原南陽の脈論-押し切れの脈と打ち切れの脈そして胃の気-

原南陽の脈論のみどころ

原南陽の脈論(『叢桂亭医事小言』収録)には、興味深い脈診法が記されている。脈診法というより脈診観というべきであろう。とくにキーワードとなるのは「押し切れ」と「打ち切れ」であり両者を結ぶ「胃気」である。これら3つのキーワードをいかに理解するか?で脈診の理解度も変わってくるだろう。


※『叢桂亭医事小言』近世漢方医学書集成(名著出版)より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

脈論 『叢桂亭医事小言』より

脈論

脈は医門の大綱にして死生吉凶を決するの根本也。即ち四診の切の字也。必ず病状を知るの具に非ず。『素問』『難経』にその論詳なれば、熟読して知るべし。さりなから悪く泥(なず)めば一向に役に立たず。脈は至りて初学に知れかねるものなり。猶更(なおさら)知れぬものという心得えにて見ては更に用いるにたたずと云うほどの事なり。

『素問』に「脈の動静を切して精明を視て、五色を察し五臓の有余不足、六府の強弱、形の盛衰を観、此れを以て参伍して死生の分を決す」(脈要精微論)と。又、云う「治の要極は色脈を失うこと無し。これを用いて惑わざるは治の大則」(移精変気)と云いにて考れは、必ず脈許(ばかり)にて察するものに限らず。脈と外候を参考して死生は決するものと知るべし。

さて四季の脈は弦鉤毛石と四つなれども初学の人にて知れることに非ず。況や二十四脉に至りては益々繁(しげ)くて並々のことに非ず。古人も夫れ故七表八裏を分け、或いは六脈を以て平日の用に立てるの説なれども、つまる処が指三本の下にて一皮かむりてあるものを探るなれば、知がたきも尤なり。脈を取る専要と云うは胃の気の候が専一也。胃の氣なければ弦鉤毛石も浮沈遅数滑濇も死脈となる。『素問』に云う。「平人、常の気を胃に於いて禀く、胃は平人の常の気也。人に胃気無きは逆と曰う。逆する者は死する」(平人気象論)。何れにも胃の気確かなれば、なかなか病人が急に死すものにてなし。さて其の胃の気と云うは形はなし。四季の脈は弦鉤毛石と皆形を説(と)けり六脈も浮沈遅数滑濇と皆形状あり。されども胃の気なければ死脈なり。さすれば胃の気と云うは形の無きものと云うことを知るべし。如何様(いかよう)の脈にても胃の気が大切の見処(みどころ)なり。

死生を決するの要務にして精神を指下に用いて脈を診すべし。何れにも脈を候いたきほど取りて指を重くして骨に至る。是を難経(五難)にて腎脈の部とす。夫れを今一つ押してみれば尺部に押し切られても関か寸の部に、脈がひびく。是を胃気の脈と云う。脈の形は何れにもせよ、押し切られて脈の通ぜざるが胃気無しとす。是の脈力の無きにて、脈力は元気の粋なり。乃ち胃気と称するものなり。其の脈の胃気なきは猶更(なおさら)長病人ならば油断はならぬ。如何(いか)ほど病勢つよく見ゆるども胃気があらば、手段は尽きたると云うべからず。
さて是も功を積まねば胃気があるようにても無きこともあり、無きようにても有ことも有り。平日、心を深く用いて平日の脈にて取り覚えるべし。是(これ)先の君子、清漣先生(父、原清漣)の教えを奉する所にて今に至りて多試多験(なり)。脾脈と云うも胃気のことなり。脾胃ともに一同に論じてある。『難経』に云う「呼は心と肺に出で、吸は腎と肝に入る、呼吸の間、脾は穀味を受ける也。其の脈は中に在り」(四難)と云うをみて「一呼再動、一吸再動、呼吸定息、脈五動す。関するに大息を以てす」(平人気象論)の大息(太息)を中に在りと云う。字面へかけて脾の候也と云うは悪しし。既に四臓は皆な形を説き末に至りて「脾は中州、故にその脈は中に在り」(四難)と云うにて、大息のことにて無きことを知るべし。又、十五難に「脾は中州也。その平和は得て見るべからず。衰うは乃ち見るのみ。」 是れ大息のことに非ず。又、常に形のなきことも考え知るへし。「来たること雀の啄む如し、水の下に漏るるが如し、是れ脾の衰えの見(あらわ)るる也」(十五難)。是の脈の刻み、一つ一つに切れて続かざるのかたちなり。胃気あるは何ほど押切りても押切れぬ故一つ一つになることなし。雀の啄すること水の漏たるようにはならず。是れ胃の気の無き故なること知るべし。

