先日の遠足『大阪史跡めぐり by 蒼流庵易学講座』は皆でランチをいただき和やかな雰囲気で幕を下ろしたのであった…と、思いきや、それで終わりではなかった。
「打ち上げがてら軽く昼呑みでもしませんか?」と軽く提案したところ、
濱口先生から返ってきた言葉が「じゃ、もう少し墓所や史跡をまわりましょうか」
延長戦が決定した瞬間だった。
永富独嘯庵の墓所
「ここから近い場所だと永富独嘯庵がいますね」と地図もメモもなんにも見ることもなくナビゲートされる濱口先生。その姿に時々忘れそうになるが、この人の脳内にインプットされている情報量とその引き出すスピードは驚異だ。
迷う素振りなど微塵も見せず歩く濱口先生に、ただついていくだけの我々。
最近興味を持って調べている日本鍼灸の成り立ちなど話をしながら(濱口先生がいなければ地図を片手に右往左往のはず)向かう先は蔵鷺庵。
蔵鷺庵の入り口には『永富独嘯庵國手墓所』と石柱にある。國手(国手)とは名医のことである。
写真:蔵鷺庵の入口にある永富独嘯庵の墓所の案内
写真:蔵鷺庵にある永富独嘯庵のお墓
屏風のように広がる三枚の石碑には表にも裏にも刻文がびっしり刻まれており、永富独嘯庵への敬意が伝わるようであった。また手前の石の裏面文末には「先哲医家の墓を守る会」「日本医史学会」「東亜医学協会」の会名が刻まれていた。
写真:永富独嘯庵の石碑(撮影時の指が映っちゃった…)
永富独嘯庵はかの吉益東洞に「もし自分(東洞)が死んだらこの人(独嘯庵)が日本の医学のトップとなるだろう(陰として一敵国の如きものはこれ独嘯庵か、吾れ死せば将にこの人を以て海内医流の冠冕となすべし)」と言わしめた人物です、との濱口先生の説明。
永富独嘯庵は『漫遊雑記』『吐方考』などの書を残している。筆者も勉強会の資料として『漫遊雑記』から症例を使用させてもらったばかりだ。深く吐方を学んだ経験から心下に対する診かたに『なるほど…』と唸らされた記憶がある。
ちなみに易学・医史学だけなく碩学である濱口先生は墓石のことについても説明してくれた。
「右奥石碑の黒い石は伊達冠石。別名を泥かぶりと言います。日本では東北の●●しか採れない石です」とのこと。●●は記憶漏れ…(延長戦に入るとね、目にみえて記憶力が低下するのです。ネットで調べると伊達冠石が採れるのは「宮城県の大蔵山」とのこと。)
さすがハカマイラーで名を馳せた濱口先生。先生の解説は墓所・史蹟の石にも及んだ。
「墓石につかう御影石の今と昔との違い」
「砂岩と花崗岩の墓石・石碑との違い」
「石の性質により刻まれる文字の違い」
「石によって違う劣化の仕方・スピード」などにも話は広がり、濱口先生の知識の奥の深さに舌を巻くばかり。
三浦道斎のお墓
次なるお墓は大仙寺にあり。
三浦先生は名を茂樹、号を道斎という、大阪の医家である。その書に『温疫論』などがある。医書の他にも異体字の字引き『大増補字林玉篇大全』(下写真)を記している。
写真:三浦道斎先生のお墓
写真:三浦道斎先生による『大増補字林玉篇大全』 濱口先生からご寄贈いただいた書である
古林見宜先生のお墓
大仙寺ちかくの坂を下って角を曲がった数歩先が禅林寺である。もうここまでくると注意力も低下するかと思われた矢先、禅林寺の入り口にあった石柱の文字に目がとまった。
写真;禅林寺の入り口にある石柱
「古林正温之墓 在當山」と刻まれている。※當山(当山)とは“このお寺”のこと、古林正温のお墓がこのお寺にあり〼との意。
『古林正温…。古林…、ふるばやし…はて、どこかでみたような』
『あ~っ!難経或問のひと!?』
と、終盤にきて再びテンションUp!
