難経七十六難は戦術と戦略について説く

難経 七十六難のみどころ

七十六難には栄衛の刺法について触れられている。栄気衛気に対する鍼法といえば七十一難・七十二難・七十三難に既に説いている。しかし、ここにきて再び栄衛の鍼法を説くことに意味があるのかもしれない。

この観点でもって七十六難を読みすすめてみるとしよう。


※『難経評林』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

難経 七十六難の書き下し文

書き下し文・難経七十六難

七十六難に曰く、何を補瀉と謂う?
当に補するべき時、何れの所の気を取るか?
瀉するべきの時は、何れの所に気を置くのか?

然り。
当に之を補するべき時は、衛より気を取る。
当に之を瀉するべき時は、栄より気を置く。①
その陽気不足、陰気有余するは、当に先にその陽を補い、而る後にその陰を瀉すべし。
陰気不足陽気有余するは、当に先にその陰を補い、而る後にその陽を瀉すべし。

栄衛通行、これその要也②

前段は、衛気と栄気に対する鍼法として説いている。
後段は一転して衛気・栄気ではなく、陽気・陰気となっている。この点にも注目すべきである。
もちろん衛気・栄気はそれぞれ陽気・陰気と同義ではあるが、この表記の違いには七十六難の補瀉法を特徴を示すヒントでもある。

これまでの難経鍼法をおさらい

これまでの難経鍼法に関してはおさらいしよう。
七十難では「致一陽・致一陰」
七十一難では「刺栄無傷衛。刺衛無傷栄」
七十二難では「迎随、調氣之方、必在陰陽内外表裏」
七十三難では「當刺井者、以栄瀉之」
七十四難では「四時と井栄兪経合」
といった鍼法が記載されている。
これらの鍼法は表気裏気・陰気陽気と表現を変えつつも栄衛に対する鍼法として理解することも可能であろう。

七十六難も同様に栄衛二気に対する鍼法である。
本難では栄衛それぞれに対して鍼を利かせるのではなく“衛より気を取る”もしくは“栄より気を置く”と二気を別の層へと動かすことを眼目としている。この点は七十難と近しい趣きを感じる。

七十六難の解釈・その1

七十六難をシンプルに読めば、次のような解釈になるのではないだろうか。

「之を補するべき時、衛より気を取る」とは、衛気(表気・陽気)有余の状態であり、それすなわち栄気(裏気・陰気)が不足している状態が推測できる。したがって、有余の衛気層から気を取り、不足している栄気層に気を導くことで陰陽・栄衛の偏差を調整する鍼法である。

同じく「当に之を瀉するべき時、栄気より気を置く」とは栄気有余の状態であり、すなわち衛気不足の状態になっていると考えることがで

このように栄衛の偏差・偏勝を“栄衛の交流”でもって偏差を是正する。この鍼法は七十難の鍼法に通ずる。七十難では季節(天地の気)と人の気の感応によって生じる陰陽差を、「一陰を致す」「一陽を致す」ことで調整する鍼法である。
そしてこの七十六難では衛気と栄気を交流させることで、栄衛の偏差を調気和気させている。この鍼意は本難最後の言葉「榮衛通行、此其要也。」によって繰り返して伝えている。

以上のように読むと、衛気の視点・栄気の視点の双方から補瀉をみることができ、「補は瀉なり、瀉は補なり」の言葉についても栄衛交流の観点から一つの解釈が導き出せるだろう。と、ここまではオーソドックスな解釈である。次にもう少し丁寧に本文を読んだうえでの考察を述べてみよう。

七十六難の解釈・その2

七十六難の解せないワード3つ

七十六難の鍼法は、栄衛の交流を促し「栄衛通行」(下線部②)を鍼意とする。しかしこの結論の前に七十六難本文を順を追って確認していこう。なぜなら本文には気になる語句がいくつかあるからだ。

下線部①「当に之を補するべき時、衛より気を取る。これを瀉するべき時、栄より気を置く。(當補之時、従衛取氣。當瀉之時、従榮置氣。)」に注目してみよう。

この文で解せない点は3つある。
一つは「補は衛気から、瀉は栄気から」
二つは「気を“取る”と“置く”の違い」
三つは「補瀉における主語が“之(これ)”」
以上の3点である。

限定された条件下での補瀉

一、「補は衛気から」と定義されているが、栄気から補することは不可能なのだろうか?
その反対の瀉法も同様に衛気から瀉することは不可能なのか?
二、そして“取る”と“置く”の表現の違いは何を意味するのか?
三、“之を補する”“之を瀉する”とあるが、“之”とはいかに?

