目次
1.心の臓所属の提綱。并びに神気。附 受胎・君相の二火
本章では心の臓を主テーマとする内容ですが、さすがは岡本一抱先生、心の臓象や少陰心経だけでなく「神氣」や「君火相火の二火」も取り上げて、心と絡めて解説してくれています。
※『臓腑経絡詳解』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青色枠部分が『臓腑経絡詳解』の書き下し文です。
※書き下し文の下に足立のコメントを添えている章もあります。
心の臓、所属の提綱
心は左寸に候う。その脉微洪にして且つ潤澤(じゅんたく)有りて、琅玕(ろうかん)を循(なづ)るが如き者は心平なり。偏(ひとえ)に洪にして潤澤薄き者は心病なり。左寸沈なる者は腎邪来たりて心を尅す。治し難し。
○心は南方の火。肝木に養われ、脾土を生じ、肺金を尅し、腎水に尅せらる。四時に在りては夏に旺す。体に在りては血を生ず。心は南方の火、即ち離卦の位。離中の一陰、心血を生ず。故に血色は赤し。赤きは火の色。是を以て人の顔色、其の赤きこと鶏冠(けいかん)の如き 赤の光澤あり 者、或いは縞(かとり)をもって硃(しゅ)を裹(つつ)むが如き者は皆な胃の氣を兼ぬ。心の生色なり。赤きこと衃血(はいけつ)の 瘀血なり。赤紫にして黒く光澤なし 如き者は胃の氣と元陽との化を受けず。心の死色治すべからずなり。
心は竅(あな)を舌に開く 舌は竅に非ざるに似たりと雖も、舌に注ぐ腠理の微穴有り。飮食の五味、此の腠理に達して味を知る。即ち心の竅なり。且つ舌の赤くして動く貌、火の象(かたど)りなり。又、舌は心の苗(なえ)とす。
(『素問』)霊蘭秘典論に曰く、心は君主の官。神明出づと。心は一身の主。五臓六腑四肢百骸、これが命に従いて用(はたらき)をなす。故に君主とす。君主となる所以(ゆえん)の者は、心は神を舎(やど)すの臓なればなり。
神とは何ぞや。夫れ天地は陰陽を以て萬物を造化す。陰陽動静往来の機(き・あやつり)、何者の爲す所ぞや。神に従うて之を爲すなり。(『素問』)天元紀大論に曰く、陰陽は神明の府(あつまる)なり。又曰く、陰陽測(はか)られざる。之を神と謂う云々。
神は陰ならず陽ならず。陰陽の間に府會(あつまりかい)し、名を以て尋ぬべからず。氣を以て見るべからず。天地陰陽自然の妙氣。萬物の本元。造化生殺の根。人身にしては心に蔵(かく)るなり。
近く人を以て此れを云うに、人の生ずる、男女交會して一滴の精、母の子宮に納(い)るに生ず。其の精の泄(も)るるや、父母の感情、心に動じ、其の氣下焦腎陰に及ぶ。及ぶときは則ち下(しも)動じて精泄る。
然るときは則ち、此の精泄(せいせつ)、感心に生ず。心の感は、神の感なり。神感じて其の氣下に及びて精泄るときは則ち、其の精中自ずから感ずる所の神氣舎(やど)れり。猶(なお)譬えば日月の光明、川澤に移ると同じ。父母感神の両精、合して神氣善く府(あつま)る。此の神即ち此の身具足(ぐそく)の時に至りては、又其の人の膻中心宮に蔵(かく)れ、萬事の主宰となる。神全きときは則ち身全し。神乏しきときは則ち身亡ぶ。謹まずんばあるべからず。
故に(『霊枢』)本神篇に曰く、両精相搏つ、之を神という。(『霊枢』)決氣篇に曰く、両神相搏ち合して形を成す云々。
或る人の問うて曰く、神は天地に始まり父母に受く。人身の根元實(まこと)に君主たり。其の全躰具足の後、何に由(よ)りてか此の氣を養うや。
答えて曰く(『素問』)八正神明論に曰く、血氣は人の神云々。神の生ずる有形の始め、先天より有る所の者にして、既に身躰具足の後、氣血の陰陽水穀の精微皆な之を助けて神を成すなり。
故に(『霊枢』)平人絶穀篇に曰く、神は水穀の精氣なり云々。是を以て神を養う者は血氣を和し、中焦を調え、陰陽平らかなれば其の神自ずと安しなり。神の心に在るや、心血を以て舎す。
