死脈を考える2 脈と呼吸【難経八難と十一難から】

鍼道五経会の足立です。

脈と胃の氣に行く前に…

前回から始めました「シリーズ・死脈を考える」 死の直前に当たるの死脈です。死を理解することで生を理解することって有ると思うのです。対極を知ることで理解が深まると言いましょうか。

特に現代日本の(多くの)鍼灸は昔と違いますから、生をみることも少なく死をみることも少ないと言えます。

生より遠く、死よりも離れている…そんな年代を診ることが多いと思われますので、鍼灸師が実感できる(患者さんの)生命力というのがどうしても希薄になるかと思うのです。

ということで、今回は「シリーズ・死脈を考える」その2…なのですが、【脈と胃の氣】に行く前にもう少し【脈と呼吸】が続きます。

難経一難と八難…矛盾しているじゃないか!?

八難は寸口脈は平脈なのに、死する場合がある…というお話です。(原文は下の青枠小文字です)

 八難の図(『難経鉄鑑』難経古註集成5 東洋医学研究会 発行 より引用させていただきました)

「寸口脈では異常がないのに死ぬことがある」 これって、一難の話と矛盾しているじゃないか!?と思ってしまいますね。

ハイ、私も矛盾していると思いました。しかし現実は教科書のようにはいきません。まして命をもつ生き物は特にそうです。矛盾や変化に富むのです。その矛盾の中にある法則性を見出そうとするのが東洋医学(東医に限らず科学も同じ)なのです。

さて難経八難では、生氣の原(生命力の根っこ)は、五臓六腑の本・十二経の根・呼吸の門・三焦の原であると表現しています。これを難経では腎間の動(動氣)と呼びます。

難経八難
八難曰、寸口脈平而死者、何謂也。
然、諸十二経脈者、皆係於生氣之原、所謂生氣之原者、謂十二経之根本也。
謂腎間動氣也。此五臓六府之本。十二経脈之根、呼吸之門、三焦之原。
一名守邪之神。
故氣者人之根本也。根絶則茎葉枯矣。
寸口脈平而死者、生氣独絶於内也。

この生命力である“腎間の動”が尽きてしまうと、たとえ寸口脈では問題が無くても生命が尽きるのです…と、根本的な生命力の虚衰について述べています。

この根本的な生命力こそが、五臓六腑の本、或いは十二経の根、或いは呼吸の門、そして三焦の原と言葉を変えて生命・生体の層を表現しているのです。

私見ですが、八難では人体・生命を4つの層【呼吸、三焦、五臓六腑、十二経】に分類されていると言えます。

根っこは一つなのですが、これら4つのものは層が異なります。臓腑と十二経の層が異なるということは鍼灸師には分かりやすい感覚です。他の呼吸・三焦そして臓腑・経絡もつながりはあるけど層は違うのです。このような全体を構成しつつも矛盾をも包含するといいましょうか。矛盾というより各々が持つ差異ですね。その差異があるから、全体として機能するのです。

このような点で八難は脈診に盲信しようとする自分に対して『チョット冷静になって考えるように』と言われているような気になります。

まとめますと、生氣の原という一つの源を中心として生命活動は多岐にわたって広がっている。それら各部の調和は必須であり、その調和が失われた時が病であるということですね。

しかし、重要なのは根本・根源です。

ですから、表面上の十二経に問題がなく寸口脈(一難では十二経の変動を寸口脈で診る)に問題はなくても、根である生氣の原が尽きることでその命も尽きるのだという。

この八難の生氣の原についてはまたの機会に譲るとして、もう少し脈と呼吸の関係について調べていきましょう。
次は十一難です。

十一難における脈と呼吸

十一難にいわく、経に言う、脈が五十動に満ちずして一止する。
これは一臓に氣無き者であるその臓とは何か?
然り。
人の吸気は陰に随いて入る、呼気は陽に因りて出る。
今、吸気が腎に至らさせることができなければ、肝に至りて還る。
故に知る。一臓に氣無きは、腎氣が先に尽きる也。(原文は下の青枠小文字)

十一難曰、経言、脈不満五十動而一止、一臓無氣者、何臓也。
然。
人吸者隨陰入、呼者因陽出。
今吸不能至腎、至肝而還。故知一臓無氣者、腎氣先盡也。

十一難の脈と呼吸に関するパートは上の青枠内の下線部です。(難経十一難の記事はコチラ

人の身体では吸気は陰の力に従って納められ、呼気は陽の力によって吐き出されます。
しかし、吸気が腎にまで氣を納めることができなければ、肝に氣を納めるだけとなり、腎氣は尽きてしまいます。

分かりやすく言い換えると、吸気・呼気によって得られる“氣”が陰に従って入り、陽によって出るといったイメージでしょうか。ただスーハ―と無意識にガス交換するのではなく、氣を得て納めて出すのです。吐納という言葉の通りです。

