黄帝内経素問 瘧論第三十五

『素問』瘧論

素問瘧論は非常に興味深い内容が記されてる。瘧病といえば悪寒と発熱を繰り返す特徴的な病態を持つ病として知られている。このような病型から過去、瘧=マラリアとして訳された時代もあったが、これは偏った見方であるように思う。悪寒と発熱を繰り返す発熱パターンは他病でも起こ得ることである。
重要なのは古典の病型を現代病に当てはめるのではなく、瘧の病理を根本的に理解することであある。そうすることで熱病・疫病の本質的な理解に一歩近づくのだと思われる。

しかし瘧論の注目ポイントは他にもある。瘧の病理の他にも「衛氣の動き」「募原」といった生理学を学ぶ上で非常に重要な情報が本論には随所に記されている。記事ではこれらの情報にフォーカスを当てて少しだけ紹介しようと思う。

※『内経素問諺解』(岡本一抱 著)より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

書き下し文・『素問』瘧論第三十五

「黄帝問て曰く、夫れ痎瘧は、皆 風より生ず、其の蓄作に時有る者は何ぞ也?
岐伯對て曰く、瘧の始発するや、先ず毫毛に起こり、伸欠乃ち作して、寒慄、鼓頷し、腰脊俱に痛む。
寒去るときは則ち内外皆熱し、頭痛して破るが如く、渇して冷飲せんと欲す。

帝曰く、何の氣が然しむるか?願くば其の道を聞かん。
岐伯曰く、陰陽上下交争すれば、虚実更(こもごも)作して、陰陽相い移る也。
陽、陰に并すれば、則ち陰実して陽虚す。
陽明虚するときは、則ち寒慄、鼓頷する也。
巨陽虚するときは、則ち腰背頭項痛む。
三陽俱に虚するときは、則ち陰氣勝つ。陰氣勝つときは、則ち骨寒して痛む。寒、内に生ずる故に中外皆寒す。
陽盛んなるときは則ち外熱し、陰虚するときは則ち内熱す。
外内皆熱するときは、則ち喘して渇す。故に冷飲せんと欲する也。
此れ皆、之を夏の暑に傷れ、熱氣盛んに皮膚の内、腸胃の外に藏するに得たり。此れ榮氣の舎る所也。
此れ人をして汗して空疎、腠理開かしむる。(※太素、甲乙経では「此令人汗出空疎、腠理開。」とある)
因りて秋氣を得て、汗出て風に遇い、及び之を得て以って浴すれば、水氣は皮膚の内に舎りて、衛氣と并て居る。

衛氣とは、昼日は陽を行き、夜は陰を行く。
此れ氣は、陽を得て而して外に出でて、陰を得て而して内に薄(せ)まる。
内外相い薄まる、是を以て日に作る。

帝曰く、其の日を間(へだて)て而して作する者は、何ぞ也?
岐伯曰く、其の氣の舎ること深くして、内は陰に薄まる。陽氣は独り発して、陰邪は内に著く。陰と陽、争いて出ることを得ず。是を以て日を間て而して作る也。

帝曰、善し。
其の作ること日に晏(おそ)きと、其の日に早き者は、何の氣が然しむるか?
岐伯曰く、邪氣は風府に客して、膂を循りて下る。
衛氣は一日一夜、風府に大会する。其の明日、日に一節を下る①、故に其の作るや晏し。
此れ先ず脊背に客すれば也。毎に風府に至るときは、則ち腠理開く、腠理開くときは則ち邪氣入る。
邪氣入るときは、則ち病作す。此れを以て日に作すること稍益(徐々に)晏き也。
其の風府より出ること、日に一節を下る。二十五日に骶骨に下り至る。二十六日に脊内に入りて、伏膂の脈に注ぐ②
其の氣上行して、九日に缺盆の中に出づ。其の氣、日に高し、故に作ること日に益早し也。
其の日に間(へだて)て発する者、邪氣の内は五藏に薄(せ)まり、募原に横に連なる由る也。其の道は遠く、其の氣は深し、其の行りは遅く、衛氣と俱に行くこと能わずして、皆出ることを得ず。故に日を間てて乃ち作する也。

