素問 解精微論第八十一の書き下し文と原文と

素問 解精微論第八十一のみどころ

素問の締めくくりである解精微論では泣(涙)が主テーマとなっている。文中に「治に於いて無益なり」という但し書きが入っているのが面白い。確かに人が涙する機序を解したところで治療には何の関係もない。
しかし続く言葉に「工の知る所、道の生ずる所也。」医工の知るべきところであり、道理の得るということでもあるのだ、と補足されている。この言葉に響くか響かないかは各々の判断に任せるとして本文を読みすすめてみよう。


※『重広補註黄帝内経素問』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

素問 解精微論篇第八十一

書き下し文・素問 解精微論第八十一(『甲乙』?、『太素』巻二十九 氣論 水論、『類経』十八巻 疾病類 80涕涙)

黄帝、明堂に在り。雷公が請うて曰く、臣、業を授かり之を傳えて教を行う。経論、従容、形法、陰陽、刺灸、湯藥を以て滋(ますます)行う所、治するに賢・不肖有りて、未だ必ずしも十全なること能わず。若し先ず悲哀喜怒、燥濕寒暑、陰陽婦女を言う。
請うて問う、其の然る所以の者は、卑賎、富貴、人の形体、従う所の群下、通じて事に臨ましむ、以て道術に適する、謹みて命を聞かん。請うて問う毚愚、仆漏の間は、経に在らざる者有り、其の状を聞かんと欲す。

帝曰く、大いなり。
公、請うて問う、哭泣して涙の出でざる者、若しくは出でて涕少なき、其の故は何ぞ也。

帝曰く、経に在りて有る也。復た問う、水の従い生じる所、涕の従い出る所を知らざる也。
帝曰く、若(汝)此れを問う者、治に於いて無益なり。工の知る所、道の生ずる所也。
夫れ心は、五藏の専精也。目は其の竅也①。華色は其の榮也。是れ以て人に徳有るや則ち氣は目に於いて和す。亡憂有れば色に於いて知る。是れ以て悲哀すれば則ち泣(なみだ)下る、泣の下るは水の由りて生ずる所。水宗は積水也。積水は至陰也。至陰は腎の精也。
宗精の水、出でざる所以の者、是れ精これを持つ也。之を輔け之を裹む、故に水は行かざる也。
夫れ水の精は志と為し、火の精は神と為す、水火相い感じて、神志俱に悲しむ②、是れを以て目の水を生じる也。
故に諺言に曰く、心悲しむを名けて志悲と曰う。
志と心精と共に目に湊まる也。是れ以て俱に悲しむときは、則ち神氣は心に傳う。精上りて志に傳えず、而して志獨り悲しむ、故に泣出る也③
泣涕は脳也。脳は陰也。髄は骨の充也。故に脳滲みて涕を為す。
志は骨の主也。是れ以て水流れて涕のこれに従う者は其の行くの類する也。夫れ涕と之(これ)泣(なみだ)とは、譬えれば人の兄弟の如し。急なれば則ち俱に死し、生ずれば則ち俱に生ず。其の志は早悲しむを以て、是れ以て涕泣俱に出でて横行する也。夫れ人の涕泣は俱に出でて相い従う者は、属する所の類也。

雷公曰く、大いなるかな。請うて問う。人の哭泣して涙の出でざる者、若しくは出でて涕の少なく之に従わざるは、何ぞ也。
帝の曰く、夫れ泣(なみだ)の出でざる者、哭きて悲しまざれば也。泣(なみだ)せざる者は、神の慈まざる也。神、慈まざるときは則ち志は悲しまず。陰陽相い持せざば、泣(なみだ)安んぞ能く独り来らん④
夫れ志の悲しむ者は惋(悼み悲しむ)する。惋するときは則ち冲陰、冲陰するときは則ち志は目を去る、志去るときは則ち神は精を守らず、精神、目を去れば、涕泣出づる也。
且つ子、独り誦まず、夫れ経の言を念わざる乎。
厥するときは則ち目は見る所無し。
夫れ人が厥するときは則ち陽氣は上に於いて并し、陰氣は下に於いて并す。陽、上に并するときは則ち火独り光る也。陰、下に并するときは則ち足寒ゆる、足寒ゆれば則ち脹れる也。
夫れ一水は五火に勝たず、故に目眥は盲(くら)し。是れ以て風を衝き、泣(なみだ)下りて止まず。
夫れ風の目に中るや、陽氣は内 精を守る。是れ火氣、目を燔(や)く、故に風を見るときは則ち泣(なみだ)下る也。以て之を比ぶる有り、夫れ火は疾く風生じて、乃ち能く雨するは、此れ之の類い也。

涙の理由(ワケ)を知りたくはないか?

解精微論で記される泣(涙)は「心と腎」「神と志」「水と火」の関係が主軸になっている。次いで涙と涕との関係性が説かれている。本記事では涙の理由(わけ)について考察を述べる。

下線部①「心は五臓の専精なり。目はその竅なり」とある。『目は肝の竅ではなかったか…???』と思う人もいるであろうが、「目は五臓六腑の精華(目是五藏六府之精華)」という言葉は『諸病源候論』の随所にみられ、また一般的にも「目は心の鏡」「目は口ほどにものを言う」という言葉はよく知られるところである。このように目は心の動きがあらわれる部位である。

その具体例として続く文に「人に徳有るときは則ち氣は目に於いて和す。」「(心中に)亡憂(亡失の憂い)有るときは色に於いて知る」とあり、人の心が穏やかであれば、もしくは心中穏やかならざれば目の色に表れると記している。