であるが「之を補する」「之を瀉する」とは、何の疑問も抱かなければ、ただ「不足を補し」「有余を瀉する」と通り過ぎてしまいそうである。

まず「補は衛気から」「瀉は栄気から」と表現が限定されている時点で、この補瀉法はかなり限定された条件下での鍼法であることが推察できる。
では、どのような限定条件なのか?
一つの案として、衛気栄気の偏差が大きい局所における鍼法であると考察できる。

栄衛偏差の大きい所といえば、思い浮かぶのが井穴である。井穴はその構造上から衛強栄弱の状態にあるとされる。(七十三難「諸井者、肌肉浅薄、氣少不足使也。」ここでいう氣とは衛気に対する栄気であると解釈している。)
この切り口から推し広げて、七十六難鍼法は井栄兪経合を基盤とした栄衛二気の流行を基盤とした補瀉法ではないか?と考察できる。

「補は衛気より気を取る」とは四肢末梢、とくに井穴における補法として理解できる。末梢(とくに井穴において)は通常でも衛気層が厚く、それに比して栄気層が薄い。表現を変えれば、衛気・陽気が潤沢に出溜する部位なのである。「陽は四末に受ける(陽受氣於四末)」(『霊枢』終始篇)との言葉にも通ずる。この潤沢な衛気・陽気を用いて補法に用いる。
対する「瀉は栄気より気を置く」とは、相対的に衛強栄弱である井穴とは反対の合穴を想定すると考察しやすい。肌肉深厚な部位である合穴では栄気をふんだんに用いることは可能である。

そして井栄兪経合システムを基盤としながらも、主たる現場となるのは経脈である。言うまでもなく井栄兪経合は衛気を主体とするインフラであり、経脈とは栄気を主体とするインフラである。
上記の主旨を分かりやすく言い換えると、衛気を用いた栄気層への補法、栄気層を用いた栄気の瀉法となる。故に本文にある“之”とは栄気層・経脈と解釈できよう。

このように考えると、上記3つの疑問点、「補は衛気から、瀉は栄気から」「気を取ると置くの違い」「補瀉における主語が之とする」の問題は解消できるのではないだろうか?

繰り返しになるが、本難のメッセージは「栄衛偏差の傾向がある井栄兪経合を用いて経脈を調整すること」である。この点を意識せずに日常で四肢末端に毫鍼を用いている鍼灸師は少なくないのではなかろうか?

後半は一転して陰陽調整をテーマとしつつも…

さて以上のように、七十六難の前段を「栄衛二気と井栄兪経合を用いた経脈調整鍼法」と解釈した。
しかし七十六難にはまだ続きがある。
後段には「其陽氣不足陰氣有餘、當先補其陽、而後瀉其陰。…(後略)…」とあり、衛気栄気の表現から一転して陰陽の表現となっている。この点についても注意すべきであろう。

むろん栄衛二気は陰気陽気と変換することも可能である。
しかしここまで明確に栄衛と陰陽とを区別している点にはなんらかの意図があると解する方が自然であろう。

前段が伝えた鍼法は「栄衛偏差の傾向がある井栄兪経合を用いて経脈を調整すること」であった。
しかし経脈には陰陽がある。すなわち陰経脈と陽経脈である。陰陽があるということは、当然その治療には先後があるのだ。
シンプルに表現すれば、前段では治療戦術であり、後段では治療戦略を述べている。これ以上の解説は不要であろう。

さて本難では前後二段に分けて、大小2つの治法を展開している。この構成はそれまで(七十難~七十四難)の鍼法とは一線を画しており、前述したとおり戦術と戦略の違いを連想させる。
この点においては、難経鍼法のひとつの集大成とも言えるであろう。

集大成…とは表現したが、まだ難経鍼法には七十八難・七十九難・八十難と続きがある。当然、これまでの鍼法とは異なる趣きと意図がある。その意図を如何に考察し受け止めるか?が楽しみなところである。

七十六難に関する各注釈書のご意見

以上は筆者の私見を主に述べさせてもらったが、歴代の医家たちはどのように七十六難を読み解いたのであろうか?各難経系注釈書をみてみよう。

『難経本義』七十六難註

滑伯仁(元代)は『霊枢』衛氣篇の文を用いて本難の解説を試みている。もちろん七十六難の文章は衛気篇を採用し発展させているため、衛氣篇から大いに学ぶべきである。しかし私(足立)が思うに、衛気篇は栄衛二気の交流を主眼としているため、難経の経穴治病観を基に考察を深めるべきであろう。

