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素問 上古天真論第一について
素問の第一論は、軒猿黄帝の生い立ちからスタートします。黄帝が如何に神童であったかが記され、また最後には「登天」するという言葉が用いられていますが、この論の主旨に沿う表現だと思います。
※『重広補註黄帝内経素問』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
素問 上古天真論第一
書き下し文・素問 上古天真論第一(『甲乙』、『太素』巻二 壽限、『類経』巻一 摂生類 1 上古之人春秋百歲今時之人半百而衰 2 上古聖人之教下 3 古有真人至人聖人賢人 巻三 13 有子無子女盡七七男盡八八)
昔在(むかし)黄帝、生れ給いて神霊、弱(おさなく)して能く言い給い、幼(いとけな)くして徇齊、長じて敦敏、成りて登天し給う。
廼(すなわ)ち天師に問いて曰く、余が聞く上古の人とは、春秋みな百歳を度として動作衰えず。今時の人は、年半百にして動作皆衰ろう者は、時世の異なるか?人将(はた)これを失うか?
岐伯対(こた)えて曰く、上古の人、其の道を知る者は陰陽に法り、術数に和(かな)い、食飲に節あり、起居に常有りて、妄りに労を作さず。故に能く形と神とを倶にして、盡く其の天年を終え、百歳を度として乃ち去る。
今時の人は然らざる也。酒を以て漿と為し、妄を以て常と為し、酔いて以て房に入り、欲を以て其の精を竭きて、耗を以て其の真を散ず。満を持することを知らず、神を御(おさ)めること時ならず、務めて其の心を快くし、生楽に於いて逆らい、起居に節無し、故に半百にして衰ろう也。
夫れ上古の聖人は下を教えるや、皆之を謂う。虚邪賊風、之を避けるに時有り。恬憺虚無にして、真気これに従う。精神内に守らば、病安くに従りて来たらん。是を以て志閑にして欲を少なく、心安にして懼れず、形労するも倦まず。
氣従りて以て順とし、各々其の欲に従い、皆な願う所を得る。故に其の食を美しくし、其の服に任じ、其の俗を楽しみ、高下は相い慕わず。其の民、故に朴と曰う。
是れを以て嗜欲は其の目を労すること能わず、淫邪は其の心を惑わすこと能わず。愚智賢不肖は物を懼れず、故に道に於いて合する。能く年みな百歳を度として動作は衰ろえざる所以の者、其の徳全くして危からざるを以て也。
帝曰く、人年老いて子無き者は、材力の盡きるや?将(はた)天数の然からしむるや?
岐伯曰く、女子七歳にして、腎気盛ん、歯更(か)わり髪長ずる。
二七にして天癸至る、任脈通じ、太衝脈盛んにして、月事は時を以て下る、故に子有り。
三七にして腎気は平均なり、故に真牙生じて長く極まる。
四七にして筋骨堅く、髪は長く極まり、身体盛壮なり。
五七にして陽明の脈衰ろえ、面始めて焦げ、髪始めて堕つ。
六七にして三陽の脈は上に於いて衰え、面は皆な焦げ、髪は始めて白し。
七七にして任脈は虚し、太衝脈は衰少し、天癸竭き、地道通ぜず、故に形壊れて子無き也。
丈夫は八歳にして、腎気実し、髪長く歯更(か)わる。
二八にして腎気盛んにして、天癸至る、精気は溢れ寫(そそ)ぎ、陰陽和す、故に能く子有り。
三八にして腎気は平均、筋骨は勁強なり、故に真牙生じて長く極まる。
四八にして筋骨は隆盛、肌肉は満壮なり。
五八にして腎気衰ろえ、髪堕ち歯槁れる。
六八にして陽気は上に於いて衰竭し、面焦げ、髪鬢は頒白なり。
七八にして肝気は衰え、筋は動くこと能わず、天癸竭き、精少なく、腎藏衰えて、形体皆な極まる。
八八にして則ち歯髪去る。
腎は水を主る。五臓六腑の精を受けて之を藏する、故に五臓盛んにして乃ち能く寫(そそ)ぐ ①。
今五臓皆な衰え、筋骨は解堕し、天癸は盡きる。故に髪鬢は白く、身体重く、行歩は正からず、而して子無きのみ。
帝曰く、有其の年已に老いて子の有る者有るは何ぞ也?
岐伯曰く、此れ其の天寿の度過ぎて、気脈常に通じて腎気有余なり。
此れ子有りと雖も、男は八八を盡すを過ぎず、女は七七を盡すを過さずして天地の精気皆な竭くなり。
帝曰く、夫れ道あるひとは年皆百数にして、能く子有りや?