凡そ無形は有形に従う。神は無形の氣。心中常に持(たも)つ所の血中に舎る。
猶(なお)魚の水中に遊ぶと同じ。故に心血不足するときは則ち神氣安からず。以て驚悸(きょうき)怔忡(せいちゅう・むなさわぎ)を爲す。此れ又、魚の水無くして跳(おどる)の理なり。
或る人、又問うて曰く、心は君主の官たること照然たり。所謂(いわゆる)神明出づとは何ぞや。
答えて曰く、詳なるかな問うこと。神は天地造化の本元。陰陽の精粋、天に属せず地に属せず、陰ならず陽ならずと雖も、其の性は陽に位す。如何(いかん)となれば、神は氣なり。氣は陽とす。故に神の舎る宇宙に在りては天に顕(あらわ)し、人に在りては上焦の陽分に舎る。
(『素問』)生氣通天論に曰く、陽氣〔神を指す〕は天と日の若(ごと)し云々。日や、陽や、明をもって徳とす。人の眼耳鼻舌志意識の明用、皆な此の神氣の化に出る者なり。是を以て神明出づと云う。
(『素問』)六節蔵象論に曰く、心は生の本云々。
心は藏神の官。一身の主。生命の本根たり。是を以て諸邪の心を犯す者は、心の外郭(がいかく)其の包絡に感ず。若(も)し本心を傷ること有るときは則ち生氣 即ち損じて必ず死す。真心痛の由、皆な此の理なり。
(『霊枢』)邪客篇に曰く、心は五臓六腑の大主なり。精神の舎る所なり。其の蔵堅固にして邪、容(い)るること能わず。之に容るるときは則ち心傷る。心傷るときは則ち神去る。神去るときは則ち死す。故に諸邪の心に在る者は皆な心の包絡に在り。包絡は心主の脉なり云々。
苦味、焦臭(こがれくさし)は心に出入し、寒熱を悪(にく)んで温を好む。七情五聲五音に有りては、喜・笑・徴(ち)を主るなり。
或る人問うて曰く、心は南方離火。火の化は熱なり。師、何ぞ熱を悪みて温を好むと云うや。
然なり。火化を熱とする者は、君相二火を総じて云う。夫れ五行の道、土金水は陰なり。木火は陽なり。陽少なくして陰多し、陰多きときは則ち殺氣勝ちて生氣不足す。天地の仁氣見るべからず。故に火に於いて君火相火在りて、陰陽対す。君火は明を以てし、相火は位を以てす、と。即ち『素問』天元紀大論の言と、唐の王冰(おうひょう)、宋の陳無澤(ちんむたく)、元の朱丹渓(しゅたんけい)、明の李時珍(りじちん)、張介賓(ちょうかいひん)等の諸説在り。然れども丹渓独り其の理に通じて、張氏重ねて其の道を明にす。
陽の上に在る者を君火とす。即ち火の氣なり。陽の下に在る者を相火とす。即ち火の質なり。上なる者は離に応ず。陽氣外に明らかなり。下なる者は坎中の陽に応ず。外暗くして、陽内に位す。凡そ天地人身の功用は神明かならくする而已(のみ)。神なるときは則ち明。明なるときは則ち神なり。此の神明は君火の言いなり。天は之を得て、日月を以て萬方を照らし、人は此の氣を膻中に得て萬理を明らかにす。此れ即ち君火は明を以てするの義なり。相火は下に位して萬物を化熟し、人は此の質を下焦に蔵(かく)して周身を養う。此れを人間日用の火を以て譬え言うに、明は氣に出で、位は形に出づ。一寸の燈光(とうこう)満室に明らかなるは君火なり。爐(ろ)に盈(みつる)の炭(すみび)熱有りて燄(ひかり)無きは相火の質なり。火炎は上に升り、炭火は下に降る。降る者は重くして動かず。此れ相火は位を以てするの義なり。氣は軽くして質は重し。軽き者は緩く、重き者は急なり。是を以て君火の化は温、相火の化は火熱。勢い最も烈(はげし)。