『難経本義』七十六難

『霊枢』五十二篇(衛気篇)に曰く、浮気の経を循らざる者を衛気と為す。其の精気の経を行る者を栄気と為す。蓋し補するときは則ち浮気の経を循らざる者を取りて以て虚処を補う。瀉するときは則ち栄よりその気を置きて用いざる也。置とは猶お棄置の置の如し。
然るれども人の病は虚実一ならず。
補瀉の道も亦た一つに非ざる也。
これを以て陽気不足して陰気有余なるときは則ち先ず陽を補い而る後に陰を瀉し以てこれを和す。
陰気不足して陽気有余なるときは則ち先に陰を補い而る後に陽を瀉して以てこれを和する。
此の如くなるときは則ち栄衛自然に通行するなり。補瀉の法は下篇に見る。

■原文
霊枢五十二篇曰、浮氣之不循經者為衛氣。其精氣之行于經者為榮氣。蓋補則取浮氣之不循經者以補虚處。瀉則従榮置其氣而不用也。置猶弃置之置。然人之病虚實不一。補瀉之道亦非一也。是以陽氣不足而陰氣有餘則先補陽而後瀉陰以和之。陰氣不足而陽氣有餘則先補陰而後瀉陽以和之。如此則榮衛自然通行矣。補瀉法見下篇。

『難経評林』七十六難註

『難経評林』は明代の医家、王文潔による難経系注釈書である。やはり『霊枢』衛氣篇より考察している。また補瀉においては、例えば瀉において営気層に鍼を至らせ、そこで集めた気を引き上げてその気を泄らすことを「気を置く」とし、瀉の鍼法としている。これは難経七十難の鍼法とさして変わらない。
また別の註文では『素問』八正神明論の補瀉鍼法を紹介している。

『難経評林』七十六難

此れに言う衛より気を取る者を補と為し、栄より気を置く者を瀉と為す。それ陰陽に有余不足あり、必ず先に不足を補い、而して後に有余を瀉する也。
用鍼の道を言うは、補瀉より外れざるのみ。何を以てこれを補瀉と謂う也?
且つ補瀉とは吾が身の気に止まる耳か?
但、当に補するべき時、何れの所の気を取りて以て之を補うべきか、当に瀉するべきの時、何れ所の気を置きて以てこれを瀉するべきか?
『霊枢』衛氣篇に曰く、其れ浮気の経を循らざる者を衛気と為す、其れ精氣の経を行る者を栄気と為す。故に衛は脈外を行き、其の分は甚だ浅し。
当に補するべき時、則ち浅きより気を取る、乃ち鍼を虚する処に推し納れる。是を衛より気を取ると謂う、而して虚するとは補する所あり。
営は脈中に在り、其の分は甚だ深し。当に瀉するべき時、則ち其の鍼を深く納れる。径(ただち)に実する所の分に至る。
気を得て鍼を引きこれを泄らす。是れを営より気を置くと謂う、而して実するとは瀉する所有り。
此れ固より補瀉の法也。
但、陰陽の人に在れば、有余不足の分あり、而して吾は補瀉の法を施す、先後の弁無からず。
其の陽気不足、陰気有余するは、当に先に陽を補いて而る後に陰を瀉し、以てこれを和するべし。陽をして虚さしめず而して陰をして実さしめざる也。
陰気不足、陽気有余するは、当に先に陰を補い而して後に陽を瀉し、以てこれを和すべし。陰をして虚さしめず而して陽をして実さしめざる也。
是れに由りて陰陽相い平して、偏勝の患い無し、而して営衛自然に表裏に於いて通行するなり。
先後の間を信(まこと・たより)とするは、乃ち補瀉の要法也。其可以少忽為哉。

■原文
此言従衛取氣者為補、従荣置氣者為瀉。其陰陽有有餘不足、必先補不足、而後瀉有餘也。
言用鍼之道、不外乎補瀉而已。何以謂之補瀉也。
且補瀉止於吾身之氣耳。
但當補之時、何所取氣以補之、當瀉之時、何所置氣以瀉之。
靈樞衛氣篇曰、其浮氣之不循經者為衛氣、其精氣之行經者為営氣。故衛行脉外、其分甚浅。
當補之時、則自浅取氣、乃推納鍼於所虚之處。是謂従衛取氣、而虚者有所補矣。
営在脉中、其分甚深。當瀉之時、則深納其鍼。徑(径)至所實之分、得氣引鍼泄之。是謂従営置氣、而實者有所瀉矣。
此固補瀉之法也。
但、陰陽在人、有有餘不足之分、而吾施補瀉之法、不無先後之辨。其陽氣不足、陰氣有餘、當先補陽而後瀉陰、以和之。使陽不虚而陰不實也。
陰氣不足、陽氣有餘、當先補陰而後瀉陽、以和之。使陰不虚而陽不實也。
由是陰陽相平、無偏勝之患、而営衛自然通行於表裏矣。
信乎先後之間、乃補瀉之要法也。其可以少忽為哉。

『素問』八正神明論に、帝曰く、補瀉を聞くに未だその意を得ず。
岐伯曰く、瀉は必ず方を用う。気の方(まさ)に盛んなる以てす。
月の方(まさ)に満つるを以てす。日の方(まさ)に温なるを以てす。身の方(まさ)に定むるを以てす。息の方に吸うを以てす。
而して鍼を内れ復たその方を候い、吸いて鍼を転ずる。復たその方を候い、呼して徐ろに鍼を引く。故に瀉と曰う。
必ず方を用いてその気を行らすなり。

補は必ず員を用いて上行する也。移す也。
その栄を刺中し、復た吸して鍼を排す。故に員と方とは鍼に非らざる也。
故に神を養う者は、形の肥痩、営衛血気の盛衰を知る。気血とは神なり、宜しく謹しみ養うべし。

■原文
素問八正神明論、帝曰聞補瀉未得其意。
岐伯曰、瀉必用方、以氣方盛、以月方満、以日方温、以身方定、以息方吸。而内針復候其方吸而轉針、復候其方呼而徐引針。故曰瀉。
必用方其氣行焉。
補必用員上行也。移也。
刺中其荣、復吸排針、故員與方非針也。故養神者知形之肥痩、営衛血氣盛衰。氣血者神、宜謹養。

『難経或問』の七十六難註

或問は1715年、江戸期の医家、古林見宜の手による難経系注釈書である。
「済」「奪」の言葉を用いて補瀉を説明している。済・奪は七十九難に登場するため、迎奪随済についてはその七十九難にて触れることとする。
また或問にて古林先生は、七十六難補瀉を栄衛二気の交流によって説明している。陰陽二気の交流による説明についての私の見解は上記の通りである。

『難経或問』七十六難

或る人問いて曰く、七十六難に鍼法の補瀉を説く。
蓋し鍼とは本と金鉄、何の氣味有りて補瀉と為さん?
その理を請聞せん。
対て曰く、その補その瀉、皆な内外の氣に於いて因りて、これを為す也。
補とは、将に去らんとする氣を済いて、而してこれをして去らしむる也。
瀉とは奪、将に実せんとする氣を奪いて、而してこれをして充たしむる也。
故にこれを補うの時に当りては、衛分の表より漸く氣を取りて、営分の裏に至りて、これを採充する也。
これを瀉するの時に当りては、営分の裏より漸く氣を置きて、衛分の表に至りて、これを棄捨する也。
これ大概補瀉の法なり。
若し陰陽に有余不足の有るときは則ち当に先ずその虚を補いて後にその実を瀉す、
誤りて先ず瀉してその氣を失するときは則ち何れの氣を取りて以てこれを補わん哉?
夫れ鍼治の補瀉とは、盡く一身の氣を以て主と為す。故に氣の往来得失を知らざるときは則ち徒らに皮肉を刺し破るのみ。何を以て補瀉の功の有らんや!?
是を以て結語として曰く、営衛通行、此れその要也と。
噫々、難経の言、間に髪を入れず(間髪入れず)これの如しなり。宜しく深察すべし。

■原文
或問七十六難説鍼法之補瀉、蓋鍼者本金鐵有何之氣味而為補瀉。
請聞其理。
對曰、其補其瀉、皆因於内外之氣、而為之也。
補者濟、将去之氣、而使之不去也。
瀉者奪、将實之氣、而使之不充也。
故當補之時、従衛分之表、漸取氣、而至營分之裏、採充之也。
當瀉之時、従營分之裏、漸置氣、而至衛分之表、弃捨之也。
是大概補瀉之法也。
若陰陽有有餘不足則當先補其虚而後瀉其實、誤先瀉而失其氣、則取何氣、以補之哉。
夫鍼治之補瀉者、盡以一身之氣為主。故不知氣之往来得失、則徒刺破於皮肉耳。
何以有補瀉之功哉。
是以結語曰、營衛通行。此其要也。噫、難経之言、不可間入於髪如此矣。宜深察焉。

『難経古義』七十六難註

『難経古義』は1760年に加藤俊丈(滕萬卿)による難経系注釈書である。
古義では「栄より気を置く者、深くして之を留む。気を得て因りて引きて之を持つ。脈中の気をして、散じて衛外に置く。是れ之を瀉する也。」とあり、やはり本難鍼法を七十難鍼法と同じ解としている。