最近、難経系の記事を書いていたが、よく引用させていただく難経系註釈書のひとつが『難経或問』。そしてその著者が古林見宜である。
濱口先生の説明では、古林正温(1579-1657)は曲直瀬正純(1559-1605)の高弟のひとりであったという。この立派なお墓からも彼の活躍ぶりが想像できる。墓石も周りの石柱も石扉もすべて昔の御影石。相当に羽振りがよかったのか…。
また曲直瀬正純から、曲直瀬正因-正専-玄与-玄承-正淵…の系譜は亨徳院と称される曲直瀬家の系譜。金沢曲直瀬家にも影響があったようす。(詳しくはコチラの記事「金沢 曲直瀬家の系譜」をご覧ください)
写真:古林先生のお墓にて記念撮影(photo by 濱口先生) 『難経或問』最近とくにお世話になっています。
さて改めて確認しておくと『難経或問』の著者は古林見宜だが、同書はどうやら五代目の古林正禎の手によるものらしい。五代目見宜堂である古林正禎は生没年不詳であるが『難経或問』には序文を載せており、その年号が正徳元年(1711年)となっている。
写真:五代目見宜堂古林正禎先生のお墓
そして最後は統国寺へ・・・
統国寺、山門には(古寺名)百済古念仏寺とあり、どうやら百済に所縁のある寺らしい。
「ここでは誰もが知ってるものがありますよ」と、濱口先生。
『なんだろう、なにかしら?』とワクワクしつつ、目にしたのがこの壁!
写真:統国寺にあるベルリンの壁、なるほど統国寺だけに…
このベルリンの壁を眺めつつ、奥に奥にと濱口先生は迷うことなく進む。我々も何を疑うこともなくついて行く。さながら雛鳥のように。
寛政暦に関わった間長涯先生のお墓
写真:間長涯先生のお墓
間先生は名を重富、号を長涯という。この長涯先生も天文学の学者さん。前半部の遠足でお参りした麻田剛立に入門したとのこと。
間先生について調べると次のような情報があった。
「『歴法新書』を編纂。これを元に寛政10年(1798年)、『寛政暦』が施行された。」(Wikipedia情報)とのこと。
改暦すると聞くと『天地明察』(冲方丁の作品)を連想する。漫画にも映画になった作品ですな~。この作品の主人公にもなった渋川春海が作成し改暦したのは「貞享暦(じょうきょうれき)」。その70年後に「宝暦暦(ほうりゃくれき)」に改暦、その43年後にこの間長涯先生が携わった「寛政暦(かんせいれき)」となる。
一度聴いたら忘れない廣瀬旭荘先生のお墓
写真:廣瀬旭荘のお墓
濱口先生いわく「この方は一度聴いたことは全て記憶することができた人物」とのこと。Wikipediaにも「旭荘は記憶力が抜群に良く、師亀井昭陽に「活字典」といわれた。」とある。
旭荘先生のその記憶力にあやかるべく手を合わせる…。
……以上、記憶している範囲+後日調べた情報でもってレポートとする。
ふり返って地図でみると、実際に巡ったのは天王寺区のごく限られたエリアなのだが、巡ったお寺はどれくらいだったのだろう。すぐには思い出せない(やはり旭荘先生のようにはいかないな…)。しかし、それほどに充実した内容であったのだ、ということを最後に強調しておきたい。
そしてなにより強調しておきたい点がもうひとつ。
これ程の内容(墓所の位置情報・人物やその業績に関する情報・歴史的背景……)をまず一から調べて、積み重ねていく上でどれほどのご苦労があったことか!
聴くだけならカンタン。
大抵の場合はその開拓者・トップランナーの苦労に気づくことは少ない。そのような過程を経て培ったそれら情報と経験を惜しみなくお腹いっぱいになる程に提供してくれた濱口昭宏先生(ちなみに先生のブログ『蒼流庵随想』はコチラ)に感謝を伝えたい。
鍼道五経会 足立繁久