胃之氣、則氣不至於驟脱然最奇在用大黄也。丹水子逆挽湯桂枝人参湯加茯苓枳殻)

少しく仲景を用ゆるの意ありと云時に後藤昆山先生は佐一と稱す。後藤又兵衛が末の由也。先生弱冠より心中に日本にて第一の坐に居て第二に續さる上坐のヿをなさずば生れても甲斐なしと思慮するうちに其中仁齋文學の名海内に溢る。此上に立かたし。僧は戒行にて世に勝れんも安かるへけれ𪜈、深艸の元政を其頃如来の再生と人いへは其上に坐しかたし。醫は今其人無ことに人を救ふ術也とて丹水子の門に入て丹水子に學はんと鳥目一貫文を携へ束脩となして入門せん事を乞ふ時に都講(とこう)其常式に恊はさるとて其入門を許さす。佐一大に怒て一貫文を地に投し押付、此門を傾け見せんと言捨て去りにけると後に苦學獨立して古方家の元祖と仰かれたり。先生治療を初められしときより沈疴廢疾世醫の難治として捨置たる者の治たるを見て有志の輩一時に競爭て門下に馳加故に髙名の門人多し。其書は病因考師説筆記あり。又傷風約艾灸通説なと云書、其家に出て子孫に人物乏しからす。さて後藤の門人に數輩の豪傑を出せり。
其一人は山䏮道作東洋先生と號す。外臺秘要を刻し、藏志醫則を著す。中風を熱癱癇と云所より考て、多く石膏を使用す。
又一人は香川太仲秀庵先生と號すれ𪜈堂號、世に髙く聞へて一本堂と稱す。藥選行餘醫言、醫事説約の著あり。艾灸を以て多く沈疴を療す。
又一人は松原圭介と云。此人はさせる著述も無にや經驗の家方を記したる書のみを見たり、其門人に吉益周介東洞先生と號する人出て大に髙論を吐き、建殊録、薬徴、方極、類聚方等の書を著す。今世に古方と云へは、吉益流のやうになりたるは、全く吉益の豪傑によれり。別て下劑を好む療風なり。此頃京師古方大に行れて四方の書生競ひ學て海内の療治の風爰に一變す。
世に四大家と云は、後藤山䏮香川吉益四流を指す。其意趣家〃に異なり。山䏮の門人に永冨鳳介と云人出て、赤馬關獨嘯庵と號す。京師の俚言に人の心の侭に任せずもとれる人を廣く指て毒性(どくしょう)と呼ぶ。蓋其唱の同しきを以て如此は號せりや。此人越前にて奥村良筑と云人に従て吐流を受て上京し、東洋先生に語れは先生大に嘉し嫡子東門先生を遥に越前へ下し吐方を學はしむ。良筑教て曰吾子こそ可吐證候具せりと云より徒に上京して東洋先生に其候を告け、又越前に下向して吐藥を試たり。
本邦にて上古は知らす吐流は此良筑翁より創たり。一代の内に一人も藥を乞もの無く絶たるヿ兩度ありと、され𪜈泰然として吐を以て名毉と呼れる事、其人物を思ふへし。獨嘯活達雅量にして吐方考、漫遊雑記を著す。書中に人意の表に出たる所多し。山䏮の塾に居る時、三條𣘺上に醉臥して奉行所より通達ありて引取るヿありと其任誕なるヿ如斯。然𪜈書生を勵まし人才多出來したりとぞ以上の著述は讀すんはあるべからず。

(續く)

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