目次
難経 三十六難のみどころ
本三十六難では腎の左右をそれぞれ腎と命門に区分した。世にいう命門学説である。
この右腎を命門に相当させる生命観はそれ以降、各医家の大きなテーマともなった。
腎という水臓に命門相火を含ませるという生命観は、陰陽論でみても陰中陽という概念にも相当する。
また五行(木火土金水)でみても火に君火相火の二火ありという考え方とも通じ、陰陽・五行双方の世界観においても“発展”や“展開”という動きをもたらす重要なきっかけとなったのがこの三十六難の内容といえよう。
この点は単なる病理や治法を述べる医学としてではなく、生命の本質を探る本難の試みは大いに評価されるべきであろう。
※『難経達言』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
難経 三十六難の書き下し文
書き下し文・三十六難
三十六難に曰く、臓に各々一つ有り。腎独り両つ有る者は何ぞ也?
然り。
腎の両つあるは、皆(両腎)が腎に非ざる也。其の左は腎と為し、右は命門と為す。
命門とは諸々神精の舎る所。原氣の繋がる所也。
故に男子は以て精を蔵し、女子は以て胞に繋ぐ。
故に知らんぬ、腎は一つ有る也と。
右腎は命門ってホント?
腎は二つあるとして、左右それぞれに腎と命門が配されている。それでいて末文には「故に腎は一つであることを知る(故知腎有一也)。」とある。
まるでナゾかけのようにもみえるが、この文の流れから腎・命門の区分を器官や臓腑として示しているものではないと考えられる。つまり「二つにして一つ」ということである。
では一方が腎、他方が命門という器官としてみるのではないならば、右腎左腎の表現をいかに解するべきか?
「左右は陰陽の道路(左右者陰陽之道路也)」(『素問』陰陽應象大論)とあるように、本難の左右は陰陽としてみるべきであろう。
器官・臓腑としてみないのだから左右は当然ながら位置を示すものではない。腎の機能における陰陽としてみるべきなのだ。となれば腎の陽の機能として命門を指定しており、それは生命力や生殖機能として翻訳することができる。
発生学として命門の機能
さて注目すべきは「命門は諸神精の舎す所」であり「原氣の繋る所」である。これこそが本難の主旨であり、三十八難三十九難に繋がっていく話なのだ。
さて「諸神精之所舎」のフレーズにおける“舎す所”という表現、これも重要なヒントである。
神・精といえば五神に分類される最も重要な存在である。それはもう大切に蔵しておかなければならず、現に五臓はすべてそのようにしている。「五臓は精氣を蔵して瀉さず(五藏者、藏精氣、而不寫也)」(『素問』五藏別論より)とある通りである。
しかし命門は五臓ではない。また命門に繋がる胞は奇恒の腑ではあるが、女子胞の「蔵して瀉さず(※)」も期間限定のものである。それは月経や妊娠と出産を考えれば異論のないことであろう。
このように胞を含む命門においては、常に神・精を蔵し続けるわけにはいかず、機をみて放出・排出しなければならない(月経や排卵・射精・分娩など)。それでいて必要な時(妊娠期)には神と精をしっかりと舎(やど)すことが最重要なのだ。
神と精
さて「神精」という言葉にも触れておきたい。
神とは心に蔵するものであり、精は腎に蔵するものである。すなわち火と水の交わりについて示唆している表現でもある。ちなみに三十九難では「精神」と表記されており、三十六難の神精と順序逆転している。これも水火の交わりを伝えているのではないか?と個人的には期待している。
水火の交わりに関しては歴代の医家たちも言及している。河図洛書の言葉や易辞を用いて、陰陽水火の交わりと生命の有りようについて熱心に言葉を残している。
このようにしてみると『難経』はただ診察法や治療法を記した書ではなく、生命観を強く打ち出した書でもあると感じる。このことは難経の脈診章(一難~二十一難)でも強く感じたことでもある。
三十六難では命門という概念的器官を通じて人の身体観・生命観を提示している。前述したように本難ではとくに生殖について説いている。左右一対ある腎を用い対比させつつ、腎と命門という機能として整理区分している。この陰陽対比は男女における生殖機能「蔵精」「繋胞」という表現でも示している。
命門と原気の関係
生殖面において、男女における機能(蔵精・繋胞)は異なるのはもちろんであるが、その根源的なエネルギーとして「原氣(以下、原気)」が提示されている。
一旦ここで整理しよう。
「命門は諸神精の舎する所」であり「原氣の繋る所」である。そして「男子は精を蔵し」「女子は胞に繋ぐ」
これが本難の要旨である。
命門とは生命の根本に深く関与する器官であること、そして重要器官である命門は原気に繋がるということが明示されている。これはシンプルな記載ではあるが実に重要なことが記されている。
原気とはいったい何か?を考えることは鍼灸師にとっては鍼灸治療の質を変える大きなテーマでもあるのだ。このことに関してはまた三十九難にて詳述しよう。
命門と目の関係
さて命門という言葉は内経にも登場するが、そこでは命門は目を意味する。(『霊枢』根結篇、衛氣篇、『素問』陰陽離合論)
目を命門とする内経説と難経における命門はなぜ?どのように違ってしまうのか?