さて本題はここからである。「水宗」「積水」「至陰」「宗精の水」という意味深な言葉が並ぶ。これらはほぼ同義の言葉のようであり、水の源としての意味を持ち、腎の精そのものであるとする。
「宗精の水」を始め、涙も含む人体の水が妄りに漏れ出ないのは、腎精のはたらき-水を保持する-によるものだという。
ここまでは水藏としての腎の基本性能を述べている。

火と水の相互感応により涙する

下線部②「水の精は志となし、火の精は神となす、水火相い感じて、神志俱に悲しむ」とは非常に神秘的な文章である。
いうまでもなく水は腎で火は心、そして志と神とは腎と心に蔵されている五神である。この腎志と心神が相応じた時に人は感動するという。
「心悲は志悲」という諺があるようだが、心と腎の志は相い通じ合っていると無意識に分かっていたようだ。
心神と腎志が感応して、両者は目に湊(あつま)り水(潤い)を目に湛えるという。「目は心の鏡」と言われるのも納得である。

では、心神と腎志の二つが目に湊まれば涙するのか?というとそうではない。

下線部③「悲しむときは則ち神氣は心に伝う。精は上りて志に伝えず、而して志独り悲しむ、故に泣出る」

悲哀すれば、胸中の心に氣が聚まる。当然、心神の動きも胸中に居つくことになるので、腎志との交流は阻害される。故に「志は独り悲しむ」という表現となる。
しかし本文にあるように「精は上る」ため、涙は上竅の目に湊まる。なぜなら腎精とは「水宗」「積水」「至陰」「宗精の水」であるからだ。
平常の涙が出ない理由は「宗精の水、出でざる所以の者は、これ精これを持つ也。これを輔けてこれを裹む、故に水は行かざる也。(宗精之水、所以不出者、是精持之也。輔之裹之、故水不行也。)」とあり、水は目を潤せども、妄りに流れ出ることはない。このように水を保持する働きを担うのが腎の精である。
しかし、悲哀を機に志と精が離れ「精は上り、志は独り悲しむ」こととなり、水が目より妄行することになる。これが涙する機序である。

泣けない理由

では「悲しいのに泣けない」という状況はどんな理由があるのか?という少し意地悪な問いもある。
その問答が下線部④にあたる。「泣けども涙が出ない、涙が少ない」というのは、精神とくに心神が動じていないのだとしている。

心神が動じない(神不慈)というのは、冷淡にして無情ということなのか?というとそれだけではない。何らかの理由で心の働きが拘急、束縛されて動かないというケースも考えられる。
精神が消耗し追い詰められた状況などもこれに当たるのではないだろうか。この状況だと、心神と腎志・腎精の交流がスムーズにいかない可能性も考えられる。
もし現代で同様の条件を…と考えるならば、過酷なストレス環境に身を置き続けることで、心と腎の交流がジワジワと阻害されるという病態も想定できそうである。

また仮に心と腎の不和であれば「涙の出る・出ない」だけでなく、他の所見もいくつか挙げられるよう上記の生理学を基に考察すべきであろう。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 素問 解精微論篇第八十一

■原文 素問 解精微論篇第八十一

黄帝在明堂、雷公請曰、臣授業傳之行教。以経論、従容形法。陰陽刺灸、湯藥所滋行、治有賢不肖、未必能十全。若先言悲哀喜怒、燥濕寒暑、陰陽婦女。
請問其所以然者、卑賎富貴、人之形體、所従群下、通使臨事、以適道術、謹聞命矣。
請問有毚愚仆漏之間、不在經者、欲聞其状。
帝曰、大矣。
公請問、哭泣而涙不出者、若出而少涕、其故何也。

帝曰、在經有也。復問不知水所従生、涕所従出也。
帝曰、若問此者、無益於治也。工之所知、道之所生也。
夫心者、五藏之専精也。目者、其竅也。華色者、其榮也。是以人有徳也。則氣和於目。有亡憂知於色、是以悲哀則泣下、泣下水所由生。水宗者、積水也。積水者、至陰也。至陰者、腎之精也。宗精之水、所以不出者、是精持之也。輔之裹之、故水不行也。夫水之精為志、火之精為神、水火相感、神志俱悲、是以目之水生也。
故諺言曰、心悲名曰志悲、志與心精共湊於目也。是以俱悲、則神氣傳於心、精上不傳於志、而志獨悲、故泣出也。
泣涕者、脳也。脳者、陰也。髄者骨之充也。故脳滲為涕。志者、骨之主也。是以水流而涕従之者、其行類也。夫涕之與泣者、譬如人之兄弟。急則俱死、生則俱生。其志以早悲、是以涕泣俱出而横行也。夫人涕泣俱出而相従者、所屬之類也。

雷公曰、大矣。請問人哭泣而涙不出者、若出而少涕不従之、何也。
帝曰、夫泣不出者、哭不悲也。不泣者、神不慈也。神不慈則志不悲、陰陽相持、泣安能獨来。
夫志悲者惋、惋則冲陰、冲陰則志去目、志去則神不守精、精神去目、涕泣出也。且子獨不誦不念夫經言乎。厥則目無所見。夫人厥則陽氣并於上、陰氣并於下。陽并於上、則火獨光也。陰并於下則足寒、足寒則脹也。
夫一水不勝五火、故目眥盲。是以衝風、泣下而不止。
夫風之中目也、陽氣内守於精、是火氣燔目、故見風則泣下也。有以比之、夫火疾風生、乃能雨、此之類也。

 

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