鍼道五経会の足立です。
日本伝統鍼灸学会2日目は合間を縫って、お墓参りに行ってきました。
最初に訪れたのは曲直瀬家のお墓
曲直瀬家の墓地は全性寺にありました。
曲直瀬家といえば、曲直瀬道三(1507-1594)が有名です。田代三喜に学び、李朱医学を治め戦国時代の名医として、平成の世になった今でもTV番組に特集を組まれるほどです。(直近では歴史秘話ヒストリア【戦国スーパードクター】2016.01.14が話題となりました)
曲直瀬道三とは、将軍 足利義輝の治療を始め、上洛した織田信長の治療はもとより、多くの大名・武将の治療を行ったことが知られています。また松永久秀には『黄素妙論』を伝えています。
大名・武将だけはありません。正親町天皇(正親町天皇には御園意斎も仕えていた)の診療も行ったとあります。
その時代の名医だった曲直瀬道三ですが、その逸話もいくつか残されています。死脈のエピソードもそのひとつです。しかし、その話はまたの機会にとします。
…と、その曲直瀬道三の系統が金沢にも繋がっていたという情報を得て(学会会場に設置してあった『金沢市近代医学史跡図』には金沢藩医 曲直瀬家之墓とありました)、早速行ってみよう!とお墓のある全性寺に行ってきました。
全性寺はわらじを奉納するお寺のようで、下の写真のように大小さまざまな草鞋(わらじ)が山門の仁王様に奉納されています。
曲直瀬家のお墓は山門くぐって左にあります。
我われは迷って迷って…他の墓地まで徘徊してお墓の静かな空気を騒がせてしまったのではないかと反省しています。もしこの記事を読んでお参りしようと思った方は迷わず粛々とお参りできるように…と少しでも情報になればと思います。
画像:墓石前面には「曲直瀬家墓」とあり、側面にも刻文が記されているが、残念なことに写真では内容確認ができない。実際の眼でしっかり確認しておくべきであった…。
金沢 曲直瀬家の系譜
多留淳文先生の論文「北陸における東洋医学の史的展開」(日本東洋医学雑誌 第46巻第3号 355−369,1995)によると、曲直瀬道三-守真-曲直瀬正純-正因-正専-玄与-玄承-正淵…の系譜があり、これは曲直瀬正純から正因以降を流れを亨徳院と称される曲直瀬家の系譜と分類しています。
この亨徳院系が金沢に来ていたことは従来より分かっていたようですが、多留先生は次の系譜を発見して、上記論文に報告されています。
曲直瀬道三-曲直瀬玄朔-曲直瀬正琳(1565-1611)……寿徳-寿伯-三伯-元伯・・・霜庵(景福・霜四郎)-道太郎・雅二……と、下線部の系譜を報告し、これを金沢曲直瀬家としています。
従来の説は、矢数道明先生の『日本医学中興の祖 曲直瀬道三』(近世漢方医学書集成2に収録)にみられるように、曲直瀬景福は正純-正因-正因-正専…の系譜に並べられおり、亨徳院系に属されていたようです。
こうしてみると多留先生の発見は、それまで曲直瀬家は四系統あると思われていたのが「1つ新しい系統があること」として報告され、非常に価値のあるものだと思われます。
このようにみると、この時代には享徳院系と金沢曲直瀬家との交流があったということでしょうか。
この寿徳から数えて13代目にあたる曲直瀬霜庵(江戸・明治・大正)は石川県関係人物検索にも登録されており、『北陸医史』に登場するとのこと。金沢において江戸期から明治大正にわたって代々医家を営んでこられたのでしょうね。
いずれせよ、この曲直瀬道三に端を発する曲直瀬一族が存在しなかったら、日本の医学は今とは全く別の形になっていた…と言っても過言ではないでしょう。
吉益家の墓所にお参り
さて、金沢市にはもう一つ有名な医家のお墓があります。その医家とは、吉益家です。
吉益北洲のお墓。北洲吉益先生之墓とあります。吉益北洲は吉益南崖の養子となる方です。
上の写真の右のお墓には西州吉益之墓と刻まれています。吉益家の号に東・南・北・西の四方・四神すべて揃いましたね…なんて帰りの車で話していたが、不謹慎だったのかもしれない。
吉益家が医家として広く認められたのは吉益東洞(1702-1773)からで、万病一毒説を掲げ、古方派の一角として大いに活躍したそうです。吉益東洞の著書『薬徴』は有名です。
また、吉益古方派の影響を受けた鍼灸流派として菅沼流だと岡山の石堂智行先生から聞いています。その菅沼流の流儀書『鍼灸則』も『薬徴』の文体の影響を受けているとのこと。
そして東洞の子、吉益南涯(1750-1813)は父 東洞の後を継ぎます。彼の著作には『氣血水薬徴』があります。
吉益北洲は吉益東洞の3代目にあたる
男子に恵まれなかった吉益南崖は、門人の青沼道立を養子とし後継者とします。この青沼道立が吉益北州(1786-1857)を名のります。北洲は後年に金沢に移り加賀藩医となります。
彼の著書には『金匱要略精義』『傷寒論紀聞』などがあるそうです。
そして北洲の養子 吉益西洲(1819-1866)も、その跡を継ぎ加賀藩に仕えた…と、『近代漢方医学書集成 吉益南崖』の松田邦夫先生の解説にはあります。
吉益北洲が金沢に移ったのは後年と書かれています。ですから、文政(1818〜1831)から天保(1831〜1845)の時代あたりでしょうか。文化文政年間(1804〜1830)は化政文化と呼ばれ国学、蘭学ともに盛んとなった時代であったそうです。
ところで、曲直瀬家は代々 加賀藩医として仕えていたはず。にも関わらず、後から金沢入りした吉益家のお墓が、加賀藩主前田家のお墓のお膝元に建てられているというのは何か訳があるのでしょうか?
吉益家のお墓は上写真の加賀藩主 前田家墓所(前田利長公のものと思われる。下写真のB)のすぐ下に吉益家のお墓がある。
…と、江戸期医家の名門ともいえる曲直瀬家・吉益家の墓所をお参りしつつ、各医家が持つ特色やその来歴を臨床家として学ぶ必要がある感じました。
以下のサイト・論文を参考にさせていただきました。
「北陸における東洋医学の史的展開」多留先生の論文
「北陸吉益家墓所」蒼流庵随想 濱口先生の調査レポート
参考文献
『近世漢方医学書集成』(名著出版)
2曲直瀬道三
10吉益東洞
37吉益南崖
各書の解題、解説を参考にさせていただきました。