さて胃気の脈は和緩なるを指して云うなど云いし人もあり。又『素問』(平人気象論)に四季の脈へ“微”の字を帯びて論じてある処もあれども、是は別に説あることなり。事なが(長?)ければ爰(ここ)に論ぜず。兎角(とかく)胃の気の脈に形はなし。『素問』(玉機真蔵論)にも「帝曰く、脾の善悪、得て見るべきか? 岐伯曰く、善なる者は得て見るべからず、悪なる者は見るべし」。形のなきこと考へ知るべし。

脈に打ち切れと云うありて、素人も知りて恐がる。さりながら一通りの打ち切りて死ぬものに非ず。積のある人か老人の血液燥枯して潤いの無き人には常にあること也。脈許(ばかり)にても無し、一身の動気が一様に打ち切れるなり。成程(なるほど)いやなること也。然れども驚くことにあらず。是は結脈とも促脈とも云う。結は緩脈の打ち切れなり、促は数脈の打ち切れなり。死脈に非ず。
難経(十一難)には「五十動にて一止するは一臓のかけたる」とあれども、今病人をみるに五六動にて一止するか、七八動或は一二動にて一止するもの多し。難経の説なれは五臓の気、皆尽きたると云う所なれども、必ず病人死するに限らず。又、今時の医者は五十動を診するほどは脈を取りて居らず。握る(脈を診た)と思うと直(すぐ)に放す。夫れ故、七八動の打ち切れも見つけぬことあり。真の打ち切れは古(いにしえ)に代脈と云うものなり。代の字義によりて考えれば、“代わる”と云う意なるべし。数脈が一止すると急に遅脈になり、大脈が一止すると乍ち細脈になるの類なるべし。是は大病人には折々有る事なり。是こそ死に近きと知るべし。されども『傷寒論』に云う代脈と云うには適わず。是は文に訳の有るなるへし。初学の人、打ち切れに驚きて療治に臆することあり、よくよく心得うべし。

三部にて病状を診(うかがい)得るの法は、関前寸部より脈の形すすんで魚際へ上るほどに診ゆるは、上衝・頭痛・眼疾・耳鳴・眩暈の類(たぐい)とす。関部に悪く力があるか、又は脈の刻みが知りかねるの類は腹部のしつらひとなす。尺部の脈にかはりて(力張りて or 変わりて)尻はり(尻張り?)なるは、腰・脚・足・脛の病となす。左右は左右を分ける。是に心を用て候い、学べば大概は分かるものなり。

近来の流行にて脈などの事に骨を折れば、見識の無きように成りたるは古方家以来の弊(弊害)なるべし。初学の輩は精神を凝らして工夫を為すべし。されども脈ばかりみて他候にかまわぬ医者あり。夫れでも知れるならば勿論なれども、恐らくは知れかねるならん。
予は参伍しても洞見することならず。又、前條に引証する通り『素問』の診法に背けり。

脈の虚脱して取にくく、様子も衰え、何から見ても大病と知れてある病人は一向のこと指して工夫も入らず。只(ただ)恐るべきものは数脈なり。急卒の病に至りて数ならば油断はならず。小児は勿論なり。驚証などになること数脈より変ず。大人とても数の甚しきは急変を生ずることあり得ると、胃気を候ひ外候へも参伍すべし。新病旧病の差別なし。さりなから熱あればいつにても数脈はあらわすものなればよくよく精神を用いて取り得べし。さまでもなき熱を臆して治し損ねぬ(よう)心得すべし。又、平日無病の人にて数脈なるは労瘵の催しなるもの多し。

脈衰えて長病急病の別なく、頻りに大被を重く覚えて覆することならず。薄着にて臥することを好むは大切なり。極めて胃気を候すへし。絶えて有るもの多し。外見はよくとも油断すべから。又、肌は冷えて居ながら甚だ熱を覚えて、昼夜衣被を発開し覆することならぬ者あり、冷汗などあり。四肢微冷する類、傷寒論の「病人、身大熱、反て近衣を得んと欲する者、熱は皮膚に在り、寒は骨髄に在る也。身大寒、反て近衣を欲する者、寒は皮膚に在り、熱は骨髄に在る也」と有れども、後人の論説とみゆる。仮寒真熱、仮熱真寒と医籍にあり。又活人書(『傷寒類証活人書』)に先ず陽旦湯を与え、後に小柴胡を与う。先ず白虎湯を与え、次に桂麻各半湯を与うるの説は空理を以て論じたるなり。是れ極虚の候にて長病・老人・小児・痢後・死に近きなどに多し。虚熱陰火などとも云うべき也。脈形悪しきは猶更なり。指を屈して死を期する悪候也。