帝曰く、夫子の言、衛氣の毎に風府に至れば、腠理乃ち発す。発するときは則ち邪氣入る。入るときは則ち病作す。
今、衛氣が日に一節を下りて、其の氣の発する也、風府に當らずして、其の日に作する者は奈何?
岐伯曰く、此れ邪氣は頭項に客して、膂を循りて下る者也。故に虚実同じからず、邪の中る所を異にすれば、則ち其の風府に當ることを得ざる也。
故に邪が頭項に於いて中る者は、氣が頭項に至り而して病む。
背に中る者は、氣が背に至り而して病む。
腰脊に中る者は、氣が腰脊に至り而して病む。
手足に中る者は、氣が手足に至り而して病む。
衛氣の在る所、邪氣と相合すれば、則ち病作する。故に風に常府無し。
衛氣の発する所、必ず其の腠理を開く。邪氣の合する所は、則ち其の府也。(※1)

帝曰、善し。
夫れ風と瘧や、相い似て類を同じくす、而して風は独り常に在り、瘧を得るに時有りて休む者は、何ぞ也?
岐伯曰く、風氣は其の處に留むる、故に常に在り。
瘧氣は経絡に随い、沈みて以て内に薄(せ)まる。故に衛氣が應じて乃ち作す。

帝曰く、瘧の先ず寒して後に熱する者は、何ぞ也?
岐伯曰く、夏に大暑に傷れるに、其の汗大いに出て、腠理開発す。因りて夏氣、淒滄の水寒(※甲乙経、太素には小寒と作す)に遇うて、腠理皮膚の中に藏する。秋に風に傷れれば、則ち病成る。
夫れ寒は陰の氣也、風は陽の氣也。先に寒に傷られ、而して後に風に傷れる。故に先寒して後熱する也。病、時を以て作する、名けて寒瘧と曰う。
帝曰く、先に熱して後に寒する者、何ぞ也?
岐伯曰く、此れ先ず風に傷れて、後に寒に傷れる。故に先熱して後寒する也。亦 時を以て作す、名けて温瘧と曰う。
其れ但だ熱して寒せざる者、陰氣先に絶し陽氣独り発するときは、則ち氣少なく煩寃し、手足熱して嘔せんと欲す、名けて癉瘧と曰う。

帝曰く、夫れ経に言う、有餘する者は之を寫し、不足する者は之を補う。今熱するは有餘と為し、寒するは不足と為す。
夫れ瘧する者の寒は、湯火も温むること能わず也。其の熱に及びては、冰水も寒すること能わざる也。
此れ皆有餘不足の類。此の時に當りて、良工も止めること能わず、必ず其の自ら衰うを須(ま)ちて乃ち之を刺す、其の故は何ぞ也?願くば其の説を聞かん。
岐伯曰く、経に言う、熇熇の熱を刺すこと無かれ、渾渾の脈を刺すこと無かれ、漉漉の汗を刺すこと無かれ。故に其の病逆を為すは、未だ治すべからざる也。夫れ瘧の始発するや、陽氣は陰に并す。是の時に當りて、陽虚して陰盛ん、外に氣無し、故に先ず寒慄する也。
陰氣逆極するときは、則ち復た出て陽に之(ゆ)く。
陽と陰、復た外に并するときは、則ち陰虚して陽実す、故に先熱して渇す。
夫れ瘧氣は、陽に并するときは則ち陽勝つ。陰に并するときは則ち陰勝つ。陰勝てば則ち寒え、陽勝てば則ち熱する。
瘧は、風寒の氣 常ならざる也。病極まるときは則ち復す。病の発に至るや、火の熱の如く、風雨の如く當るべからざる也。
故に経の言に曰く、其の盛んなる時に方(あた)りて、必ず毀する。其の衰うに因りてや、事 必ず大いに昌なり。此れ之の謂い也。
瘧の未だ発せざるや、陰は未だ陽に并せず、陽は未だ陰に并せず、因りて之に調うれば、眞氣 安を得て、邪氣は乃ち亡ぶ。
故に工は其の已に発すを治すること能わずは、其の氣に逆するが為也。

