鍼灸師の遠足 in 高野山 vol.2 「数息観の指導を受ける」

鍼灸師の秋の遠足 in 高野山「鍼に水行」に続いてレポート第2弾です。

大明王院に到着後は北川 真寛先生とご家族にご挨拶。
ご家族は私の鍼灸院に通院してくださっていまして、いつも違う場所でお会いするのはなんだか嬉しいものがありますね。なにより有難いご縁に感謝です。

そして、電車組と車組、前日入り組と無事に全員合流を果たし、何年かぶりの再開にもテンションが上がります。

気を落ち着かせてから修行開始

さて、全員の気が落ち着いたところで、北川先生の数息観指導が始まります。
写真:北川真寛和尚のお言葉をいただく…

まずは観想法を始めるための瑜伽(ヨーガ)から入って、数息観を実際に行います。

・・・

ですが、その時の写真や詳しい内容は勿体ないのですが割愛させていただきます。

『え~っ!?知りたかったのに~!!』

と、思ってくれる方はぜひ来年の秋、一緒に高野山遠足に行きましょう!(^^)

このような行や教えは実際に自分の身体を通して体験しないと本当にはわからないものです。
もしくは間違った解釈にもつながる可能性もありますので、やっぱり然るべき人から然るべき機会に指導を受けるのが最善だと思います。

数息観を2クール行い、午前の部を修了とします。

※本来の数息観は30分行うとのこと。30分の目安にするにはお線香を使うそうです。
お線香に火を点けて、それが燃え尽きたら瞑想終了…とするのです。
鍼灸師ならお線香の入手には困らないので、お試しあれ。

それと数息観について北川真寛和尚の説明に次のようなお言葉がありました。

観想法・瞑想法における注意点

「数息観は比較的簡単に行うことができる観想法ですので、その基本として今回紹介、体験してもらいました。
皆さんが自宅に帰ってからも実践できる観想法だといえます。」

「しかし、簡単だからという理由だけ紹介したわけではありません。
観想法・瞑想の中には極めて危険な方法もあります。
中には精神に悪い影響を及ぼす観想法・瞑想法もあるのです。」

「正しい方法で実践できているのか?これを確認して正してくれる師の元で修業しないと危険な瞑想もあるのです。
この点、数息観は安心して修行できます。」

とのことです。ここは非常に大切なお話でもありますので付記させていただきます。

高野山の精進料理に息づく精神


写真:手前の御膳にはご飯(白米)と汁物。
二の膳の藁ぶき屋根風の蓋をとるとナスや焼き麩があります。

お昼にいただいた精進料理の御膳、豪華です!

『精進料理なのに、二の膳まであるって…なんだか贅沢すぎるんじゃなくて!?』

なんて思う人もいるかもしれません。
(ま、私も初めて見たとき同じようなことを思いましたけど…笑)

この豪華な御膳にも理由と歴史があるのです。

北川和尚の説明では、おもてなしの精神が息づいているといいます。

「高野山は歴史的に高名な人物が数多く参拝する場所でした。」

これは奥の院にある数多くの大名のお墓を見ると理解しやすいでしょう。

「そのような高名な方々をおもてなしするために、
見た目・味わい共に、工夫を凝らしたのが高野山の精進料理といえます」

とのこと。なるほど納得です。

この豪華な精進料理をいただき、ひと息ついたところで
各自、数息観の感想や気づきを発表してもらいます。

発表といっても堅苦しいものではありません。
北川和尚が一人一人の感想を聴いてくださり、丁寧に返事やアドバイスをしてくださりました。

去年の阿字観体験の時もこのような形で、北川和尚ご自身の食事もそこそこに
一人一人の言葉に耳を傾けてくださった姿勢が記憶に残っています。

食後のまったりタイム


写真:大明王院の庭園は四季折々の景色が楽しめるよう丁寧に手入れされている。


写真:暖かな秋の日差し、縁側…そしてネコ。完璧なセッティングといえる。

「高野山信仰について」高野山という山はない!?

午後の部は北川真寛先生の出版記念特別講演会でもあります。

「はじめての弘法大師信仰・高野山信仰 入門」の第3章を詳しく解説していただきました。

冒頭の北川先生のお言葉「高野山という山はありません」
これで全員の関心をガッチリと捕まれました。

高野山の構造とその意図からご説明していただき、高野山の寺院・仏像の配置を曼荼羅を元に説明していただきました。

高野山について密教的にも歴史的にも詳しい説明を受ける機会は少ないので、皆さんにとっても有意義な時間となったかと思います。

鍼道五経会の5分間ミニ講義!?

「伝統医学における呼吸とからだ」と題して、準備していました。

「医学における呼吸」
「医から修養へ」
「修養から生命の根源へ」
「人と人との間にある呼吸」

という内容を準備をしておりましたが、時間の都合上カット。

資料はお配りしましたので、それを元に各自考察を深めていただけると思っております。

といっても、それだけでは寂しいので、少しだけネタ出し。

鍼灸師ほど自然な形で呼吸と向き合っている職業はないのでは?と自負しています。

呼吸の補瀉を筆頭に、脈診と呼吸の関係も然り。

素問・霊枢・難経では呼吸というキーワードは必出の存在です。

平人(不病・病んでいない人)の条件に呼吸があり、
また、医不病(医は病まず)という言葉からも我われ鍼灸師が彼我の呼吸を意識することは必要不可欠のことなのです。

それに現場の鍼治療において、患者さんと術者の関係は呼吸(いき)を合わせることなしに語ることはできません。

呼吸補瀉 再考から始めよう

また呼吸補瀉についてもう少し考える必要があると思います。

呼吸と気の流れは一体のものであります。しかし、体幹部と四肢では同じ気の流れか?というと実際にはそうではありません。

この問題を系統的にまとめてくれているのが、難経に記されている一連の補瀉条文です。

「鍼の補瀉は呼吸出内のみにあらず」と、呼吸補瀉を否定しながらも、「迎随補瀉」、「補は何れの気を取り、瀉は何れの気を置くのか?」「一陰を致す、一陽を致す」と、これらの言葉はすべて呼吸補瀉につながっていくと思われます。

個人的な想像では、盲目的かつテクニックとしての呼吸補瀉を戒めようとした意図があるのではないかと考えています。

このことについて詳しくはまた講義にて、もしくはブログ記事でも少しずつ紹介していこうと思います。

写真:終了後、大明王院さんの門前で集合写真。(遠方より参加された2名の方はすでに出発された後でしたが…)

ともあれ、今回の高野山遠足では前回に比べて2倍の参加申込みをいただきました。

また参加できなかった方々から『参加したかった〜!!』という無念の声?もたくさんいただきました。

ということで、来年も企画していきたいと思います。
このサイトでも鍼灸師の遠足のお知らせを紹介しますので、興味ある方はマメに本サイトをチェックしておいてください。

番外編・般若湯と直会という名の打上げ

帰りの特急こうやでは定番の般若湯をいただきました。

此度の高野山で得たことを反芻しつつ、鍼灸について、今後のことについて…などなどを話しつつ、良い旅路の締めくくりとなりました。

直会(なおらい)について

直来とは、神事が終わった後に御神酒やお下がりをいただくお食事会のような行事を言います。

おさがりをいただくことで、神様との結びつきを強める目的もあるようですが、もう一つの目的は日常に戻る儀式という意味合いもあります。
修行とは非日常のことですから、日常モードに戻るには儀式を必要とする場合があります。

これは深い瞑想段階に入った人ならなんとなく分かるかと思います。

修行で得たことを忘れるわけにはいきませんが、日常から乖離してもそれはそれでNGなのです。

非日常の感覚を日常に無理やり持ち込んでもズレや気滞が生じますから。
ではどうすれば良いのか?
修行を日常に持ってくることが一つの答えなのでしょうね。

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