脈と証と合せぬは凶兆なれども一定の看法に仕がたし。悪証にても脈より取りすが(縋)りて療治することあり。此の時は証と脈の合(がっ)せぬを佳とす。又、脈は悪しけれども病形よろしき故、一手段つけて治することも日用の事なり。定法とすべからす。取捨に巧拙の入る所なり。

脈診で最も重要なのは胃の気

まず冒頭から「脈は医門の大綱にして死生吉凶を決するの根本」であるとし、脈診を診法の要に置いている。いかに原南陽が脈診を重要視していたかが分かる言葉である。

さて診候の要となる脈診であるが、とくに重要となるものがある。それが胃の気(胃気)である。「脈を取る専要と云うは胃の氣の候が専一也」「いかようの脈にても胃の気が大切のみどころなり」という言葉にその意が表われている。

では脈における胃気とはなんぞや?という疑問が生じることであろう。
胃気を有無を脈にてどのように診るべきか?

この「脈論」では脈における胃気について実に丁寧に記されている。本文の言葉(意訳)を引用しよう。
「四季の脈は弦鉤毛石とみな形を説いている。六脈もまた浮沈遅数滑濇とみな形状がある。しかし胃の気が無ければ、それらの脈ですら死脈となる。であるならば、胃の気というものは形の無いものであることが分かる」
なるほど、むべなるかな、と唸らされるばかりである。

しかし臨床治療に携わる人はこうも思うだろう『形の無いものであることは分かった、でもそれじゃどうやって診るの?』と。

形の無いものをどうやって診るのか?

命とは形の無いものである。

医学は洋の東西を問わず、その形の無いものをどうにかして見えるよう認識できるように努力を積み重ねてきた。あるものは画像や数値に、あるものは触覚や視覚などの五感を通じて認識できるように診法の中に組み込んできた。

現代の鍼灸師の多くは一方を客観的情報、もう一方を主観的情報として、両者を是非に分けてしまっている。このことは実に勿体の無いことである。研究者の視点と臨床治療家の視点を弁えた上で、両者をうまく活用すべきものを…と残念に思う次第である。…と、愚痴はこのくらいにしておこう。

「脈論」から学ぶべきことは、胃気という無形の要素をいかに診候したのか?という原南陽の工夫である。

押し切れの脈

まず第一に原南陽は押し切れの脈を提示している。その手法は「指を重く按じて骨に至る。これは難経五難では腎脈の部とする。それをさらに押してみる。すると尺部を指按で押し切っても関上か寸中の部に脈がひびくはずである。これを胃気の脈という」とのこと。

この文を読んで、連想するのは扁鵲と曲直瀬道三の脈診である。

扁鵲の脈診とは、原南陽も文中に記しているとおり難経五難の脈診である。
「これを按じて骨に至り指を挙げて来たること疾き者は腎なり(按之至骨挙指来疾者腎也)」として、骨に至るまで重按し、指を微かに浮かしたときに疾く来たる脈気を腎気としている。
原南陽は腎気とせずに腎部と表記しているが、腎部の脈とは即ち腎気である。しかし、原南陽はそれを胃気としている。

「脈力は元気の粋である。これすなわち胃気と称するものである」とし、根底にある腎部の脈を、根本の脈力=元気=胃気としている。この論法はやや強引にもみえるが、元気をいかに解釈しているか?で表現が異なるのであろう。
ただ難経五難を採るならば、難経八難の胃気と腎気(≒原気)の違いも解説した上で押し切れの脈を胃の気と論ずるべきではなかろうか…とも思う次第である。

しかし原南陽は重要な指摘を記している。
「胃気のある脈とは、どれほど押し切っても押し切れない。それ故に一つ一つに途切れるようなことは無い」
この論法は実に興味深い。

押し切れの脈と打ち切れの脈

腎部の脈の確認することで根本的な脈力を確認し、それを元気=胃気と仮定して【押し切れの脈=胃気】とした。
また“押し切れない”ということは“途切れない”ということでもある、とし、打ち切れの脈(打ち切れない脈)を胃気の有無を確認する脈法とした。
前者の論は素直に首肯できない点もあるが、後者の論は非常に正鵠を得た指摘である。脾胃の気のはたらきの重要なものに“連続性”や“接続性”である。(当サイト記事『代脈とは『診家枢要』より』『代脈とは『瀕湖脈学』より』を参照されたし)