四時の令、小満の前、六十日有奇(ゆうき・はした)は温和乃(すなわち)行る。君火の主なり。夏至の前後六十日有奇は炎熱乃ち行(めぐ)る。相火の主なり。相火位を衞(まもり)て造化を輔助(ほじょ)するときは則ち天は原泉の温、人は命門の元陽生気の根たり。其の変動するに至りては、萬物焦爍(しょうしゃく・こがしとろける)し、人氣損傷す。神氣も又従いて之が爲に耗散す。故に東垣、火と元気と両(ふた)つながら立たず、と。『内経』に相火は気を食(は)む、と。此れ相火の変化は熱となり。神を傷るの所以(ゆえん)。陰虚火動は治し難く、肝は瀉有りて補無きの因。皆、之を以て之を尽す。天人の本根、医家の太源を知らずんばあるべからず。
陰陽不測を神という
「陰陽不測之謂神」は『素問』天元紀大論六十六、『易経』繋辞伝に登場します。個人的には非常に重要な文言だと思いますし、当会講座でもよく話題に登場する言葉ですね。
本章の文言「神は陰ならず陽ならず」「陰陽の間に府会し」「氣を以て見るべからず」などは実に的を得ている言葉です。「陰陽不測」の存在ですから「不陰不陽(陰ならず陽ならず)」なのです。このようにみると、胃氣や神氣への理解が更に深まること必至なのです。
君火相火の二火を説く
本章では相火について熱く論じています。一抱先生はやはり朱丹渓を推していますね。歴代の医家の中でも、朱丹渓だけが“その理に通じて”いる!と評価しています。朱丹渓が解き明かした理を、張景岳がさらにその道を明らかにしていると、朱丹渓-張景岳の学説を認めています。朱丹渓は『格知余論』相火論にて、相火という言葉を改めて取り上げた人物です。
一抱先生はこのように記しています。
「上なる者(君火)は離に応ず。陽氣外に明らかなり。下なる者(相火)は坎中の陽に応ず。外暗くして、陽内に位す。」と。
離卦そのものを君火、坎中一陽を相火と見立てて表しています。
心の臓、補瀉温涼の薬
[補]
參(人参)甘微温 笁(天竺黄)甘寒 金屑(金屑)甘冷 屑艮(銀屑)辛寒 麥(麦門冬)甘微寒 遠(遠志)苦辛温 芋(山薬)甘平 芎(川芎)辛温 當(当帰)甘微温 羚(羚羊角)甘寒 紅(紅花)辛温 ●(そうえん)鹹微温
[瀉]
木實(枳実)苦寒 葶(亭歴)苦辛寒 苦(苦参)苦寒 貝(貝母)苦辛微寒 索(玄胡索・延胡索)辛温 杏(杏仁)苦甘温 欝(鬱金)辛温 連(黄連)苦寒 前(前胡)苦甘辛微寒 田(半夏)苦辛温
[温]
藿(藿香) 蘓子(紫蘇子) 宻(木香) 沉(沈香) 乳(乳香) 菖(石菖蒲)
[涼]
連(黄連) 牛(牛黄) 葉(竹葉) 知(知母) 梔(山梔子) 羽(連翹) 珠(珍珠) 蘆(蘆根) 貝(貝母) 犀(犀角) 粉(玄明粉)
東垣先生 報使引経の薬
獨(独活)経
細(細辛)上行
[補]の最後にある「そうえん」の漢字「●」は“塩”の土へんを火へんに変えた文字です。「和漢薬名略字索引」(『近世漢方医学書集成』第六巻付録)から、田代三喜の略字一覧を探したのですが、火へんの塩はなく…。
また、火へんであることから、「そうえん」→「えんそう(煙草)」かと考え、岡本氏の書『和語本草綱目』をみたのですが「煙艸(えんさう)」に記されているのは「鹹微温」ではなく「辛温」でした。
煙草が日本に伝来されたのは、田代三喜の没後のようですが、岡本一抱の時代には既に日本に伝わっています。『和語本草綱目』に記される煙草の説明もなかなか興味深いものがあります。
心臓の象
『臓腑経絡詳解』の心臓の絵図。本記事では不掲載。『臓腑経絡詳解』を参照のこと。
心の臓象たる、脊の第五の椎に附着して、其の色赤し。未だ敷(ひらか)ざる蓮華の如し。半ば肺の八葉の間に入り、膈膜〔肺経に詳らか也〕の上に居り、臓中常に血を生じて神を舎し、中に九の孔竅(こうきょう・あな)有りて、天真の氣を導引し、上(かみ)舌に通じ、四臓の主と爲る。故に四臓の系(けい・つりいと)は皆心に入る。如何(いかん)となれば、心は君主の官、神明の源。諸の臓神此れが命を受く。是を以て諸臓の系は心に属すなり。