この話は難経四難の話にも通じる内容です。下の枠内を参考にしてください。

「四難にいわく、脈に陰陽の法あり、何の謂いぞや?然り。呼は心と肺に出る、吸は腎と肝に入る。呼(と)吸の間、脾は穀味を(も)受ける。その脈は中に在り。…」

四難原文(一部抜粋)「四難曰、脈有陰陽之法。何謂也。呼出心與肺、吸入腎與肝。呼吸之間脾受穀味也。其脈在中。…」

この吐納という視点でみると、五十動に満たない内に一度脈が止まるということは、五臓が十分に栄養されていないという見方につながります。言い換えると臓氣を満たすことが不完全だということですね。


十一難五藏止脉図(『図註八十一難経』難経古註集成2 東洋医学研究会 発行 より引用させていただきました)

規則的に脈が止まることは臓氣にとって大きな損失

その臓氣を満たすことが不完全な状態(ここでは便宜上“臓氣充填不全”と呼び方にします)が五十動の内に一回起こる訳です。これを一日に換算するとかなりの数字になります。

五十動=十息(10呼吸)ですから、『素問』『霊枢』『難経』での一日総呼吸数13,500回として計算すると、一日のうちに1,350回も臓氣充填不全が起こるわけです(代脈なので規則的に臓氣の充填不全が起こる前提です)。

ですから、一週間もあれば9,450回、一ヶ月(30日)で40,500回も臓氣充填不全を起こすことができます。

(一回あたりの臓氣充填不全がどの程度なのか?が分からないので断言できない点もありますが…)

脈で全身に氣血をめぐらすと言いながらも、人体は(ある面では)循環系に依る生命体ですから五臓も同じように“脈により氣血(精)の栄養を受けている”のです。

このようにみると、脈の結代(特に代脈)が臓氣の尽(臓氣絶)に結びつくことも容易に想像できるかと思います。

さて、脈が止まる(脈がとぶ・代脈)が五臓の氣の絶に結びつく話に戻りますが、どの臓氣が絶するのか?という問いに対して、難経十一難では、その臓を腎と指定しています。なぜ腎藏の氣が尽きたと特定できるのかと言いますと・・・

例によって『難経』から『霊枢』に移ります。『霊枢』根結篇を参考に勉強してみましょう。

「…(略)…五十動にして一代せざる者、五臓皆氣を受ける。
四十動に一代する者は一臓に氣無し。
三十動に一代する者は二臓に氣無し。
二十動に一代する者は三臓に氣無し。
十動に一代する者は四臓に氣無し。
十動に満たずして一代する者は五臓に氣無し。予之短期(原本では予を子とする)」

とあります。

『霊枢』では腎肝脾…といった五臓の特定はされていません。ただ一臓、二臓、三臓、四臓、五臓と、次第に氣が尽きていく臓が増え、残り時間(余命)が短くなる様子のみ記しています。

しかし『太素』(巻十四 人迎脉口診)では同様の記述に対して、楊上善は次のように具体的に五臓を指定しています。

「腎藏が第一、肝藏は第二、脾藏は第三、心藏第四、肺藏第五。五臓各々十動と為す。故にいわく、脈十動以下より次第に腎に至りて五十動に満つる。即ち五臓みな氣を受けるなり。…

腎藏第一 肝藏第二 脾藏第三 心藏第四 肺藏第五 五臓各為十動。故曰、従脈十動以下次第至腎満五十動、即五臓皆受於氣也。…」

 『黄帝内経太素』新華書店首都発行所 発行 より引用させていただきました)

と、第一に腎の氣が絶することを示唆しています。この点は難経に共通している点だと思います。(『図註八十一難経』では一肺二心三脾四肝五腎也とあるが、腎氣から尽きることは同じ)

このように営々と脈氣が流れることで四肢末端・皮毛血脉肌肉筋骨まで栄養されるのですが、栄養されるのは五臓も同じ。その五臓が栄養されないという事態が続けば、ジワジワと命は危なくなるということでしょう。

それが腎氣から絶していくのが容赦ないところであり、自然の摂理のようにも感じるところです。

この腎氣から尽きていく過程は十四難の至脈が参考になるかと思います。もちろん、腎氣から尽きていかないパターンにも触れられています。そして“呼吸と脈動の乖離が死に結びつくこと”がより詳細に説かれている難でもあります。

ですが、今回の記事では十四難の内容に関しては時間とスペースの都合上、割愛させていただきます。またの機会に投稿させていただきます。

ただ、脈が止まれば臓氣が尽きるのか?

まとめに入ります。上の小見出しに書きました「脈が止まる=臓氣の絶」と言えるのか?というと、そう単純な話ではないでは?と思います(思いたい)。

十一難にあるように、呼氣吸氣(呼吸によって営まれる氣・吐納によって養われる氣)によっても五臓は栄養されます。

ですから脈と呼吸が乖離するということは、臓氣をジワジワを消耗させていき、死を早めるという結果になるのだと考えます。

現代日本人の感覚だと、脈を止めない(不整脈だけを治す)ようにすれば問題解決すると思いがちですが、脈動と呼吸と氣の流行が調和しなければ、根本的な解決にならないと考える次第です。

以上が八難を通じた十一難の理解になります。

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