代脈はいわゆる「一止する脈」である。脈搏・脈動における連続性の失調を指して胃気の衰弱をみている。しかし原南陽は脈搏・脈動だけに留まらない。脈状の恒常性においても言及している。それが「打ち切れの脈」である。

原南陽が指摘するような「打ち切れの脈」すなわち脈状がコロコロ変化する脈証というのは、実際にも稀に遭遇することがある。この脈証を胃気の不和として注意して身構えるべきであろう。

但し、この目まぐるしく変化する脈象は、邪祟の脈・中悪の脈としても脈診書(『脈法手引草』)に記されていることがある。このことについては詳述できないのでメモとして付記しておく。

以上のように「押し切れの脈」「打ち切れの脈」に焦点を当て、その根底にあるものとして「胃気」を示している原南陽の脈診観には非常に共感を覚える。実際に脈において起こる事象から、目に見えない形のないもの(胃気や命)を如何にして推し測るか?を真摯に考え実践した医家なのだろうと推察する。

鍼道五経会 足立繁久

医学 ≪ 脈論 ≫ 腹候

原文 脉論 『叢桂亭医事小言』より

■原文 脉論

脉は醫門の大綱にして死生吉凶を決するの根本也。即四診の切の字也。必病状を知るの具に非す。素問難経に其論詳なれは、熟讀して可知。去りなから惡く泥めは一向にやくに不立。脉は至りて初學に知れかねるものなり。猶更しれぬものという心得にて見ては更に用にたゝすと云ほとの事なり。

素問に切脉動静而視精明、察五色觀五臓有餘不足六府強弱形之盛衰、以此参伍決死生之分。又云治之要極無失色脉用之不惑治之大則と云にて考れは、必脉許にて察するものに不限。脉と外候を参考して死生は決するものと知るへし。

さて四季の脉は弦鉤毛石と四つなれ𪜈初學の人にて知れるヿに非す。況や二十四脉に至りては益々しけくて並々のヿに非す。古人も夫故七表八裏を分、或は六脉を以平日の用に立るの説なれ𪜈、つまる處か指三本の下にて一皮かむりてあるものを探るなれは、知かたきも尤なり。脉を取る専要と云は胃の氣の候か専一也。胃の氣なけれは弦鉤毛石も浮沈遅數滑濇も死脉となる。素問云、平人之常氣禀於胃、胃者平人之常氣也。人無胃氣曰逆、逆者死。何にも胃の氣たしかなれはなか〱病人が急に死すものにてなし。さて其胃の氣と云は形はなし。四季の脉は弦鉤毛石と皆形をとけり六脉も浮沈遅數滑濇と皆形状あり。されども胃の氣なけれは死脉なり。さすれは胃の氣と云は形のなきものと云ヿを知るへし。如何様の脉にても胃の氣が大切の見處なり。

死生を決するの要務にして精神を指下に用て脉を診すへし。何にも脉を候たきほと取りて指を重くして骨に至る是を難經にて腎脉の部とす。夫を今一つ押てみれば尺部に押し切られても関か寸の部に脉がひゞく是を胃氣の脉と云。脉の形は何にもせよ、押切られて脉の不通が胃氣なしとす。是脉力の無きにて脉力は元氣の粹なり。乃胃氣と稱するものなり。其脉の胃氣なきは猶更長病人ならば油斷はならぬ如何ほと病勢つよく見ゆる𪜈胃氣かあらは手叚は盡たると云へからす。さて是も功を積子は胃氣かあるやうにても無ヿもあり、無きやうにても有ヿも有。平日心を深用て平日の脉にて取覺へし。是先君子清漣先生の教を奉する所にて至今多試多驗。脾脉と云も胃氣のヿなり。脾胃ともに一同に論してある難經云、呼出心與肺、吸入腎與肝、呼吸之間脾受穀味也。其脉在中と云をみて一呼再動一吸再動呼吸定息脉五動。関するに以大息の大息を中に在と云、字面へかけて脾の候也と云はあしゝ。既に四藏は皆形を説き末に至りて脾者中州故其脉在中と云にて大息のヿにて無ことを知へし。又十五難に脾者中州也。其平和不可得見衰乃見耳。是大息のヿに非ず。又常に形のなきヿも考知るへし。来如雀之啄如水之下漏、是脾衰之見也。是脉のきさみ一つ一つに切れてつゞかざるのかたちなり。胃氣あるは何ほと押きりても押切れぬ故一つ一つになるヿなし。雀の啄すること水の漏たるやうにはならす。是胃の氣のなき故なるヿ知へし。