私見ではあるが、人を一個体としてみるか?生物もしくは種としてみるか?の違いではないだろうか、と考える。
冒頭でも触れたように、命門の存在は陰中の陽であり、二火のうちの一つで発展・展開を示唆する存在として解釈している。生物的に個として完結させるものとみた場合、内経の目=命門説とみることもできるのではないだろうか。
ちなみに目=命門と呼ばれるにふさわしい穴処として私は“睛明穴”を推す。(詳しくは「陰陽蹻脈が構築する小循環」の記事を参考のこと)
しかし生物は個として完結するものではない。
一つの在り方として生殖があるが、子孫を残すための器官として命門を明示しているのがこの三十六難である。三十六難・三十九難における命門は、生殖や発生学に触れた内容として観ることも可能であろう。
いずれにせよ目における命門も、本難における命門も共に原気を源としている(とみることができる)。
いわば生命の根源ともいえる存在として命門があり、それゆえに火と水が深くかかわる器官として腎・命門と三焦が選ばれたのであろう。
故に腎は水臓でありながら命門をも包括する存在であり、三焦は相火であり水府でもある。(※『五行大義』では三焦を水府としている)
このように水と火の重なり合う事象こそが生命の本質であり、これを人体に置き換えると「神精・精神」であり、「腎」「命門」「三焦」となる。このように腎と命門を対にして、さらに三焦を配することで生命観を構築した意義は実に深いと思う次第である。
本記事末文には各難経注釈本の三十六難註文を掲載することにする。参考になれば幸いである。
鍼道五経会 足立繁久
難経 三十五難 ≪ 難経 三十六難 ≫ 難経 三十七難
原文 難経 三十六難
■原文 難経 三十六難
三十六難曰、藏各有一耳。腎獨有両者何也。
然。
腎両者、非皆腎也。其左者為腎。右者為命門。
命門者、諸神精之所舎。原氣之所繋也。故男子以藏精、女子以繋胞。故知腎有一也。
各難経注釈書をピックアップ
『難経抄』は易辞から
『難経抄』では易卦、坎卦にて水臓である腎を示している。坎卦は二陰の中に一陽があると示される卦である。
この陰爻は坤卦の、陽爻は乾卦の爻であり、乾坤は父母を示すことはいうまでもない。父母から受けた生命そのものを坎卦すなわち腎になぞらえている。
また、この陰中の一陽が原気であり腎間動気であり、生気の元であるとしている。
『難経抄』(谷野一栢)
腎は坎位に居する。卦(坎卦図)の初六・六三、是(これ)坤の象。
凡そ易卦は皆な下より上る、故に下をを指して初六を言う也。
又、陰爻はこれを六と謂う也。
故に今、初六・六三は是(これ)坤の象也。坤は即ち陰爻也。
九二は是(これ)乾の卦象、九は老陽也。故に陽爻は皆なこれを九と謂う也。
故に今、九二は是(これ)乾の象り也。
乾坤之(いたり)交りて坎を成す。
天一水を生じ、地六これを成す。生数は天、成数は地なり。
一と五合して六を為す也。
原氣は即ち腎間動氣なり。
生氣の元、八難において見る。」
■原文「腎居坎位。卦(坎卦図)初六六三是坤象。
凡易卦皆自下而上、故指下而言初六也。又陰爻謂之六也。故今初六六三是坤之象也。坤即陰爻也。
九二是乾卦象、九老陽也。故陽爻皆謂之九也。故今九二是乾象也。
乾坤之交而成坎。
天一生水、地六成之。生数天、成数地也。一与五合為六也。
原氣即腎間動氣也。
生氣之元、見于八難。」
