理想の鍼って何ぞや?その1「夢と現の間の鍼」

理想の鍼ってどんな鍼?

私見ながら理想の鍼(の一つ)とは「夢と現の間にある鍼」だと思っている。
もちろん理想の鍼の定義は鍼師によってそれぞれ異なるので一つの理想像として眺めてもらうと幸いである。

「夢と現(うつつ)の間」とは何ぞや?そう思う人も多いだろう。
 or 

発端は私の母親の治療をしていたときだった。(その時はひどい眩暈で起き上がれない症状だったか…)
意識の一部は覚醒しているが、一部は寝ているような…そのような状態だった。
もう5,6年前のことだが、その時の情景は今でも明瞭と覚えている。一部は寝ていたのにハッキリと覚えているというのも変な感覚だが、「何年も前に見た夢をハッキリと覚えている」のと同じようなものだ。

「この鍼がベストなのか否か?」など検証のしようもないことであるが、当時は『この鍼だっ!』と自分の中で理想の鍼を定義づけたのだった。

夢と現の間をどう再現する?

理想の鍼は『ある境地に至ったときの鍼』だとしても、問題はそれをどう再現するか?である。
しかし当初はただ「夢と現の間」と言葉だけが先行し、具体的なイメージが作れなかった。

そのせいか“酒酔い”の状態がこれに近いのか?と考えたりもした。

その思い付きを老獪な鍼灸師の先生に尋ねたこともあった。
「それも一理ある。が、酒酔いはすぐに醒めるし、醒めた後には色々なものが乱れる。」とも言われ『確かにそうだ…』と思い、考えを改めた。酒(薬)の薬を借りたところで、ベストなゾーンの幅も狭く、ピークは短いのだ。

また【鍼灸師の遠足】と称し、高野山で密教観想法を体験をさせていただいたときには、このような言葉をいただいたことがある。

「観想は主観と客観を行ったり来たりする…云々。」

その時『なるほど…!』と合点がいったことを覚えている。

夢と現実、主観と客観、無形と有形…どちらか一方に偏らず、否定せず。かつ自在に両つの領域を行ったり来たりするのが陰陽家としての自在の境地である。

今この「夢と現の間の鍼」を振り返ってみるに、まさに「挽かぬ弓、放たぬ矢にて射る日は 中らずしかも外さざりけり」の道歌に伝えられる通りである。

“夢と現の間”と鍼道五経会の流儀

夢と現とは言い換えると“無形と有形”である。

無形と有形の対比は当会の流儀「診鍼一致・診鍼一貫」の根底に在るものだ。
曰く氣と血、曰く経絡と臓腑、曰く望診と腹診、曰く鍉鍼と毫鍼…etc.である。

さらにこの理想の鍼をどのようにイメージするかで臨床スタイルも変わる。

私は治療はあまり会話をしない。(もちろん質問されたことには丁寧に答えるが)
黙々と鍼をするわけであるが、無言でひたすら治療を続けるわけではない。ただ独り言を言い続けるスタイルを採っている。
なぜなら治療に於ける陰陽の接点は患者さんの身体、そして言葉にある。
互いに会話に一生懸命になるということは“現”から離れられないことであるからだ。また無言の状態が続くことも迷いの元である。

とはいえ「理想の鍼」に対するこの解はあくまでも“一つの解”であり、またこの解が正解であったとしても、手段の一つに過ぎない。戦術がいかに優れようとも、それに適した戦略が無ければ無意味なものとなる。

上記に挙げたように、現場では「戦略に適した戦術」「戦術に適した戦略」が自ずと見いだされ構築されるべきものなのだ。詰まるところ「診鍼一致・診鍼一貫」である。

繰り返すが「理想の鍼灸」「最高の鍼灸」とは一手段に過ぎない。
新たな理想を見つけるべく工夫実践検証を続けることで、その奥の道理に至るのだろうと考えている。

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