帝曰く、善。
之を攻めること奈何?早晏は何如?
岐伯曰く、瘧の且(まさ)に発せんとするや、陰陽の且(まさ)に移らんとする也。必ず四末に従りて始まる也。
陽已に傷れて、陰之に従う。故に其の時に先にして、其の處を堅く束ね、邪氣をして入ること得ずに、陰氣の出ることを得ざらしむる。候うこと審らかに之を見る。孫絡盛んに堅にして血に在る者は、皆な之を取る。此れ眞往きて未だ并するこを得ざる者也。

帝曰く、瘧の発ざる、其の應は何如に?
岐伯曰く、瘧氣は、必ず更(こもごも)盛ん更(こもごも)虚する。氣の在る所に當る也。
病、陽に在るときは則ち熱して脈躁し、陰に在るときは則ち寒えて脈静なり。
極るときは則ち陰陽俱に衰う、衛氣相い離れる、故に病 休することを得たり。衛氣集まるときは則ち復た病む也。

帝曰く、時に間(へだ)てること二日有り、或いは数日に至りて発す。或いは渇、或は渇せず、其の故は何ぞ也?
岐伯曰く、其の日を間てる者は、邪氣と衛氣が六府に客して、時有りて相い失い、相い得ること能わず。故に休むこと数日にして乃ち作する也。

瘧は、陰陽更(こもごも)勝つ也。或いは甚しく、或いは甚しからず。故に或いは渇し或いは渇せず。

帝曰く、論に言う夏に暑に傷られれば、秋に必ず瘧を病む。今、瘧の必しも應ぜざる者は、何ぞ也?
岐伯曰く、此れ四時に應ずる者也。其の病、形を異にする者は、四時に反する也。
其れ秋を以て病む者は、寒甚し。冬を以て病む者は、寒甚しからず。春を以て病む者は、悪風す。夏を以て病む者は、汗多し。

帝曰く、夫れ温瘧と寒瘧とを病み、而して皆安にか舎る、何れの藏に舎るか?
岐伯曰く、温瘧は、之を冬に風寒に中り得たり、氣を骨髄の中に藏す。
春に至りて則ち陽氣大いに発す、邪氣自ら出ること能わず。大暑に遇うに因りて、脳髄爍し、肌肉消し、腠理発泄す。或いは力を用いる所有れば、邪氣と汗皆出づる。此れ病、腎に於いて藏す、其の氣先ず内従(よ)出て外に之(ゆ)く也。是の如くなる者は、陰虚して陽盛なり。陽盛なるときは則ち熱する。衰うときは則ち氣復た反て入る。入るときは則ち陽虚す。陽虚するときは則ち寒する。故に先に熱して後に寒する、名けて温瘧と曰う。

帝曰く、癉瘧とは何如?
岐伯曰く、肺に素(もと)より熱有り。氣、身に於いて盛ん、厥逆上衝す、中氣実して外泄せず。因りて力を用いる所有れば、腠理開く(※2)、風寒は皮膚の内、分肉の間に舎りて而して発す。発するときは則ち陽氣盛んなり。陽氣盛んにして衰えざるときは則ち病む。其の氣、陰に及ばざる故に但だ熱して寒せず。
氣は心に内藏し、外は分肉之間に舎れば、人をして消爍脱肉せしむ。故に命じて癉瘧と曰う。
帝曰く、善し。

 

督脈における衛氣の動きを知る

下線部①「其出於風府日下一節、二十五日下至骶骨」とある。この瘧論とほぼ同じ内容が『霊枢』歳露篇の冒頭に記載されている。しかし異なる点もある。

「衛氣之行風府、日下一節、二十一日下至尾底、二十二日入脊内、注於伏衝之脈、其行九日、出於缺盆之中。其氣上行、故其病稍益至。」
『霊枢』歳露篇より

瘧論、歳露篇ではともに「衛氣が一日一節ずつ下る」と記されている。しかし下る日数下る節数が『霊枢』歳露では二十一日とあるが、『素問』瘧論では二十五日であるという。
この理由として「項三椎を加えるため」という説がある。二十一椎と三椎を足して二十四椎。そして風府に大会するのに一日。〆て二十五日かかるとする説を、張景岳(『類経』にて)岡本一抱(『素問諺解』にて)の両氏は説いている。

