原南陽の医学(4)『叢桂亭医事小言』より

原南陽の医学観

前回の「医学3」では古方派の有名人たちを紹介した。江戸期における傷寒論医学の再興である。今回の「医学4」ではこの傷寒論医学のベースとなる生理学・人体観について詳述されている。
むろん『傷寒論医学だから漢方のことで、鍼灸師には関係ない』なんてことは毛頭思わないことだ。まずは本文を読み進めていこう。


※『叢桂亭医事小言』(「近世漢方医学書集成 18」名著出版 発刊)より引用させていただきました。
※以下に現代仮名書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

医学 『叢桂亭医事小言』より

腹候叢桂亭医事小言 巻之一 原南陽先生 口授

医学(医学3より続き)

凡そ人の平生無事の常体は一身の陽気は外へ疎通するものにて、その気閉塞し内壅したる所の出来したるが病の起こる所なり。少しの滞りにても閉塞して通暢せず、夫れを順行するように療治するを医薬と云う。
夫れ人の毛孔九竅はみな発泄の具なり。その大なるは口鼻二陰なり。呼吸を止むれば死し、二便閉れば病むは人皆な是を知ると雖も、周身ともに疎通を以て無事に居ると云うことは弁えかねる人多し①
冬天清朗なる時に人の日向に在るを見れば、気の上へ昇る影見ゆる。是は皆な毛髪の孔より疎するなり。一身陽気、外へ張りてあれば寒暑風湿ともにうけず。
睡眠するときは陽気張らずして沈む故、衣被を発開すれば病を受ける。仮寝(うたたね)すれば少しの間に風を引く、酒の醒め際に外感するも、荒業力作して裸になり騒ぐ中は陽気大いに表へ張る故に風寒も知らず、休息する時に俄(にわか)に風を引く、即ちこの理也。
又、空腹なれば周身の気張らず故に外感するも同理なり。気の張ると張らざるにて諸々の外感皆な爰(ここ)に起こるなり。
さて邪を受ければ毛孔閉づる故、気は表へ通ぜんとして出ることならず。故に周身皮膚の泄する所を尋ぬる時は気升降してゾクゾクと惡寒す。その時に毛孔へ泄れ出んとすれども閉じてある故に張れあがりて粟起す。是を鳥肌と云う。発汗すれば外へ通暢する故、外邪去るの理なり。
此の処を解しそこねて(損ねて)日を移せば、陽気外へ泄することならぬ故に内に欝す。外に泄れて出ることならぬと極まれば、升降して出路を争うの気止む。その止む時に悪寒去りて熱ばかりと成る。ここが表症なきと云う場也。
夫れ故、往来寒熱は半表半裏と云いにて外へ達せんと云う。気の猶のこりてあるうちなり。胃中猶陽氣を外へ敷くことの勢い有る故也。
又、壮年の人、天井のひくき所に長坐し、或いは頭中笠など着ては昇る気を押える故に欝して煩しくなることあり。湯氣のあがるも同じなり。兎角疎通せねば陽気閉じて欝する故に熱になる。是、発熱するの訳なり。

さてその陽と云うは何処より出来るものなれば、胃より出ると見ゆ。水穀胃に入て陽気を造り出すことかぎり無く止むとき無し。是を表へ通ずるが平生無事の姿也。
陰症となれば表を閉じたる邪気、次第に深く入りて囲む故に胃より造り出す陽気の通ずる所の分、内せまくなりて陽気も次第に屈伏して一身へ敷く所に至らず。そこで一身の端々へは一向にとどき合わぬ所が手足逆冷、鼻尖も冷えるなり。是れ手足まで陽気のとどかぬ故也。附子を用いて胃気を助ける意味を知るべし也。
又、腫物を発せんとして寒熱するも周身の気の通暢せざる処の出来たる故に陽気欝して熱するなり。
又、疔発などと云うは何事もなく卒倒するの後に疔を発す②。項強、背脊強にて卒倒するもの、俗に“はやうちかた”と云う類。早く血を去れば活す。是れ欝結を疎したる故に陽気発泄して癒えるなり。とかく疎通のよきは無事の時なり。盛壮の人、紙子を着すれは欝冒昏眩するの類、皆な推して知るべし。平人常体を知りて後ち、病体を考え知るべし。気は此れの如く泄するを以て無形なり。