岐伯曰く、夫の道のあるひとは、能く老を却(しりぞき)て形を全うす。身年、寿と雖も能く子を生ずる也。
黄帝曰く、余、上古には真人という者有ると聞く、天地を提挈し、陰陽を把握し、精氣を呼吸し、独立して神を守る。肌肉は一の若し。故に能く天地を寿敝して、終わる時の有ること無し。此れ其の道と生(い)く。
中古の時には、至人なる者有り。徳に淳(あつ)く道を全し、陰陽に於いて和(かな)い、四時に於いて調う。世を去り俗から離れ、精を積み神を全し。天地の間を游行し、八遠の外を視聴す。此れ蓋し其の寿命を益して強き者なり。亦た真人に帰する。
其の次に聖人という者有り。天地の和に處し、八風の理に従い。世俗の間に於いて嗜欲に適い、恚嗔の心無く。行いは世を離れることを欲せず、服章を被り、挙げて俗を観ることを欲せず、外は形を事に於いて労せず、内には思想の患い無し、恬愉を以て務と為し、自ら得るを以て功と為す。形体を敝(やぶ)らず、精神は散ぜず。亦た百を以て数うべし。
其の次に賢人なる者有り。法を天地に則し、象りを日月に似し、星辰を辨列し、陰陽に逆従し、四時を分別し、将に上古に従い道に於いて合同す。亦た寿を益さしむるべくして極む時有り。
上古天真論に記されてる世界観とは
本論は黄帝さまのプロフィールから始まり、上古の人々が天地・陰陽の法則に従って生きていたかを記しています。移精変気論第十三にも通ずる話にも読み取れます。
さて「天地陰陽の法則」というと現代日本人にとってはどうしても抽象的な表現に見えてしまい、これを具体的な情報に置き換えることは難しいと思います。
そこで岐伯先生はもう少し具体的な表現に翻訳し直してくれています。
それが「術数」「食飲」「起居」「形神」といった言葉です。とくに「食飲」「起居」「形神」は個人において律することができる天地陰陽の法則です。「術数」ももちろん同様ですが、個よりももっと広く解することも可能です。
さらに続く文をみていくと「日月」「星辰」「四時」とあります。これもまさに天地陰陽の法則を測る要素でもあります。日月星辰とは天体ですが「暦」を制定する要素・条件でもあります。そして「暦」とは「時間」そのものです。
同様に「四時」もまた「暦」であり「時間」です。
「時間」を人体に深く関与する存在として表現し直すと「周期」「リズム」です。
…と、このように翻訳すると上古天真論の冒頭部分の奥深さもリアリティをもって読み評価することができるのではないでしょうか。
おなじみの女性は7の倍数で歳をとります
さらに男女の成長・成熟そして老化の様が数理を交えて克明に記されています。このエピソードは薬用●●酒のCMでもおなじみかと思います。
この「7の倍数」「8の倍数」という観点にも術数の世界観が活きています。そして7年・8年単位の「周期」ともいえます。
この段落について詳しくは講座【生老病死を学ぶ】にて解説済みですので、ここでは省かせてもらいます。
腎の精と天癸と五臓六腑の精と
下線部①では「腎者主水、受五藏六府之精而藏之、故五藏盛乃能寫。」とは実に興味深い言葉です。
腎は水を主る。これについて異論はないでしょう。五行でみても腎は水行に属し、腎の藏は水の代謝(排泄や貯留)機能に関与します。
しかし続く言葉には「五臓六腑の精を受けてこれを蔵する」とあり、各臓腑の精氣を受けてそれを貯藏するとしています。この点は非常に重要です。
いわゆる鍼灸学校で習うのは「腎は先天の氣を蔵する」だったかと思います。そして先天の氣とは生まれ持った生命力、言い換えると「父母から授かった生命力」にして「次の世代に受け渡す力」すなわち精であります。しかし上古天真論の本文(とくに下線部①)では、五臓六腑の精を受けて、この精を蔵するとあります。
つまり、腎気が蔵する精とは単純に「生まれ持った生命力」だけではないということです。
上古天真論をよく読んでみましょう。父母より受けた生命力は本文では「天癸」という言葉で表されています。天癸とは「天より禀けた癸(すなわち腎)の氣」とも解釈できます。
本文では「天癸至」と記されている点がまた興味深いのです。「生じる」とも「受ける・授かる」とも書かれていません。即ち天癸はすでに備わっている存在なのです。すでに備わる天癸が、特定の時期を迎えることで天癸至る(=機能として働き始める)のです。これは男女ともに共通の表現であります。
