如環無端を見直す
環の端の無きが如し(如環無端)という言葉があります。鍼灸師ならば何度か目にしたことのある言葉でしょう。
如環無端という言葉からは「終わり(端)が無く輪っか(環)のように、グルグルと循環し続ける様子」が想像できます。そしてその循環システムを経脈流注に当てはめて、経脈の構造があたかも終わりのない循環システムかのように説明されているようにもみえます。
しかし【経脈=完璧な循環システム】とみなすには早計だと思わざるを得ません。まず十二正経の構造そのものについて、見直す必要があります。これに関しては関連記事『如環無端の矛盾 ~完成された不完全~』にて『霊枢』経眽篇の範囲で考察しています。
さて、本記事ではもう少し視野を広げて「二十八脈」の観点から如環無端について考察しましょう。
二十八脈とは『霊枢』五十営に登場する言葉です。五十営では二十八脈の構成についての詳細説明はありませんが、文意から、二十八脈と脈度とは直結していることは明らかです。そして『霊枢』脈度の内容と総合すると、二十八脈の構成は十二正経の左右(24脈)、これに加えて任脈督脈の2脈、これに左右蹻脈の2脈を加えて二十八脈となります。脈度に関する内容は『難経』二十三難の中にも明記されています。
少し乱暴な表現でいいますと二十八脈は『内経』と『難経』において共通の人体観の基盤となっているとも言えます。
本記事の狙いは、この二十八脈全体における如環無端を見直してみようという試みです。
なぜ二十八脈なのか?
本記事では十二正経だけでなく、任脈・督脈・蹻脈を含めた二十八脈で如環無端を考えたいと思います。その理由はなんと言っても“脈度”です。脈度とは脈の寸法(もちろん厳密な長さではない)です。
二十八脈の寸法をすべて合わせると“十六丈二尺”。この数字は非常に重要で、鍼灸師ならば必修のことであります。
というのも、手足三陰三陽経脈および任・督・蹻脈の二十八脈が、人体を一周している経脈の総寸法が“十六丈二尺”なのです。ちなみに『霊枢』脈度篇では“氣の大経隧”と称してもいます。
そして人体の氣は、一日(100刻)で十六丈二尺(16.2丈)を五十周しています。このことは『霊枢』五十営に詳しく記されています。
一日(100刻)の間に、呼吸13500息にして氣の行くこと八百一十丈(810丈)。これが『黄帝内経』に定義された氣の人体観であり、生理学であります。
この人体観・生理学は、脈診はもちろん鍼法鍼治の基盤となっています。この五十営と脈診・鍼法との関係に目を向けられることは少ないようですが、少なくとも当会では重要視しています。
一日で50周回可能なインフラ
さて、ここで人体の氣が二十八脈(16.2丈)を周回するという原則について注目しましょう。
周回するからには、二十八脈は“如環無端”に近い構造をもっているはずです。
不完全ながらも“如環無端”に近い構造をもつ十二正経、これに任脈・督脈・陰陽蹻脈を加えても“如環無端”の循環構造を成立させることが可能なのでしょうか?
まずは十二正経のおさらいです。
経脈篇では「手太陰肺経は中焦より始まり……支脈は…直に次指内廉に出て、その端に出ます」。次いで手陽明大腸が「大指次指の端に起こり、指上廉を循り…」と、順々に足陽明胃経・足太陰脾経…(中略)…足少陽・足厥陰と繋がり、足厥陰肝経の支脈は「その支なる者は復た肝より別れ膈を貫き上りて肺に注ぐ。(其支者、復従肝別貫膈、上注肺。)」と、『霊枢』経脈篇(一部引用)では「肝経から肺、肺から肺経へ」と繋がる流注が明記されています。
経脈のみで形成された環状構造ではない点、肝経と肺経の連絡ポイントとして肺経の途中(肺臓)を挟む点、エネルギー供給源として中焦を介在するため純粋な如環無端と言えないじゃないか!?という点から疑義を投げかけたのが過去記事『如環無端の矛盾 ~完成された不完全~』です。
しかし冷静にみれば、この経脈篇だけの情報で“如環無端”を論じるのは早計でした。
前述のように十二経(左右二十四経脈)だけで、二十八脈(脈度篇でいう氣の大経隧)を語るには不十分だからです。なぜなら任脈・督脈・両蹻脈を組み入れていないからです。経脈篇はあくまでも十二経脈について書かれた情報です。ですので五十営について考えるのなら『霊枢』営氣篇がふさわしいでしょう。
ちなみに過去記事『如環無端の矛盾 ~完成された不完全~』で紹介した滑伯仁の新説「如環無端を完成させた漢(おとこ)」ですが、二十八脈・五十営の観点からみえば、彼の試みは少し見当外れな気がします。とはいえ偉大な医家でありますから、浅慮浅薄な私の知識では判断しきれないところがあるのかもしれませんが。
では営氣篇からみていきましょう。
『霊枢』営氣篇から任脈督脈の考慮する
営氣篇の一部、とくに足厥陰肝経以降のルートを抜粋しましょう。
…とあり、足厥陰肝経の支別が督脈に合流して、経脈篇にはない“続きのルート”が明記されています。(営氣篇では支別とあり、経脈篇と若干異なるがここでは大同小異とします)