さて胃氣の脉は和緩なるを指て云なと云し人もあり。又素問に四季の脉へ微の字を帯て論してある處もあれ𪜈是は別に説あるヿなり。事なかけれは爰に不論。兎角胃の氣の脉に形はなし。素問にも帝曰、脾善惡可得見乎。岐伯曰善者不可得見、惡者可見形のなきヿ考へ知るへし。

脉にうちきれと云ありて素人も知りてこはかる。去なから一通りの打切て死ぬものに非す。積のある人か老人の血液燥枯してうるほひのなき人には常にあるヿ也。脉許にてもなし一身の動氣か一様に打切れるなり。成程いやなるヿ也。然𪜈驚ヿにあらす。是は結脉とも促脉とも云。結は緩脉の打切なり、促は數脉の打切れなり。死脉に非す。難經には五十動にて一止するは一臓のかけたるとあれ𪜈今病人をみるに五六動にて一止するか七八動或は一二動にて一止するもの多し。難經の説なれは五臓の氣皆盡たると云所なれ𪜈必病人死するにかきらす。又今時の醫者は五十動を診するほとは脉を取りて不居。握と思ふと直に放す。夫れゆへ七八動のうちきれも見つけぬヿあり。真のうち切れは古に代脉と云うものなり。代の字義によりて考れはかはると云意なるへし。數脉か一止すると急に遅脉になり、大脉か一止すると乍細脉になるの類なるへし。是は大病人には折〃有る事なり。是こそ死にちかきと知るへし。され𪜈傷寒論に云ふ代脉と云にはかなわす。是は文にわけのあるなるへし。初學の人うち切れに驚きて療治に臆するヿあり、よく〱心得へし。

三部にて病状を診得るの法は関前寸部より脉の形すゝんて魚際へのほるほとにみゆるは上衝頭痛眼疾耳鳴眩暈の類とす。関部にわるく力があるか又は脉のきさみか知か子るの類は腹部のしつらひとなす。尺部の脉にかはりて尻はりなるは腰脚足脛の病となす。左右は左右をわける。是に心を用て候、學は大概はわかるものなり。

近来の流行にて脉なとの事に骨を折れは見識のなきやふに成たるは古方家以来の弊なるへし。初學の輩は精神をこらして工夫をなすへし。され𪜈脉ばかりみて他候にかまわぬ醫者あり。夫れても知れるならは勿論なれ𪜈恐くは知れか子るならん。
予は参伍しても洞見するヿならす。又、前條に引證する通り素問の診法にそむけり。

脉の虚脱して取にくゝ様子もをとろへ何から見ても大病と知れてある病人は一向のヿ指て工夫も入らす。只可恐ものは數脉なり。急卒の病に至て數ならは油斷はならす。小兒は勿論なり。驚證なとになるヿ數脉より變す。大人とても數の甚しきは急變を生するヿあり得と胃氣を候ひ外候へも参伍すべし。新病𦾔病の差別なし。去なから熱あれはいつにても數脉はあらわすものなれはよく〱精神を用ひて取り得へし。さまてもなき熱を臆して治しそこ子ぬ心得すへし。又平日無病の人にて數脉なるは勞瘵の催なるもの多し。

脉衰へて長病急病の別なく頻りに大被を重く覺へて覆するヿならす。薄着にて臥するヿを好は大切なり。極て胃氣を候すへし。絶て有るもの多し。外見はよくとも油斷すへからす。又肌は冷て居なから甚熱を覺へて晝夜衣被を發開し覆するヿならぬものあり、冷汗なとあり。四支微冷する類傷寒論の病人、身大熱反欲得近衣者、熱在皮膚、寒在骨髓也。身大寒、反不欲近衣者、寒在皮膚、熱在骨髓也。と有れ𪜈、後人の論説とみゆる。假寒真熱、假熱真寒と醫籍にあり。又活人書に先陽旦湯を與へ後に小柴胡を與ふ。先與白虎、次に桂麻各半湯を與るの説は空理を以て論たるなり。是極虚の候にて長病老人小兒痢後近死なとに多し。虚熱陰火なとゝも云ふへき也。脉形惡きは猶更なり。屈指死を期する惡候也。

脉と證と合せぬは凶兆なれ𪜈一定の看法に仕かたし。惡證にても脉よりとりすかりて療治するヿあり。此時は證脉の合せぬを佳とす。又脉は惡けれ𪜈病形よろしき故一手叚つけて治するヿ日用の事なり。定法とすへからす。取捨に巧拙の入る所なり。

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