或説に曰く、上智の人は心に七孔三毛、中智の人には五竅二毛、下智の人には三竅一毛、常人には二竅有りて毛無し、愚人には一竅、下愚の人には一竅有れども甚だ小なり〔難経図註〕。
或る人問う、心の孔竅、何の爲に然るや。
答えて曰く、天真の氣を導引し、神氣此れより発して明を爲す。其の竅、上に向て下に透竅(とうきょう・とおるあな)無し。此れを心竅と云う。
或いは痰、或いは七情その心竅を閉じるときは則ち視聴言動みな妄行(もうこう)す。譬えば、日月の光明雲雨これを蔽うときは則ち萬物(ばんぶつ)盡(ことごと)く暗きが如し。
石菖蒲(せきしょうぶ)は手の少陰の薬、耳目を明にし、音聲を出し、心智を益す者亦(また)此の理なり。蓋し菖蒲は能く心竅を開くが故なり。實(まこと)に心は一身の大主生氣の本(もと)なり。故に心臓独り倮(あらわ)ならず。細筋膜(さいきんまく・ほそきちすじ)在りて以て之を包む。名けて心包と云う。心の貴き所以、人身の自然なり。
『臓腑経絡詳解』では手少陰心経の図あり 本記事では不掲載。『臓腑経絡詳解』を参照のこと。
手の少陰心の経の指南
○手の少陰心の経は氣多くして血少し。
歳中主氣の位を以て之を言うに、二月の中春分より、四月の中小満に至りて、六十日有奇(ゆうき・はした)は少陰君火の令(れい)とす。陽氣の温和行われて冬陰の残寒退くことを得(う)。此れ少陰の経は、陽氣多くして陰血少なきの所以なり。
○(『霊枢』)経脉篇に曰く、心は手の少陰の脉、心中に起り、出て心系に属し、膈に下り、小腸を絡う。
[心中] とは、心の正中を言う。即ち膻中の裏に当るなり。
[心系] とは、心のつりいとなり。心系五有り。その心中より直(ただち・すぐ)に升る所の一系は、上肺の両大葉の間に入りて、上にしては肺管と成り、息気の道とす。下にしては心中に入り、心系となる。即ち呼吸出入の造化(ぞうか)、其の根心に発する者、知ぬべきなり。又、一系は心中に発し、曲折して後(しりえ)背に向かい、脊骨に相い並びて下脊髄 〔脊の骨中のもうを云う〕 を貫き、十四椎の間に至りて腎と通じて、腎系となる。此れ即ち心腎火水升降の通系なり。又、二系は心に発し、曲折して下に降り、脾に通じ、肝に通じ、脾肝の系と成る。然るときは則ち五系は皆な心の系。心の系は即ち諸臓の系なり。然る所以の者は、心は君主の官、諸臓此の命を受く。是を以て臓系皆な心に入り、心は諸臓の系に通ず。此こに謂(いわゆる)心系は、心中より直に肺葉に上り入る者を指すなり。
○手の少陰心の経脉は、膻中の裏、心の正中に発起し、漸(ようや)く出て心系に属し、膈膜を下り 〔鳩尾を下るを云う。膈の註は肺経に見えたり〕 、任脉の臍の上二寸水分の穴の裏に当りて、小腸を絡い、心小腸臓腑表裏の象(かたち)を成すなり。心中に起とは、発源の根を云う。出でて心系に属すとは、発して漸く分かるるを云う。心中に起り出る所は即ち心系に属する所なり。此こに於いて、間隙無きなり。
滑氏『十四経絡発揮』の註に曰く、任脉の外を循り、心系に属すと。此の語上下を誤る。当に心系に属し任脉の外を循ると謂うべし。如何(いかん)となれば、心系に属する所は即起る所。任脉の外を循るは、起りて既に流行(ながれゆく)する所なり。任脉の外とは、二脉一所に起りて任脉の左右を挟みて下るなるべし。
○其の支(えだ)なる者は心系より上りて咽を挟み、目系に繁がる〔『十四経絡発揮』に、目系に繋がるを目に系(つなが)るに作る〕。
[従心系] とは、前の心中に起り出て心系に属する所を云う。
[咽] とは、水穀の竅。詳に脾経に見たり。
[目系] は、目の内眥を云う。足の太陽膀胱経、睛明の穴の地なり。
○心経の支なる者は、前の心系に属する所より、二経別れ出て任脉の左右を循り上りて咽を挟み〔足の陽明人迎の内に当る〕、面に上り鼻を挟みて目の内眥(まがしら)睛明の穴の分に注ぎて目系に繁(かかり)終わるなり。