営気篇の内容を要約すると以下になります。
※巓~ 陰器までが督脈ルート
※毛中~缺盆までが任脈ルート
※任脈が缺盆に関与するという情報が『霊枢』本輸にあり、李時珍も『奇経八脈攷』に「霊枢経曰、鈌盆之中任脉也。名曰天突。」と採用している。
実際には任脈流注はさらに「喉嚨・頤・唇へ上行し、さらに分岐して承泣に至る」のですが、ここでは“如環無端”なる環状構造に任督流注の一部が関与しているとみてよいでしょう。
以上をみると、十二正経の流れに督脈と任脈が組み込まれており、環状構造が形成されている様が読み取れます。これは“十四経脈環状構造”とも呼べるものではないでしょうか。
蹻脈の特殊性
次に理解しておきたいのが陰陽蹻脈の流注です。上記の十四経脈環状構造(仮称)には、蹻脈が入り込む余地など無さそうにもみえます。現に『霊枢』営氣篇では蹻脈は組み込まれていません。このことからも陰陽蹻脈は二十八脈の中でも特殊な存在としてみるべきであることが伺えます。
まず『霊枢』脈度篇に明記しているように、陰陽蹻脈は男女によって二十八脈における“経”と“絡”が変わるという特殊性を有しています。
(『霊枢』脈度篇「岐伯答曰、男子数其陽、女子数其陰、當数者為経、其不當数者為絡也」)
この蹻脈の特殊性に注目した人物がいます。内丹家として有名な張伯端(張紫陽)です。「人有八脈、俱属陰神、閉而不開。惟神仙以陽炁衝開、故能得道。採陽炁、惟在陰蹻爲先。…」(『張紫陽八脈経』より)「陰蹻者、乃攝精之路也。正在穀道前、膀胱後、上通乎丹田。是採藥之路。…」(『金仙説證』より)など張氏の言葉は注目に値します。
張伯端は、男性にとっての陰蹻脈に注目したわけです。男性において“経”たる陽蹻脈に対し“絡”たる陰蹻脈をいかに衝開させるか、が仙道の要のひとつとしたのだと推察します。
さて、このような特殊な蹻脈が上記の“十四経脈環状構造(仮称)”に、どのように加わればよいでしょう?
ここで思い出されるのは「蹻脈は少陰の別(陰蹻脈は少陰の別脈)」(『霊枢』脈度および『奇経八脈攷』陰蹻脈より)「足太陽の別脈(陽蹻者、足太陽之別脉)」(『奇経八脈攷』陽蹻脈)という定義です。
○足少陰腎経の流れ
○陰蹻脈の流れ
と、以上のように腎経と陰蹻脈は「跟中」を要所として、並走しながら上行しています。
足太陽膀胱経と陽蹻脈の関係をみてみましょう。
○足太陽膀胱経の流れ
○陽蹻脈の流れ
上記内容から、膀胱経と陽蹻脈の要所は「目内眥・睛明」であることがわかります。
足太陽膀胱経は目内眥(睛明)に起こり、頭・項・背・腰を下行して外踝・小指外側を行きます。一方、陽蹻脈は跟中より起こり、外踝に出て、体の外廉などを経て承泣・目内眥(睛明)に至り、風池に終わります。
太陽膀胱経と陽蹻脈の両者は、前者(腎経と陰蹻脈)とは異なり、同じ方向に向かって並走する形態をとっておらず上下升降の形態を示しています。
また「腎経・陰蹻脈」、「膀胱経・陽蹻脈」どちらの組み合わせをみても、それぞれのペアで交会要所は「跟中」または「目内眥」と一ヶ所しかありません。従って“環状構造(小循環)”とみなすには不完全なものだといえます。
となると、前述の十四経環状構造(仮称)に蹻脈を組み入れると、循環が破綻してしまうことになってしまいます。それは困りますね…。
蹻脈とメビウスの輪
では視野を広げて「腎経」「陰蹻脈」「膀胱経」「陽蹻脈」これら四脈の流注を俯瞰してみてみましょう。これら四脈によって環状構造が構成されているとみることができます。
画像:メビウスの輪
「跟中」と「目内眥(睛明)」を始点・終点として腎経・膀胱経・陰蹻脈・陽蹻脈の四脈がメビウスの輪のように繋がり合っているのです。
【膀胱経)睛明→足小趾→腎経→跟中→陰蹻脈・陽蹻脈→睛明…(略)…】へと還流するルートが考察できます。
但し、この還流ルートも完全なものではありません。陰陽蹻脈の双方が規定通りの流注だと成り立たないルートといえます。しかし、そこはそれ。「男女によって陰陽蹻脈の経・絡は異なる」とあるように、一方が経となり他方は絡となるわけですから、そうなると上記の四脈還流ループは成り立つわけです。
あとはこの四脈還流ループ(仮称)が十四経脈環状構造のどこに組み込まれるか?ですが、やはり腎経と心包経の間に加わるのではないかと考えます。
十四経環状構造(仮称)が大循環に対し、この四脈還流ループ(仮称)が小循環となり、これまた大きなメビウスの輪を形成しています。
この姿もまた、生命の神秘を感じさせる構造と感じるのは私だけでしょうか。(もちろん本段落の考察はすべて私見に過ぎませんが)
ちなみに“メビウスの輪”構造に拘らなければ、陰陽蹻脈が「跟中~風池」へと流れ、足少陽胆経までのバイパス的な役割を果たすという経隧も可能性として挙げることができます。
とまれ、二十八脈は『霊枢』に登場しておりながらも、さほど議論されていない概念的構造のように思えます。さらに色々な案や可能性が挙げられる余地のあるものではないでしょうか。
鍼道五経会 足立繁久