『難経経釈』は目=命門説に言及
『経釈』は目=命門説に触れることで、二物の解釈を示している。二物とは一対ある存在を示している。
腎も一対であるが、目も左右一対である。共に精に関わる存在である。腎は精を蔵し、目は五臓の精が注がれる。
また四神の一つ「玄武」が引き合いに出されているが、玄武もまた二つにして一つの存在である。玄武は蛇と亀の複合体であるのだ。この象りから腎・目・玄武・習坎の二物一対を示すことで、腎の水火一対たる性質の解説を試みている。
また腎中の命門を衝脈の根として示している点も注目すべきである。命門は胞に繋がり、衝脈は胞中に根ざす。このようにみると、経釈の説も注目に値すると思われる。
『難経経釈』(清代 徐大椿)
『霊枢』『素問』を按ずるに竝びて右腎を命門と為すの説は無し。
惟だ『霊枢』根結篇に云う、太陽は至陰に根ざし命門に結する。命門とは目なり。
『霊枢』衛氣篇に亦た云う、命門とは目也。
『素問』陰陽離合論に云う、太陽は至陰に根ざし命門に結する、名づけて陰中の陽と曰う。
経文の云う所は此れらに止まる。
又『霊枢』大惑論に云う、五臓六腑の精氣は皆な上りて目に注ぐ、而してこの精の為に此の目を命門と称する所以の義なり。
若し腎の両つ有るときは則ち皆な名づけて腎と為し、名づけて命門と為すこと得ず。
蓋し腎は牝藏を為す、その数は偶なる故に北方玄武も亦た亀蛇の二物有り。亀は陰中の陰を為し、蛇は陰中の陽を為す。即ち是(これ)道也。
但し右は腎中の火を主り、左は腎中の水を主る。各々司る所有るのみ。
命門の説の如きは則ち『黄庭経』の謂う所「後ろに幽闕あり前に命門」の意と頗る相い近し、
而して注家は又、命門を以て臍と為すときは則ち其の説も亦た引據するに足らず。
愚謂う、命門の義は惟だ衝脈の根抵足以て之に当たる。
『素問』挙痛論に云う、衝脈は関元に起こる。関元穴は臍下三寸に在り。
逆順肌痩論(逆順肥痩)に云う、衝脈とは五臓六腑の海、その下る者は少陰の大絡に注ぎ、氣街に出る。
海論に又、衝脈を以て血海と為す。此れ其の位、両腎の中真に適当し命の門と為して称するべき。其の氣は腎と通ずると雖も、然して右腎を以て之に当たること得ざる也。
■原文
按靈素竝無右腎為命門之説。惟靈根結篇云太陽根於至陰結於命門。命門者目也。靈衛氣篇亦云命門者目也。
素陰陽離合論云太陽根於至陰結於命門、名曰陰中之陽。經文所云止此。
又靈大惑論云、五藏六府之精氣皆上注於目、而為之精此目之所以稱命門之義也。
若腎之有両則皆名為腎不得名為命門。蓋腎為牝藏其數偶、故北方玄武亦有龜蛇二物。龜為陰中之陰、蛇為陰中之陽。即是道也。
但右主腎中之火、左主腎中之水。各有所司耳。
若命門之説則黄庭經所謂後有幽闕前命門意頗相近、而注家又以命門為臍則其説亦不足引據。
愚謂命門之義惟衝脈之根抵足以當之。
素擧痛論云、衝脈起於關元。關元穴在臍下三寸。
逆順肌痩論云、衝脈者五藏六府之海、其下者注少陰之大絡、出氣街。
海論、又以衝脈為血海。此其位適當両腎之中眞可稱為命之門。其氣雖與腎通、然不得以右腎當之也。
『難経古義』は一臓に陰陽二気ありと説く
『難経古義』では腎の左右と分けるも、その左右に囚われることなく「左右の中間」という表現を採っている点が印象的です。而して「一臓の中に陰陽の二気を寓する」すなわち腎という一臓の中に腎精と命門相火を包含するとい言及している。
