直感と直観と鍼灸

あなたの鍼はチョッカンに依存していないか?

鍼灸や脈診を指導する立場にあると「直感」や「直観」という言葉を耳にすることがしばしばある。

「直感で判断する」といった使われ方であるが、私はこの言葉に強い違和感・抵抗感を覚える。

そもそも直観と直感を混同して使用されている場合が多く、そして大抵は「直感」を使用しているケースなのだ。では直感と直観の違いを改めて見直してみよう。

※以前にも『鍼灸は医学であり医術』にて直観という言葉に触れたが、改めて直感と直観、そして鍼灸治療との関わりについて考えたい。

直感で鍼することってどういうこと?

「直感とは感覚的に物事を感じとること」
「直観とは、知識の持ち主が熟知している知の領域で持つ、推論・類推など論理操作を差し挾まない直接的かつ即時的な認識の形式である。」(ともにWikipediaより引用)

こ難しい言葉が並んでいるが、前者「直感」の方はイメージしやすいだろう。
こちらの直感は、知識や理論を越えた感覚的な気づきを指して使われることが多いようだ。


良く言えば「閃き」であろうか。
しかし悪く言えば「カン(勘)」や「思いつき」とも言えるだろう。

「感覚的な閃きで治療する」といえば格好良く聞こえるが、その一方では「ヤマカンに頼って鍼している」とも言えるのではないか。私が強く違和感を覚えるのはこの点にあるのだ。
こんな理由で鍼など刺されては、患者さんやそのご家族もたまったものではないだろう。

分厚い基盤があってこその直観

直観の定義は先ほどWikipediaから引用させていただいた。
現時点での私の言葉で表現し直すと「膨大な知識と経験にもとづいた上で、最短で解に至る意識のはたらき」となる。

直観は「膨大な情報(知識・経験)に基づく…」と考える私にとって「直感で鍼する」なんて聞くと、とても浅薄で心もとなく響く。つまりそれ(直感の方)は思考放棄であり、医学や医療を実践する者としてはやはり抵抗を感じる姿勢なのだ。

常に知識と技術の研鑽を怠らず、樹木の年輪のように一層ずつ分厚くしていく…それを経て重厚となった層(知識と経験)を基盤として直観がはたらくのである。鍼灸のプロフェッショナルとしてあるべき姿はこのようにあるべき、と私見ながら思うのだ。

樹木のように少しずつ年輪を増すことで、治療家としての分厚さや器となる。

もちろん10年や20年そこらの蓄積しかない一個人が直観という言葉を発するには敷居が高すