2018年度最後の日は高野山にお参りに行ってきました。
ようやくお参りできました
ここ最近、高野山には度々来ていました。
しかし慌ただしい訪問が続いていたので、今回は奥の院まで弘法大師さまにご挨拶を。
(※奥之院御廟は撮影禁止ですので写真はありません)
そして、今回最大の目的である杉山和一先生の墓所をお参り…というかお墓探しです。
以前から杉山検校遺徳顕彰会さんのホームページ(詳細はコチラ)にて、高野山には杉山検校の墓所があると存じあげておりました。
「奥之院…の参道の武田信玄墓地を右に見て少し上った所にある。」とのご説明を頼りに何度か伺ったのですが、ご縁が無く引き返すという状態が続いていました。
しかし、今回ようやく墓所にたどり着くことができ、お墓参りを許された気分です。
参道の武田信玄公、勝頼公の墓所を右に奥之院に向かいしばらく行ったところの右手にあります。
まさに杉山検校遺徳顕彰会さんのご説明の通りでした。
杉山和一の覚悟
杉山和一先生といえば、鍼灸師なら知らぬ人はいないという日本鍼灸中興の祖と呼ぶべき人物です。
紆余曲折はあれど、技芸上達を祈願祈念し江の島弁財天の岩屋に籠ること七日。
またその時の誓約が「…若し術 成らざれば請う、速やかに命を絶てよ!」というもの。
現代の私たちとはその覚悟が段違いです。
その後の管鍼法の発明に至るエピソードはここに書くまでもありませんね。
個人的には、弁財天への祈願だけでなく杉山先生の積み重ねたものと、すべてのご縁あっての結果だと思っております。
写真は『杉山流三部書』(関西鍼灸柔整専門学校 脈診と臨床研究 発行)のひとつ
「療治之大概集」にある今村亮先生の「三部書序」から引用。
師、山瀬琢一から逐われた(破門された)後の杉山先生の「激昂憤厲」したという言葉が素敵です。
栄光に挫折は必要なファクターなのです。
さて、その杉山先生の御墓ですが、よく知られているのが東京都墨田区にある弥勒寺、また江の島の江島神社にあるとされています。
(ごめんなさい。まだお参りしておりません)
しかし、高野山奥之院にも杉山和一先生の墓所があります。
杉山和一総検校の墓所
奥之院にてようやく辿り着いた杉山和一先生の墓所(左)の横には吉田弘道先生のお墓(右)があった。
杉山総検校と五輪塔の地大(方形)部の中央に刻まれています。
右から「奉造立為 贈正五位 杉山総検校 報恩謝徳 斯道興隆」と刻まれています。
その上の水大(球形)部にはバンの梵字。
杉山和一の存在が無ければ現代の鍼灸学校の教育法も変わっていただろう。
斯道、鍼の道を興隆したその功績に感謝しなければならない。
贈正五位ということは没後に官職を贈られたこと意味する。それにしても鍼灸師が正五位に叙せられるってすごい功績。正五位に叙せられた人物に間宮林蔵がいる。
「鍼醫 吉田弘道 墓」とあります。
そもそも高野山にある杉山和一先生の墓碑建立は、吉田弘道先生の悲願であり、その願いをご子息が果たしたとのことです(杉山検校遺徳顕彰会さんのホームページより)。
時間の制限もあり、掃苔できたのは石文のところだけで、あとは墓碑まわりの落ち葉を掃除し、水をお供えしての慌ただしいお墓参りとなりましたが
当会講座「医書五経を読む」では第2期から医学節要集を主に勉強させていただいております。
それも含めてしっかりとご挨拶をさせていただきました。