また目=命門説を“標”とし、腎の命門説を“本”として、内経と難経の命門説をなんとか両立させようとしている姿勢が伺える。
『難経古義』(加藤俊丈・滕萬卿)
按ずるに腎を分けて左右の臓と為すこと、内経に明文無し。且つ命門は『霊枢』『素問』に在りては、則ち指して目と為す也。或いは以て太陽睛明の穴を名づく。
又『素問』十二官論の中に、心と包絡とを分けて二臓と為すこと有り、而して未だ腎に左右の分有ることを見ず。
又、後篇の言に、腎に両枚有りとの語あり、因りて此の篇の大意を攷るに、腎を分けて両臓と為す以て六臓の数に配する。その意以謂(おもえらく)凡そ心は既に二臓象を具えれば、則ち腎も亦た一原氣を左右陰精の中間に含蓄する有り。
故に左を腎と為し、右を命門と為す。実に一臓の中に陰陽の二氣を寓することを知る。然るときは則ちその左右の名を分けるも、亦た偶然のみ。
何となれば則ち命門とは諸々の神精の舎する所云々の数語。全くその位を中間に遷する者明らけし。是に由りてこれを観れば、腎に両枚あると雖も、然してその氣は相い通ず。固より一水臓、唯だ後人をして陰中に命門の陽有ることを知らしむるのみ。
然れば則ち『霊枢』の目と謂う者は其の標を指し、此の難では特に其の本を挙げて以て内経未発の旨を示すのみ。
■原文
按分腎為左右藏、内経無明文。且命門在靈素、則指為目也。或以名太陽睛明穴。
又素問十二官論中、有分心與包絡為二藏、而未見腎有左右之分。
又有後篇言、腎有両枚語因攷此篇大意、分腎為両藏以配六藏之數。其意以謂、凡心既具二藏象、則腎亦有含蓄一原氣於左右陰精中間。
故左為腎、右為命門。實知一藏中寓陰陽二氣焉。
然則其分左右之名、亦偶然耳。
何則命門者、諸神精之所舎云云數語。全遷其位於中間者明矣。由是観之、雖腎有両枚、然其氣相通。固一水藏、唯使後人知陰中有命門之陽已。
然則靈樞謂目者指其標。此難特擧其本以示内経未發之旨爾。
『難経達言』は発生学として三十六難をみる
『難経達言』は註釈の冒頭から“生命の発生”についてフォーカスを当てている点が印象的だ。
生命誕生のおり、精をあつめて一気の原の基原とし、体の本(もと)とし命の門となし、これは女性の体では胞(子宮)に繋がる…と、この文章は生殖学そのものである。
また“暖なる”という表現もなるほど相火の性質を示すもので、“熾なる”火とは質の異なるものとして表現している。
徹頭徹尾、三十六難の内容を発生学として捉えた著者 高宮氏の姿勢には共感を覚える。
『難経達言』(高宮貞)
天機一点の霊、人に根ざして而して人を生ず。その留動して氣の有ること玉露の暾(あさひ)を含むが如し。
及び一たび着して形を成すに、岐然として顕れざること莫し。
暖なる者は精を中に鍾(あつめ)て、一氣の原に基す。身の本と為り命の門と作る。
その女子に於けるは胞を斯(これ)に繋ぐ。
まさに知るべし。
皆、物の先に居ると為すこと、五臓の継て而して象を為す者、腎はその精の潤下に従いて、その左に之と鄰(隣)して同居せるがごとく。
然る故にこれを名づけて而して腎間の動氣と謂う。
その始め暖に於いて起こるもの。動じて熾ならざることを得ず。
炎上の而して心火と為す。共に発して而して神明を生ず。
所謂(いわゆる)天一水を生じ、地二火を生ずる、是なり。精神の舎る所と曰う。
亦た宜ならざる哉。
その腎は則ち命門に於いて生ずることを以て、奚(なんぞ)命門は則ち腎に由ると曰わん!?