凡そ飲食胃に入れば精気化して気となる。是れ乃ち人身の陽気にて即ち元気と云うもの也。此の陽気を造り出すこと胃の役にて量なく造り出す。その造り出す陽気を通暢して運動するが人身の常体なり。皆な胃の役なり。故に食を絶すれば死するは、胃気尽きて件の気を造ることならぬ故なり。呼吸の気、二便の利、皆な胃より敷く所なり。故に胃気尽きれば陽気尽きるの理なり。一士人、暈倒して縁より墜ちて庭石にて額と唇を打ち破る。抱え挙げるに本心なきにはあらねどもはっきりとはなし。脈伏して絶したるにあらず。先ず三黄湯を与えるに二度飲むと今はよほど快しと云や否や、疵つきたる所より血を流す。閉じる所あれば血の出でざるのみならず、氣の発泄せざる故に暈倒したるならん。味いて解すべし。

(続く)

人体における気の動きを理解すること

下線部①「周身ともに疎通を以て無事に居ると云うことは弁えかねる人多し」という原南陽の言葉が実に印象深い。東医的な人体観においては、衛気営気が人の体を周流する。とくに営気は規則性をもち、二十八脈(=十六丈二尺)を一日に五十周しているという定義がある。
これは鍼灸師(特に経脈に対して治療を行っているタイプ)ならば、周知の生理学である。と、言いたいところであるが、現代医学の人体観から学び、異なる人体観を許容できない人にとっては荒唐無稽な情報として片づけてしまうだろう。

しかしこの身体観の許容もしくは拒絶は、現代に始まったわけでなく当時もあったのかもしれない、と思えるのが上記(下線部①)の言葉である。もしくは知識としては知っているが、腑に落ちていない・本当の意味で理解できていない…といったところであろうか。
どちらにしても人体観・生命観が構築できていないのである。人体観ができていなければ、それに基づく生理学も病理学も張りぼてのようなもの(上っ面だけで中身がないこと)である。そうなると「現場は教科書のようにはいかない」といった言葉を発する羽目になる。

下線部①の前文には「それ人の毛孔九竅はみな発泄の具なり。その大なるは口鼻二陰なり。呼吸を止むれば死し、二便閉れば病むは人皆な是を知る」ここまでは知識の話。
下線部①の後文にある「陽炎」「睡眠中」「酔いがさめる時」「労働後・運動後の外感」「空腹(中気不足)」「湯気」…などは実地で起こるエピソードから活きた人体をそのまま理解しようとする話である。
これが分かれば傷寒論医学の取っ掛かりが理解しやすい。

面疔は命にかかわる病気

幼少時のころ(かれこれ40年近く前)の話になるが、ある日(私の)弟に“おでき”のような腫物ができた。確か鼻だったか瞼だったか…この辺の記憶は曖昧だが、ハッキリと記憶に残っている言葉がある。それは母が皮膚科に連れていき診察を受けたところ「世が世なら命にかかわる症状だ」と言われたことである。
デキモノひとつでも死に至ることがあるのか…と、子ども心に驚いたものだ。

下線部②の面疔はこのことを言っている。

現代医学だと、化膿した患部を起点に敗血症を起こし重症化し、命にかかわることも…と説明できるだろう。
伝統医学での病理観は表現が異なる。病理が異なるということは治療も異なる。
伝統医学にて治療を行う以上は、この病理観・治病観の方も当然ながら体得しておくべきである。とくに我々鍼灸師は抗生物質を処方することができないのだから。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 醫學 『叢桂亭医事小言』より

■原文 醫學

醫學(醫學3より続き)