ここで前述の「五臓六腑の精」と合わせて考えてみましょう。
下線部①を素直にそのまま読むと「腎は水精を主る、そして五臓六腑の精をも腎が蔵する。そのため五臓六腑が活発であるほど臓腑の精は腎に送られることとなる。盛んに精が送られることで生じる余剰の精が腎より寫することとなる」と解釈できます。
・臓腑の氣は水穀によって養われます(『素問』五藏別論篇第十一)
・養われた臓腑は精を蓄えます
・その余剰の精を腎に送ります
・腎は臓腑の精を受けて貯蔵します
・天癸が発動する時を迎え、その精を生殖のために役立てます
・・・と、このように天癸と腎と臓腑の精との関係を整理することができるのではないでしょうか。
また岡本一抱は『素問諺解』において「……腎も先天の水のみなるときは暫にして竭盡するなり。後天の水精を以て養う故に天壽の間保つなり。此れ故に諸藏諸府の後天の精盛んなれば、自ずから腎精も盛んにして泄し安き也。此れを寫と云うは、然れば先天の水も後天の精に繋(かかる)也」として、先天の気と後天の気の相扶関係を説いています。読み方によって両者の互換性をも示唆しているようにもみえるかもしれません。
参考まで『素問』五藏別論篇の一節を以下にメモしておきます。
『素問』五臓別論篇第十一
「帝曰、氣口何以独為五臓主。
岐伯曰、胃者水穀之海、六府之大源也。五味入口、藏於胃、以養五臓氣、氣口亦太陰也。是以五臓六府之氣味、皆出於胃、変見於氣口。」
水穀の精から気へ、気から精へ
水穀の精微が臓腑の氣を養うことは『素問』五藏別論にある通りです。上古天真論の本文からは「臓腑の気を益することで精が生じる」という語意も含まれているようです。
「氣から精へと化する」という考えはなんとなくイメージできますが、どうも腑に落ちにくい現象でもあります。なぜなら「気は陽」であり「精は陰」です。陰(精)から陽(気)を生じるのは順の流れですが、陽から陰を生じることは逆の現象です。
では実際のところ古典文献や当時の思想ではどのように考えられていたのでしょう?
『素問』移精変気論第十三の論名にもあるように「移精変気、精を移して気を変ず」という考えは当時からあるようです。また時代は下りますが内丹学では「煉精化氣、精を煉って氣に化する」という思想や方術はよく知られていました。
『素問』に比べるとかなり後代・北宋の内丹書になりますが、道書を二点紹介しましょう。
『青華秘文』(玉清金笥長生度世金寶內煉丹訣)精従氣説
「……蓋し精は氣に依りて生ず。精は腎宮に実しており、氣が之を融かす。故に氣に随いて升陽するを鉛と為す者、此れ也。精を失えば元氣は生ぜず、元陽見れずば、我において何を益せん!?
元神見れれば、元氣生ずる。元気生じれば則ち元精を産する。」
■原文「……蓋精依氣生。精實腎宮、而氣融之。故随氣而升陽為鉛者、此也。精失而元氣不生、元陽不見、何益于我哉。元神見、而元氣生、元気生則元精産。」
上記のように「精は氣に依りて生ず」「元気生じれば則ち元精を産する」といった氣と精との相互依存もしくは氣が精を産生する関係が示唆されている。
『雲笈七籤』巻五十六 諸家氣法 元氣論
「『仙経』に云く……此の道を行ずる者は、常に霊宝を思うと謂う。霊とは神なり、宝とは精なり。但、常に氣を愛し精を惜しみ、握固し口を閉じ、氣を吞み液を吞む。液は化して精と為し、精は化して氣と為し、氣は化して神と為す。神は復た化して液と為し、液は復た化して精と為す、精は復た化して氣と為し、氣は復た化して神と為す。是の如く七返七還、九転九易す…。」
■原文「『仙経』云……行此道者、謂常思靈寶、靈者神也、寶者精也。但常愛氣惜精、握固閉口、吞氣吞液。液化為精、精化為氣、氣化為神、神復化為液、液復化為精、精復化為氣、氣復化為神。如是七返七還、九轉九易、既益精矣、即易形焉。」
「…これ以て能く氣を養うに功有り、化して精と為すべし。精を養いて徳有り、化して神と為すべし。神を養うに道有り、化して一と為すべし。身永久にその生あり。…」
■原文「…是以能養氣有功、可化為精、養精有徳、可化為神、養神有道、可化為一、身永久有其生。…」
同じく北宋代の道書『雲笈七籤』では「液から精に化し、精から氣と化す」流れと「氣を化して精と為す」流れを提示し、氣と精における双方向の変化を示している。