腎、果して一藏にして両つ有るに非らず。
或いは腎に両臓有りと謂うは、左右にして言うに時あり。
百世の人、惟だ腎の精を蔵し心の神を蔵することを知りて、而してその精その神は則ち命門の物と為ることを知らず。
陰を貴び陽を貴ぶ、水火の論は水火より甚し。
夫れ命門の機霊と為る也。
陰に非ず陽に非ず、水ならず火ならず、渾沌に竅無きは乃ち一の起きる所なり(荘子 渾沌を参照のこと)。
腎と雖も心と雖も、その肝脾と肺とを次第にして成ると雖も、その形(あらわれて)而して一の物を受けて、以てこれを蔵す也。
更々貴く更々賤し、相い雌雄を為す。既に水と為り、既に火と為る。
陰は則ち陽の本に非ず、陽は則ち陰の本に非ず。
或は水を補いて火を瀉する。或いは陽を盈ちて陰を消す。
能くこれの根を培うが如しと雖も、その根は則ち抑々末なり。
不徒(ただ)益無く而(しかも)これを害する也。
龍、野に戦う(坤為地、上六の易辞)その道窮る也。
■原文
天機一點之靈根乎人而生人、其畱動而有氣如玉露之含暾及一着而成形莫不岐然而顕。
暖者鍾精乎中基於一氣之原、為身之本作命之門。
其於女子繋胞乎斯。當知皆為居物之先。
五藏之継而為象者、腎者従其精之潤下而出其左與之鄰而若同居、然故名之而謂腎間之動氣。
其始起於暖焉、不得不動而熾炎上而為心火共發而生神明。
所謂天一生水地二生火、是也。
曰、精神之所舎、不亦宜哉。以其腎則生於命門、奚曰、命門則由乎腎。
腎果一藏而非有両、或謂腎有両藏、時乎左右而言。百世之人、惟知腎之藏精心之藏神、而不知其精其神則為命門之物。貴乎陰焉貴乎陽焉、水火之論甚於水火。夫命門之為機靈也。
非陰非陽不水不火、無竅於渾沌者、乃一之所起也。
雖腎雖心雖其肝脾與肺、次第而成其形而受一之物、以藏之也。
更貴更賤、相為雌雄。既為水矣、既為火矣。
陰則非陽之本、陽則非陰之本。或補水而瀉火、或盈陽而消陰、雖如能培之根。
其根則抑末也。不徒無益而害之也。龍戦于野其道窮也。
『難経或問』では総括を
或問では張景岳、李時珍をはじめ、楊上善、王叔和、劉完素、朱丹渓、虞天民の説に、さらには道家の視点、さらに葉文叔の言葉にも触れている。
しかし著者 古林氏の言葉としては「命門とは腎の尊号である。腎には初めから左右の別なし。両腎はもとより一なり。」というシンプルな左右の腎の対する見解を述べている。
さらに「腎とは真水であり一陽の氣を中に包含する。これを発して三焦の原気となす。この気を真陽となす。」という腎と原気との関係を明確に示している。
『難経或問』(古林見宜)
或る人問て曰く、内経に命門と云う者は目なり。蓋し目は心の竅にして五臓精神の発する所也。精神は人身の性命。故に名づけて命門と言う也。今、難経三十六難に右腎を以て命門と為す者は何ぞや?
対て曰く、命門の論は古人の義論に尤も多し。
張景岳は子宮を以て命門と為し、工に弁論を費やす。
李瀕湖は両腎の間の脂に非らず肉に非らず白膜裹包の物を以て、名づけて命門と為す。
俱に左腎を以て水と為し、右腎を以て火と為して(これを)宗とする。
陽(楊)上善、王叔和、劉守真、朱彦修などの論、その言は理有るに似て実は非なり。
夫れ腎の一臓は北方水に属し、而してその名自ずから二つ有る也。
北方とは天氣の蔵する所にして又、一陽来復の地なり。始を成し終を成す、始終の二つを兼ねる。
故に物に於いては亀と為し蛇と為す、方に於いては朔と為し北を為す、玄に於いては罔㝠と言い、卦に於いては習坎と言う。
故に人身の水臓も亦た二つ名ある也。一つは腎臓と名づけ、一つは命門と名づく。命門と言うは腎の尊号也。
初めより左右の別無し、両枚(両腎)は本より一也。
蓋し腎とは真水にして、一陽の氣を中に包含する。発して三焦の原気を為す。之を名けて真陽と為す。
即ち天一水精の元氣にして父母に於いて禀るの命根也。此の氣、これ従りして出入す。故に腎を名けて命門と為す。
その実は左右俱に名づけて腎と言も可なり、俱に名づけて命門と言うも亦た可なり。
然らずんば『内経』『難経』若干の腎と言う者、盡く左腎にして右腎を兼ぬること無きや。
又、人の生命は専ら右腎に係りて左腎に係らざるや!?