○其の直なる者は、復(ま)た心系より却(しりぞい)て肺に上り、下りて〔十四経下の字無し〕腋下に出づ。
○其の直なる者は、復た心系に属する所より二脉に別れ出て、任脉の左右を挟み、漸く次第に左右に分れ却いて肺臓の分に上り〔任脉華蓋の辺に近し〕、肺分より斜めに腋下に下り出て極泉の穴に抵(いた)る。極泉の穴は液下筋間の動脉、胸に入に在り。
○下りて臑内の後廉を循り、太陰心主の後を行き、肘内に下る。
[臑] とは、肩と肘の間、内外通じて臑と云う。
[太陰心主之後] とは、手の太陰肺経。手の少陰心包経。二脉の後を行く者を云う。心主は心包なり。
[肘] とは、臑と臂と〔肘と腕(うでくび)の間を臂と云う〕骨解(こつかい・ほねのつがい)を肘と云う。肘は中なり。臑と臂との中節なればなり。
○極泉の穴より手に下りて臑内の後廉を循るに、肺心包の両経の後を流行して青霊の穴を〔肘中小海の穴の上三寸に在り〕歴(へ)、肘中の内廉少海の穴に下る〔小海は肘を屈(かが)めて横文の下の頭なり。大腸経の曲池の穴は上の頭に在り。この穴は下の頭に在りて、内外に対して付く〕。
臂内の後廉を循り、掌後鋭〔『十四経絡発揮』に、兌と作る。兌と鋭と通用〕骨の端に抵る。掌(たなごころ)の内の後廉を入り、小指の内を循りて其の端に出づ。
[鋭骨] とは、掌の後(しり)え、腕中横文の前、小指の後えの通りに在る骨を云う。『十四経絡発揮』の註には、外踝を以て鋭骨とする者は誤なり。
○既に少海の穴より下りて臂〔肘と腕との間内外通じて臂と云う〕内の後廉〔少海の通を下る者は後廉なり〕循りて霊道の穴〔少海の通り、腕の横文の後え一寸五分〕、通里の穴〔霊道の前一寸に在り〕歴て、掌後の脉中〔小指の通りに、寸尺の如くに散脉有るを云う〕腕を去ること五分陰郄の穴に行き、掌後腕中の横文鋭骨の端、陥(くぼか)なる中、神門の穴に抵り、掌の内の後廉少府の穴に入り〔少府は、小指と無名指とを屈めて両指の間、手の厥陰心包、労宮の穴と対す〕、小指の内を循りて、其の端に出て終わるなり〔其の端は小指の内の側らの端、爪甲角を去ること一分許(ばかり)、少衝の穴を云う〕。
○『十四経絡発揮』の滑氏註に曰く、諸経皆他経の交わりを受けて起る。心の経脉は他経の授くる所の支別を假せざる者は、心は君主の官、他臓より尊きことを示すと云う。
愚按ずるに、この理、是(ぜ)に似て然らず。皆、後人の発明なり。古人、此の如きの穿議(せんぎ)無し。弁するに及ばざるなり。
心の臓、是動所生の病症
○是れ動するときは則ち病。嗌(のど)乾き、心(むね)痛む。渇して飲を欲す。是を臂厥(ひけつ)と爲す。
是、手の少陰心経、変動して病する所の形なり。
[嗌乾] は、経脉咽を挟む故なり。乾くは心火の化。
[心痛] は、経脉心中に起ればなり。
[渇而欲飮] とは、心火熱して津潤(しんじゅん)燥(かわ)けばなり。
[是爲臂厥] 以上は手の少陰経の臂内の後廉を循る所の厥逆に生ず。故に臂厥の症とするなり。
○是れ心を主として生ずる所の病は、目黄ばみ、腋痛み、臑臂の内の後廉痛み、厥し、掌中熱痛す。
是直(ただち)に心臓を主として生ずるところの病形を云う。
[目黄]とは、心の脉は目系に注げばなり。
[腋痛]とは、経脉腋下に行くが故なり。
[臑内後廉痛]とは、皆心経の流るる道なり。
[厥]とは、気血逆してしびれる心有るなり。
[掌中熱痛]とは、心経は掌中少府の穴に行けばなり。熱と痛と皆な火の化なり。
盛んなる者は寸口大なること人迎に再倍し、虚する者は寸口反て人迎より小なり。
再倍は二倍なり。少陰は二陰なり。ゆえに再倍す。詳義肺経に見えたり。
鍼道五経会 足立繁久
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