さて『青華秘文』『雲笈七籤』ともに『素問』の成立年代と比べると、大いに時代が経過した書になりますが、敢えて上古天真論の考察に引用しました。
というのも上古天真論のテーマの一つは「仙人」です。
後段には「真人」「至人」「聖人」「賢人」と四段階にランク分けする形で、古の仙人を紹介しています。
神仙術・内丹学も時代の変遷により発展するのですが、六朝代や随唐代まで遡るのは私の手に余りますので、北宋代までとさせていただきます。しかし乱暴に言ってしまえば、神仙術は氣を煉(練)ることで内丹を生成し、自然の理を逸脱(不老長生)する方術です。
自然の理とは上記でいうと「精(陰)から氣(陽)を生じる」ことであり、理に逆らうとは「氣から精を生む」ことではないでしょうか。陽であり無形の氣を以て精を産生することができれば、不老長生にかなり近づくと思います。
この自然の理から逸脱するために、天地陰陽の法則を従うというのも興味深いプロセスだといえるでしょう。
この天地陰陽の法則とは、上古天真論では「天地」「陰陽」「日月」「星辰」「四時」「術数」「精神」「精気」「形神」…といったキーワードが列記されています。鍼灸師の視点でこれら陰陽の調和を測るとなると、最初に記した医学的な解釈(周期など)となります。
このように医学ではない側面から『素問』を通覧するだけでも、鍼灸医学で見ている範囲など「若以管窺天」と思わずにはいられませんね。
鍼道五経会 足立繁久
上古天真論第一 ≫ 四氣調神大論第二
原文 素問 上古天眞論第一
■原文 素問 上古天眞論第一
昔在黄帝、生而神靈、弱而能言、幼而徇齊、長而敦敏、成而登天。
廼問於天師曰、余聞上古之人、春秋皆度百歳、而動作不衰。今時之人、年半百而動作皆衰者、時世異耶。人将失之耶。
岐伯対曰、上古之人、其知道者、法於陰陽、和於術數、食飲有節、起居有常、不妄作勞、故能形與神倶、而盡終其天年、度百歳乃去。
今時之人、不然也。以酒為漿、以妄為常、醉以入房、以欲竭其精、以耗散其眞。不知持満、不時御神、務快其心、逆於生樂、起居無節、故半百而衰也。
夫上古聖人之教下也。皆謂之、虚邪賊風、避之有時。恬惔虚無、眞氣従之。精神内守、病安従来。是以志閑而少欲、心安而不懼、形勞而不倦。氣従以順、各従其欲、皆得所願。故美其食、任其服、樂其俗、高下不相慕、其民故曰朴。
是以嗜欲不能勞其目、淫邪不能惑其心。愚智賢不肖、不懼於物、故合於道。所以能年皆度百歳而動作不衰者、以其徳全不危也。
帝曰、人年老而無子者、材力盡邪。将天數然也。
岐伯曰、女子七歳、腎氣盛、歯更髪長。
二七而天癸至、任脉通、太衝脉盛、月事以時下、故有子。
三七而腎氣平均、故眞牙生而長極。
四七筋骨堅、髪長極、身體盛壮。
五七陽明脉衰、面始焦、髪始堕。
六七三陽脉衰於上、面皆焦、髪始白。
七七任脉虚、太衝脉衰少、天癸竭、地道不通、故形壊而無子也。
丈夫八歳、腎氣實、髪長歯更。
二八腎氣盛、天癸至、精氣溢寫、陰陽和、故能有子。
三八腎氣平均、筋骨勁強、故眞牙生而長極。
四八筋骨隆盛、肌肉満壮。
五八腎氣衰、髪堕歯槁。
六八陽氣衰竭於上、面焦、髪鬢頒白。
七八肝氣衰、筋不能動、天癸竭、精少、腎藏衰、形體皆極。
八八則歯髪去。
腎者主水、受五藏六府之精而藏之、故五藏盛乃能寫。
今五藏皆衰、筋骨解堕、天癸盡矣。故髪鬢白、身體重、行歩不正、而無子耳。
帝曰、有其年已老而有子者、何也。
岐伯曰、此其天壽過度、氣脉常通、而腎氣有餘也。此雖有子、男不過盡八八、女不過盡七七、而天地之精氣皆竭矣。
帝曰、夫道者、年皆百數、能有子乎。
岐伯曰、夫道者、能却老而全形。身年雖壽、能生子也。
黄帝曰、余聞上古有眞人者、提挈天地、把握陰陽。呼吸精氣、獨立守神、肌肉若一。故能壽敝天地、無有終時。此其道生。
中古之時、有至人者、淳徳全道、和於陰陽、調於四時。去世離俗、積精全神。游行天地之間、視聽八遠之外。此蓋益其壽命而強者也、亦歸於眞人。
其次有聖人者、處天地之和、従八風之理。適嗜欲於世俗之間、無恚嗔之心。行不欲離於世、被服章。擧不欲観於俗、外不勞形於事、内無思想之患、以恬愉為務、以自得為功、形體不敝、精神不散。亦可以百數。
其次有賢人者、法則天地、象似日月。辯列星辰、逆従陰陽、分別四時、将従上古、合同於道、亦可使益壽、而有極時。