故に虞天民が曰く、夫れ両腎は固より真元の根本を為し性命の関わる所、水臓為りと雖も実は相火有りてその中に寓す。水中の龍火に象る、其の動に因りて発する也。
当に両腎を以て総号して命門と為すべし。命門の穴、正しく門中の棖闑に象る、開闔の象を司る也。
惟だその静にして闔するときは一陰の真水を涵養す。動じて開くときは龍雷の相火を鼓舞す。
夫れ水とは常なり、火とは変なり。若し独り右腎を指して相火と為し、以て三焦の配を為せば。尚 恐くは立言の未だ精(くわし)からざる也。
然るに今、右を以て命門と為し、左を以て腎臓と為す者は何ぞや?
蓋し腎精の水は陰なり。生命の氣は陽なり。腎は本(もと)牝藏、故に地の剛柔に従いて、その陰陽を分けるときは則ち右を剛と為し陽と為し、左を柔と為し陰と為す。
是を以て左右両枚を強いて分けてこれを名づくときは則ち右腎の剛、當に命門と名づけて左腎の柔を元より腎臓と名づくべし也。
皆その名づくべきの理有るに因りて、これを分けてその名を異にする。
且つ恐る分けて命門と言うときは則ち人以て左腎を異なる物と為す。故に又 命門と言う者は、諸々神精の舎る所、原氣の係る所。男子は以て精を蔵し、女子は以て胞に係る。その蔵する所その主る所は左腎と異なること無し。
その氣は実は相い通じて一つ也。
故に知んぬ、腎は只一つ有る也。
姑(しばら)くその名を分けて巳然とするときは則ち何んぞ水火 冰炭の別有らんや!?
若し腎に水火の別有れば『素問』『霊枢』『難経』苟しくもその義を発すべからず(発しないわけがない)。
然れども三部の経論(素霊難)、一言も水火相い異なるの説無きなり。惟だそれ腎は左右みな水精也。
その内に生発の氣存する有りて、これを名づけて元陽と為す。
その精、独り左腎に蔵して右腎に蔵さざること為す可からず。
その氣、独り右腎に生じて左腎に生じざること為すべからず。
精や、氣や、二腎みなこれ有り、左右(の腎)は本来別物ならず。
夫れ胞は男女皆これ有り、通じて子宮と名づく(解剖学的な子宮ではなく生殖器という意)。
男精女血の会する所、左右両腎に係りて、その精神原氣を受ける。
蓋し腎外の一物(子宮・生殖器などを指す)也。直にこれを名づけて命門と為す者、未だ至理と為すを得ざる。
又、両腎間の一物を以て命門と為すの説は、誠に蛇を書(描)いて足を添えるの言にして、恐くは烏有の説と為すなり。
命門これ尊き人身の根株也。
若し此の一物、両腎間に在りて、生命これに係らば、二経(素霊)の中 何ぞ此の一物を廃して言わざるや?
今、二経に於いてこれを見ること無きは、則ち実は両腎の間に此の物有るに非ざることを知るべきなり。
張李の二君は名世の宏医為(た)ると雖も、恐くは扁鵲の神には及ばず。
右腎命門の説は、扁鵲に本づく。
故に命門を論じる者、『難経』を祖述せざる者、皆な妄説なり。
乎?平?曰く、謂ゆる子宮は何物を指すか?その形状や如何に?
曰く、夫れ子宮は、形状の有るに似て形状の無きが如し也。
形状の無きが如くと雖も、然ども亦た形状有るなり。
其の義を請演し、
蓋し子宮は所謂(いわゆる)胞なり。
其その奥を窈漏と名づく、その門を子戸と名づく。
督任衝三脈の発源にしてその根は両腎に係る。その系は上は心に属す。
脂膜有りて精血を包含す。
精充ちるときは則ち是に従いて飛出す。
血満つるときは則ち是に従いて滲下す。
男子は氣を以て主と為し、坎水 事を用いる。故に氣を蒸して精と為して色白し。
女子は血を以て主と為し、離火 事を用いる。故に血盈して経と為して色紅し。
男精女血、この地に会して、而して泄漏す。
即ち精血の道路にして糟粕を納れず、糞尿を受けざるの地なり。
是を以てこれを見るときは、則ち胞は形状有るに非ずして何ぞや?
