鍼灸は医学であり医術

鍼道五経会の足立です。

鍼灸は医学であり医術

 
医学と医術は陰と陽みたいなものです。学問・知識と感覚・感性どちらが欠けても完璧とはいえません。

しかし、鍼灸は医学と感覚との線引きが不明瞭な世界ですね(特に現代日本で教えられる鍼灸に関しては)。

鍼灸が医学であるならば、一定レベル以上の知識や医学体系・病理学や治療学を知っておかないと治療になりません。(これは現代医学の知識だけではありません。鍼灸師にはあくまでも東洋医学知識を“一定レベル以上”必要とされます。)

診断なくして治療にはなり得ないと私は思います。(診断や治療という言葉を鍼灸師が使うことはアレなようですが…)

医術だと考える要素は、ある種の感覚が必要です。これを直観と呼ぶ人もあれば、センスと呼ぶ人もいるでしょうし、他の呼び方もあるでしょう。

いずれにせよ、言葉や文字では言い表せない 伝え難い要素を鍼灸は含んでいます。それを術の領域だと私は理解しています。

これら双方の長所をうまくその人なりに使いこなせてこその鍼医だと思うのです。

しかし困ったことに、術と学(術と知)をうまく両立させることが難しいとされているようです。

知識に偏ってもいけない


これは往々にしてよく言われますね。頭が固くなってもいけない(私もよく言われましたものですが)。固定観念や先入観に囚われてはいけない。

知識を得ることでそちらに引っ張られてしまうのですね。手段が目的となり、目的が価値観に変じてしまうと言いましょうか…。

そもそも治療するための知識を得るための学問勉強が絶対的な価値観に変質してしまうということは往々にしてあることです。

感覚に偏ってもいけない

しかしその反対も同じこと。感覚に頼ってはいけない。

鍼灸で治療を行うというのであれば、その時の感覚・直観だけに頼る鍼灸ではいけないと思うのですね。
単なる思い付き治療や思考を放棄した鍼灸を患者さんに施術するわけにはいきません。

かの夢分流においても『針道秘訣集』において教外別伝不立文字という言葉で、学や知を越えた鍼術を説きました。しかし、だからといって夢分流自体が学や知を放棄したわけではありません。

『針道秘訣集』ではかつて九つの流派を学んだとも書いてあります。これも相当勉強しないと不可能だと思います。

『針道秘訣集』當流臓腑之辨では、『十四経(十四経発揮)』『鍼灸聚英』『難経』といった医書の名が登場します。これは決して文字・知識としての医学を否定しているわけではありません。なぜなら読むなとは書いていないのですから。

実際には「略す」と書いてあります。これは『読みなさい』という意味です。そこを都合よく勘違いしちゃダメです。

また同じく當流臓腑之辨における胃腑の病理解説などは李東垣の医学を学んだ病理観ではないかとも思えます。(相火、腎水という概念を取り入れているあたり、易水派・李東垣の流れの影響も受けているのではないでしょうか)

ともあれ、学あってこその術、術あってこその学…それこそが鍼灸の強みだと思うのですね。

それぞれの鍼灸師がどのような鍼灸や流派を選ぶにせよ、「学と術」「学問知識と感覚」「目に見えるものと目には見えないもの」「文字・書物と不立文字・教外別伝」…といった二つの世界を学び理解することは必須の課題としてついて回ることだと思います。

これは鍼灸だけでなくどの仕事も同じことでしょう。ただ、職人的な要素の強い仕事は感覚や術の要素が色濃いのだと思います。

そしてもうひとつ、学術の両立を成り立たせるのと同じくして、道を追究するということも忘れてはいけません。
学も大事、術も大事、そして道も大事…なのだと思います。

だから鍼灸って面白いんですよね。

 

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