ちなみに現代医学の解剖学では、頸椎7、胸椎12、腰椎5の計24椎である。
古典医学では脊骨を二十一椎とする。「大椎」骨から以下の椎骨を二十一椎。大椎より上の骨として項骨三椎を加えて計二十四椎とする。この椎骨数を岡本氏や張景岳は採用している。

霊枢の21日(二十一節)、素問の25日(二十四節+大會於風府)のどちらを是ととるか?については機会を改めるとして、この椎・節すなわち督脈上を上から下に流れ下るという記述に注目したい。

なぜ上から下なのか?

この論篇では衛氣の動きについて解説されている。特に注目すべきは“督脈における”衛氣の動きである。
そもそも督脈の流注は、下から上である。例えば鍼灸学校の経穴学では長強・腰兪・腰陽関…と記憶する。そしてこの経穴の流れから督脈の方向・流れを自ずと学んでいく。
また一源三岐という概念では「任督衝の三脈は胞中から起こる」とされるため、やはり下から上への流れを督脈に当てはめて考える。
しかし上記の『素問』『霊枢』両論篇では上から下への流れを提示している。現状、我々が習う督脈の流れと逆行しているようにみえる。
なぜなのか?

この理由として3つ考えられる。以下に簡単に紹介しよう。
1、督脈の特殊性
2、衛氣の流れ

1、督脈の特殊性とは「逆流が許される経脈」という言葉で表現できると思う。奇経の中でも任督(もしくは衝脈もか)は逆流が許される経脈ではないだろうか。
2、督脈の上から下への流れは「衛氣」に関して限定されている。営氣の流れとは異なる流行として整理しておくべきであろう。
とはいえ営氣の流行に於いても督脈の下行ルートは存在する。『霊枢』営気篇第十六(「営氣と奇経」を参照にされたし)

この督脈の特殊性および衛氣の性質については、時間をかけて理解を深めたいと思う次第である。

伏膂の脈とは?

督脈の理解を深める切り口として、重要な鍵となるのが下線部②の「伏膂の脈」である。

一日一節ずつ下ってきた衛氣は尾骶骨まで至ると伏膂の脈に注ぎ、また九日という時間をかけて鈌盆にまで上行するという。
この九日という日数は『霊枢』歳露篇も同じである。歳露との差異は項三椎のみにあるようだ。(ただ二十一と二十五という数字には大きな意味があると考える)

さて「伏膂の脈」であるが、これを伏衝の脈として解釈すべしという意見がある。上記に登場した張景岳、岡本一抱の両者ともに伏衝の脈と同義であるとの立場にある。

項骨三節、脊骨二十一節、共二十四節。邪氣自風府日下一節、故於二十五日、下至尾骶、復自後而前、故於二十六日入於脊内、以注伏膂之脈。
按『歳露篇』曰、「入脊内、注於伏衝之脈」蓋衝脈之循背者、伏行脊膂之間、故又曰伏膂也。
『類経』巻十六 疾病類 四十八痎瘧より引用

張景岳は上記のように伏膂之脈を伏衝之脈とし、さらに脊内に注ぐ先を「衝脈」としている。(岡本氏も同意見を採っている)

話は変わるが、督脈が走行する層について、多くの鍼灸師は督脈は脊椎上を走行するというイメージを持っている。しかし督脈について調べていくと「督脈は脊裏を流れる」という説に行き当たる。この説を唱える医家には扁鵲、皇甫謐、滑伯仁たちがいる。

この脊裏の督脈観と本論(『素問』瘧論)の督脈観とを組み合わせると良いだろう。
となると、節を流れ下り骶骨に至り、脊内に流れ込み鈌盆にまで上行する伏膂の脈はすなわち“脊裏を行く督脈”なのである。このように観ると、督脈は立体的な存在であり、督脈内で還流しているとも見直すことができるだろう。

となると、張景岳や岡本一抱が唱えた伏膂とは伏衝、すなわち衝脈であるという説は間違いなのか?
それは間違いとは言い切れないと思う。私見ながら「脊裏の督脈と衝脈は不可分」であると今のところ考えている。詳しくは講座【経絡の正奇双修】にて紹介しており、本記事では割愛させていただく。