故に『内経』は奇恒の府と曰い、胞脈は上は心に属すると曰い、衝任の脈は胞中に起きると曰うは、これを以て也。
然れども其れ脂膜にして形状の言うべきこと無きや、膀胱の若く大小腸の若く広腸の若く膽胃の若く、肺心脾肝腎の五臓の如き者に非ざる也。
其の形状、名づけ難きなり。その広狭、知り難き也。
精血の充ちるときは則ち伸張し、精血の乏しきときは則ち綣縮す。
故に神聖の智と雖もその受納を量ること能わざる也。その長短を窮ること能わざる也。その形状、何を以て比べんや!?
故に霊難の二経、臓腑の軽重長短大小厚薄、物を受けるの多少を論じて、胞の一に言い及ぼさざる者は之を以て也。
胞は形無きと謂う、亦た宜からずや。
然れども、三焦心胞の惟だ名有りて形無き者の如くには非ざる也。
張景岳が曰く、胞とは即ち子宮是(これ)也。此れ男女の精を蔵するの所、皆(みな)称して子宮と為すことを得る。
然して督任衝の脈は皆此れより起こる、所謂(いわゆる)一源にして三岐也。
子宮とは即ち玉房の中也。俗に子腸と名づく。直腸の前、膀胱の後に居り、関元氣海の間に当たる。
男精女血は皆な此に存して、子は是由り生ずる。
故に子宮は実は又男女の通称なり。
道家はこれを名づけて丹田と曰い、医家はこれを名づけて血室と曰う。
葉文叔の曰く、人が生を受けての初めは胞胎の内に在り。母の呼吸に随いて氣を受けて成る。
生下するに及びて、一点の元霊の氣は臍下に聚まりて、自ずから呼吸を為す。
氣の呼は天根に接し、氣の吸は地根に接す。
凡そ人の生、唯だ氣を先と為す、故に又の名を氣海と為す。
然して名同じからざると雖も、而して実は則ち一つの子宮のみ。
張氏の論ずる所や、先人の未だ発せざる所也。これに因りてこれを観れば則ち子宮の義、思い半ばを過ぎん。」
■原文
或問曰、内経云命門者目也。蓋目者心之竅而五藏精神之所發也。精神者人身之性命。故名言命門也。
今也、難経三十六難以右腎為命門者何哉。
對曰、命門之論、古人之義論尤多焉。張景岳以子宮為命門、工費辨論。
李瀕湖以両腎之間、非脂非肉、白膜裹包之物、名為命門。
俱以左腎為水、以右腎為火而宗。
陽(楊)上善、王叔和、劉守真、朱彦修等之論、其言似有理而實非也。夫腎之一藏屬北方水、而其名自有二也。
北方者天氣之所藏而又一陽来復之地也。成始成終、兼始終之二矣。故於物為龜為蛇、於方為朔為北、於玄言罔㝠、於卦言習坎。
故人身之水藏亦有二名也。一名腎藏、一名命門。
言命門者、腎之尊號也。
初無左右之別、両枚本一也。蓋腎者、真水而一陽之氣包含于中、發為三焦之原氣、名之為真陽。即天一水精之元氣而禀於父母之命根也。
此氣従是而出入。故名腎而為命門矣。其實左右俱名言腎可也、俱名言命門亦可也。
不然、内経難経、若干言腎者盡左腎而無兼右腎乎。
又、人之生命者専係于右腎而不係于左腎乎。
故虞天民曰、夫両腎固為真元之根本性命之所關、雖為水藏而實有相火寓乎其中、象水中之龍火、因其動而發也。
當以両腎總號為命門。命門穴正象門中之棖闑、司開闔之象也。
惟其静而闔涵養乎一陰之真水、動而開鼓舞乎龍雷之相火。
夫水者常也、火者變也。若獨指乎右腎為相火、以為三焦之配、尚恐立言之未精也。
然、今也、以右為命門、以左為腎藏者何哉。
蓋腎精之水者陰也。生命之氣者陽也。腎本牝藏、故従地之剛柔、分其陰陽則右為剛為陽、左為柔為陰。