『難経古義』七十六難

この篇を按ずるに、専ら栄気の脈中に行る者を補瀉することを為す、これを言う。凡そ補瀉の法、前後諸篇に述べる所、その義一ならず、各々その帰を殊にす。集成して以てこれを得れば則ち鼎湖の蘊奥、渤海の要妙。当に諸を心に得て而して諸を掌に運かすが如きなり。
所謂(いわゆる)衛より気を取る者、浅くその鍼を留め、気を得て因りて推して之を下す。その浮散の氣をして、脈中に収入せしむ。是れ之を補する也。
栄より気を置く者、深くして之を留む。気を得て因りて引きて之を持つ。脈中の気をして、散じて衛外に置く。是れ之を瀉する也。

即ち前篇に言う所の「春夏致一陰、秋冬致一陽」その事と同じに似たり。
然れども、彼は四時陰陽升降の道を以て之を言う。
此れは乃ち一経増減の法を以て之を言う。

「陽気不足、陰気有余、当先補陽瀉陰」云々の数語は、即ち『霊枢』(終始篇第九)の云う所の「陰盛而陽虚、先補其陽後瀉其陰而和之。陰虚而陽盛。先補其陰後瀉其陽而和之」の義なり。虚にして実を後にする者、是れ鍼家予奪の道、若し悞りて実を先にして虚を後にせば、則ち恐くは暗に正気を脱漏せん。故にその先後を戒めること此の如し。

■原文
按此篇、専為補瀉榮氣行於脉中者言之。凡補瀉之法、前後諸篇所述其義不一、各殊其歸。集成以得之、則𪔂(鼎)湖之蘊奥、渤海之要妙、當如得諸心而運諸掌焉。所謂従衛取氣者、浅留其鍼、得氣因推下之。使其浮散之氣、収入脉中。是補之也。従榮置氣者、深而留之、得氣因引持之。使脉中之氣、散置衛外、是瀉之也。即與前篇所言、春夏致一陰、秋冬致一陽、其事似同。然、彼以四時陰陽升降之道言之。此乃以一経増減之法言之。陽氣不足、陰氣有餘、當先補陽瀉陰云云、數語。即靈樞所云、陰盛而陽虚、先補其陽後瀉其陰而和之。陰虚而陽盛。先補其陰後瀉其陽而和之之義。先虚後實者、是鍼家予奪之道、若悞先實後虚、則恐暗脱漏正氣。故戒其先後如此。

『難経註疏』七十六難註

『難経註疏』は名古屋玄医(1628-1696)による書である。名古屋玄医は当時隆盛であった後世方派(金元医学・李朱医学)の偏重を危惧し、傷寒論医学の必要性を説いた人物である。その医学的立場から古方派の始祖とも認識されている。
さてその名古屋先生であるが、七十六難の解説では栄衛二気には触れずに、陰陽の調和のみに言及している。

『難経』七十六難註疏

夫れ人身、陽有余し陰不足する。故に陽微しく不足するときは則ち病む。
凡そ病むときは則ち当に陽を補い陰を瀉する。
然りと雖も、又、陽を補うに拘るべからず。
陰陽各々偏虚偏実の者あり、当に各々その虚実に随いて補瀉を為す、此れその大要也。
置とは猶お棄置の置がごとき也。

■原文
夫人身陽有餘、陰不足、故陽微不足則病。
凡病則當補陽瀉陰。
雖然、又不可拘補陽。
陰陽各有偏虚偏實者、當各隨其虚實為補瀉、此其大要也。
置猶弃置之置也。

『難経達言』七十六難註

『難経達言』は高宮貞による難経系注釈書である。
『素問』調経論を引き合いに出しているが、本難に対する註はいたってシンプルである。

『難経』七十六難達言

置とは留置の意である。深くこれを刺して氣を与えるに当れる也。
内経(『素問』調経論)に云う、虚を補うは奈何に?鍼を持ちて置くこと勿れ、是れ也。

■原文
置者畱置之意。深刺之而與氣當也。
内経云補虚奈何持鍼勿置是也。

以上、各医家の七十六難註を付記したが、まだ難経注釈書は他にもある。
興味がある先生方は各々探して目を通していただきたい。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 難経 七十六難

■原文 難経 七十六難

七十六難曰、何謂補瀉。當補之時、何所取氣。當瀉之時、何所置氣。

然。
當補之時、従衛取氣。當瀉之時、従榮置氣。
其陽氣不足陰氣有餘、當先補其陽、而後瀉其陰。
陰氣不足陽氣有餘、當先補其陰、而後瀉其陽。

榮衛通行、此其要也。

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