凡そ人の平生無事の常體は一身の陽氣は外へ疎通するものにて其氣閉塞し内壅したる所の出來したるか病の起る㪽なり。少しの滞にても閉塞して通暢せす。夫を順行するやうに療治するを醫藥と云。夫れ人の毛孔九竅はみな發泄の具なり。其大なるは口鼻二陰なり。呼吸を止むれは死し、二便閉れは病むは人皆是を知ると雖も周身𪜈に疎通を以て無事に居ると云ヿは辨か子る人多し。冬天清朗なる時に人の日向に在を見れは、氣の上へ昇る影見ゆる、是は皆毛髪の孔より疎するなり。一身陽氣、外へ張てあれは寒暑風濕ともにうけす、睡眠するときは陽氣張らすして沈む故、衣被を發開すれは病を受る。假寐(うたたね)すれは少の間に風を引く、酒の醒際に外感するも、荒業力作して裸になり騒く中は陽氣大に表へ張る故に風寒も不知休息する時に俄に風を引く、即ちこの理也。又、空腹なれは周身の氣張らす故に外感するも同理なり。氣張と不張にて諸外感皆爰に起るなり。
さて邪を受れは毛孔閉つる故、氣は表へ通せんとして出るヿならす。故に周身皮膚の泄する所を尋ぬる時は氣升降してぞくぞくと惡寒す。其時に毛孔へ泄れ出んとすれ𪜈閉てある故に張れあかりて粟起す。是を鳥肌と云、發汗すれは外へ通暢する故、外邪去るの理なり。此處を解しそこ子て日を移せは陽氣外へ泄するヿならぬ故に内に欝す。外に泄れて出るヿならぬと極れは升降して出路を爭の氣止む。其止む時に惡寒去りて熱はかりと成る。こヽが表症なきと云場也。夫故往來寒熱は半表半裏と云にて外へ達せんと云。氣の猶のこりてあるうちなり。胃中猶陽氣を外へ敷ヿの勢有故也。又壮年の人、天井のひくき所に長坐し、或は頭中笠なと着ては昇る氣を押へる故に欝して煩しくなるヿあり。湯氣のあかるも同なり。兎角疎通せ子は陽氣閉て欝する故に熱になる。是發熱するの譯也。さて其陽と云は何處より出來るものなれは胃より出ると見ゆ。水穀胃に入て陽氣を造り出すヿかきり無く止むとき無し。是を表へ通するか平生無事の姿也。陰症となれは表を閉たる邪氣次第に深く入て圍む故に胃より造り出す陽氣の通する所の分内せまくなりて陽氣も次第に屈伏して一身へ敷く所に至らず。そこて一身の端〃へは一向にとゝき合ぬ所か手足逆冷鼻尖も冷るなり。是手足まて陽氣のとゝかぬ故也。附子を用て胃氣を助ける意味可知也。又腫物を發せんとして寒熱するも周身の氣通暢せさる處の出來たる故に陽氣欝して熱するなり。又疔發なとゝ云は何事もなく卒倒するの後に疔を發す。項強背脊強にて卒倒するもの、俗にはやうちかたと云類。早く血を去れは活す。是欝結を疎したる故に陽氣發泄して癒るなり。とかく疎通のよきは無事の時なり。盛壮の人、紙子を着すれは欝冒昏眩するの類、皆推て知るへし。平人常體を知て後ち病體を考へ知るへし。氣は如此泄するを以て無形なり。
凡飲食胃に入れは精氣化して氣となる。是乃人身の陽氣にて即元氣と云もの也。此陽氣を造り出ヿ胃の役にて量なく造り出す。其造り出す陽氣を通暢して運動するか人身の常體なり。皆胃の役なり。故に食を絶すれは死するは胃氣盡て件の氣を造るヿならぬ故なり。呼吸の氣、二便の利、皆胃より敷く所なり。故に胃氣盡れは陽氣盡るの理なり。一士人暈倒して縁より墜て庭石にて額と唇を打破る。抱擧るに本心なきにはあら子𪜈はつきりとなし。脉伏して絶したるにあらす。先つ三黄湯を與るに二度飲むと今はよほと快と云や否や、疵つきたる所より血を流す。閉る所あれは血の出さるのみならす、氣の發泄せさる故に暈倒したるならん。味て解すへし。

(續く)

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