是以左右両枚強分而名之則右腎之剛、當名命門。而左腎之柔元可名腎藏也。
皆因有其可名之理、而分之異其名矣。
且恐分而言命門、則人以為與左腎異物。故又言命門者、諸神精之所舎、原氣之所係。男子以藏精、女子以係胞。其所藏其所主、無與左腎異。
其氣實相通而一也。
故知腎只有一也。姑分其名而巳然則何有水火冰炭之別哉。
若腎有水火之別、素靈難経苟不可不發於其義。
然三部経論一言無水火相異之説矣。惟其腎者左右皆水精也。
其内有生發之氣存、名之為元陽。
其精不可為獨藏于左腎而不藏右腎。其氣不可為獨生于右腎而不生左腎。精也、氣也。
二腎皆有之左右本来不別物矣。
夫胞者男女皆有之、通名子宮。男精女血之所會、係左右両腎、而受其精神原氣。
蓋腎外之一物也。直名之為命門者、未得為至理矣。
又以両腎間之一物為命門之説、誠書蛇添足之言。而恐為烏有之説矣。
命門之尊人身之根株也。若此一物在両腎間、而生命係于此、二經之中何廃此一物而不言哉。
今於二経無見之、則實両腎間非有此物可知焉。
張李二君者雖為名世宏醫、恐不及扁鵲之神、右腎命門之説者、本於扁鵲。
故論於命門者不祖述於難経者、皆妄説矣。
乎曰、謂子宮者指何物乎。
其形状如何。
曰、夫子宮者、似有形状而如無形状也。
雖如無形状、然亦有形状矣。
請演其義。蓋子宮者所謂胞也。
其奥名窈漏、其門名子戸。督任衝三脉之發源而其根係両腎、其系上屬心、有脂膜而包含於精血。
精充則従是而飛出。血満則従是而滲下。
男子以氣為主、坎水用事、故蒸氣為精而色白。女子以血為主、離火用事、故血盈為經而色紅。
男精女血會于此地、而泄漏。即精血之道路、而不納於糟粕、不受於糞尿之地也。
以是見之、則胞非有形状而何乎。
故内経曰奇恒府、曰胞脉上屬心、曰衝任脉起於胞中、以之也。
然其脂膜而無形状之可言也。非若膀胱若大小腸若廣腸若膽胃、如肺心脾肝腎五藏者也。
其形状難名矣。
其廣狭難知矣。
精血充則伸張、精血乏則綣縮。故雖神聖之智不能量其受納也。不能窮其長短也。
其形状以何比之乎。故靈難二經論藏府之軽重長短大小厚薄受物多少而不言及胞之一者、以之也。
胞謂無形亦不宜乎。
然非如三焦心胞之惟有名無形者也。
張景岳曰、胞者即子宮是也。此男女藏精之所皆得稱為子宮。
然督任衝脉、皆起於此所謂一源而三岐也。
子宮者即玉房之中也。俗名子腸、居直腸之前膀胱之後、當關元氣海之間、男精女血皆存乎此、而子由是生。
故子宮者實又男女之通稱也。道家名之曰丹田、醫家名之曰血室。
葉文叔曰、人受生之初在胞胎之内、隨母呼吸受氣而成、及乎生下一點元靈之氣聚於臍下、自為呼吸。
氣之呼接乎天根、氣之吸接乎地根。凡人之生唯氣為先、故又名為氣海。
然而名雖不同而實則一子宮耳。
張氏所論也、先人之未發所也。因之観之、則子宮之義、思過半矣。
「原気=腎間動気」説を唱える医家たち
ちなみに各医家のうち「原気を腎間動気である」と断言しているのは
『難経本義』滑伯仁
『難経評林』王文潔(難経三十八難註にて)
『難経抄』谷野一栢
『難経古義』加藤俊丈・滕萬卿(難経六十六難註にて)
『難経本義諺解』岡本一抱
らがいる。
また命門・原気と腎間動気をほぼ同義としている立場には
『難経或問』古林見宜
『難経鉄鑑』廣岡蘇仙
らがいる。
命門と原気、そして腎気・腎間動気の明確な身体イメージすなわち生命観を構築することは極めて重要である。