再び衛氣の動き

本論では衛氣に関する記載が散見される。
※1)では、頭項・背・腰脊・手足と衛気の流行区分が提示されている。この各区分への分類は衛氣の流行パターンやその性質の差異などと関係があるだろうとみている。
例えば表記の順でみると、頭項から督脉を経て手足四末に流れる…と読み取っても良いだろう。
そして

邪に正気(衛氣)がぶつかることで邪正相争が起こるという基本病理にも言及されている。
※2)の箇所がその一例である。「因有所用力、腠理開…(略)…発則陽氣盛、陽氣盛而不衰則病矣」
つまり、力を発揮すると衛氣が外表に向かう。衛氣すなわち陽氣が盛んなれば(盛而不衰)則ち病む、という身体運用と衛氣の関係について触れている。

用語集リンク

▶伏衝之脈は『霊枢』歳露篇、および『霊枢』百病始生篇に記載されている。
▶募原・膜原…→『素問』挙痛論『霊枢』歳露篇、および『霊枢』百病始生篇に記載されている。
後代の温病学派は“膜原”という概念を瘟疫・温病の病理に組み込んで新たな病理観を提唱した。
呉有性の『瘟疫論』膜原…『瘟疫論』原病、および瘟疫初起。または葉天士の『温熱論』その9…等を参考にされたし。

鍼道五経会 足立繁久

原文・『素問』瘧論第三十五

「黄帝問曰、夫痎瘧、皆生於風、其蓄作有時者何也?
岐伯對曰、瘧之始発也、先起於毫毛、伸欠乃作、寒慄鼓頷、腰脊俱痛。寒去則内外皆熱、頭痛如破、渇欲冷飲。

帝曰、何氣使然、願聞其道。
岐伯曰、陰陽上下交争、虚實更作、陰陽相移也。
陽并於陰、則陰實而陽虚。
陽明虚、則寒慄鼓頷也。
巨陽虚、則腰背頭項痛。
三陽俱虚、則陰氣勝。陰氣勝、則骨寒而痛。寒生於内、故中外皆寒。
陽盛則外熱、陰虚則内熱、外内皆熱、則喘而渇、故欲冷飲也。
此皆得之夏傷於暑、熱氣盛、藏於皮膚之内、腸胃之外、此榮氣之所舎也。
此令人汗空疎、腠理開。
因得秋氣、汗出遇風、及得之以浴、水氣舎於皮膚之内、與衛氣并居。
衛氣者、晝日行於陽、夜行於陰。
此氣得陽而外出、得陰而内薄、内外相薄、是以日作。帝曰、其間日而作者、何也?
岐伯曰、其氣之舎深、内薄於陰。陽氣獨発、陰邪内著、陰與陽争、不得出。是以間日而作也。

帝曰、善。
其作日晏、與其日早者、何氣使然?
岐伯曰、邪氣客於風府、循膂而下。衛氣一日一夜、大會於風府。其明日日下一節、故其作也晏。
此先客於脊背也。毎至於風府、則腠理開。腠理開則邪氣入。邪氣入、則病作。以此日作稍益晏也。
其出於風府、日下一節、二十五日、下至骶骨。二十六日、入於脊内、注於伏膂之脈。
其氣上行、九日出於缺盆之中。其氣日高、故作日益早也。
其間日発者、由邪氣内薄於五藏、横連募原也。其道遠、其氣深、其行遅、不能與衛氣俱行、不得皆出、故間日乃作也。

帝曰、夫子言、衛氣毎至於風府、腠理乃発。発則邪氣入、入則病作。
今衛氣日下一節、其氣之発也、不當風府、其日作者奈何?
岐伯曰、此邪氣客於頭項、循膂而下者也。故虚實不同、邪中異所、則不得當其風府也。
故邪中於頭項者、氣至頭項而病。
中於背者、氣至背而病。
中於腰脊者、氣至腰脊而病。
中於手足者、氣至手足而病。
衛氣之所在、與邪氣相合、則病作、故風無常府。衛氣之所発、必開其腠理。邪氣之所合、則其府也。
帝曰、善。
夫風之與瘧也、相似同類、而風獨常在、瘧得有時而休者、何也?
岐伯曰、風氣留其處、故常在。瘧氣隨経絡、沈以内薄、故衛氣應乃作。

帝曰、瘧先寒而後熱者、何也?
岐伯曰、夏傷於大暑、其汗大出、腠理開発。因遇夏氣淒滄之水寒、藏於腠理皮膚之中。秋傷於風、則病成矣。
夫寒者陰氣也、風者陽氣也。先傷於寒、而後傷於風、故先寒而後熱也。病以時作、名曰寒瘧。

帝曰、先熱而後寒者、何也?
岐伯曰、此先傷於風、而後傷於寒、故先熱而後寒也。亦以時作、名曰温瘧。
其但熱而不寒者、陰氣先絶、陽氣獨発、則少氣煩寃、手足熱而欲嘔、名曰癉瘧。

帝曰、夫経言、有餘者寫之、不足者補之。今熱為有餘、寒為不足。
夫瘧者之寒、湯火不能温也。及其熱、冰水不能寒也。此皆有餘不足之類。當此之時、良工不能止、必須其自衰乃刺之、其故何也?願聞其説。
岐伯曰、経言、無刺熇熇之熱、無刺渾渾之脈、無刺漉漉之汗、故為其病逆、未可治也。夫瘧之始発也、陽氣并於陰、當是之時、陽虚而陰盛、外無氣、故先寒慄也。陰氣逆極、則復出之陽。陽與陰復并於外、則陰虚而陽實、故先熱而渇。
夫瘧氣者、并於陽則陽勝、并於陰則陰勝。陰勝則寒、陽勝則熱。
瘧者、風寒之氣不常也。病極則復。至病之発也、如火之熱、如風雨、不可當也。
故経言曰、方其盛時、必毀。因其衰也、事必大昌。此之謂也。
瘧之未発也、陰未并陽、陽未并陰、因而調之、眞氣得安、邪氣乃亡。故工不能治其已発、為其氣逆也。

帝曰、善。攻之奈何?早晏何如?
岐伯曰、瘧之且発也、陰陽之且移也、必従四末始也。陽已傷、陰従之、故先其時、堅束其處、令邪氣不得入、陰氣不得出、審候見之。在孫絡盛堅而血者、皆取之。此眞往而未得并者也。

帝曰、瘧不発、其應何如?
岐伯曰、瘧氣者、必更盛更虚、當氣之所在也。病在陽則熱而脈躁、在陰則寒而脈静。
極則陰陽俱衰、衛氣相離、故病得休。衛氣集、則復病也。

帝曰、時有間二日、或至数日発、或渇或不渇、其故何也?
岐伯曰、其間日者、邪氣與衛氣客於六府、而有時相失、不能相得、故休数日乃作也。

瘧者、陰陽更勝也。或甚或不甚、故或渇或不渇。

帝曰、論言夏傷於暑、秋必病瘧。今瘧不必應者、何也?
岐伯曰、此應四時者也。其病異形者、反四時也。
其以秋病者、寒甚。以冬病者、寒不甚。以春病者、悪風。以夏病者、多汗。

帝曰、夫病温瘧與寒瘧、而皆安舎、舎於何藏?
岐伯曰、温瘧者、得之冬中於風寒、氣藏於骨髄之中。
至春則陽氣大発、邪氣不能自出、因遇大暑、脳髄爍、肌肉消、腠理発泄。或有所用力、邪氣與汗皆出、此病藏於腎、其氣先従内出之於外也。如是者、陰虚而陽盛、陽盛則熱矣。衰則氣復反入、入則陽虚、陽虚則寒矣。故先熱而後寒、名曰温瘧。

帝曰、癉瘧如何如?
岐伯曰、肺素有熱、氣盛於身、厥逆上衝、中氣實而不外泄。因有所用力、腠理開、風寒舎於皮膚之内、分肉之間而発、発則陽氣盛、陽氣盛而不衰則病矣。其氣不及於陰、故但熱而不寒。
氣内藏於心、而外舎於分肉之間、令人消爍脱肉、故命曰癉瘧。
帝曰、善。

 

 

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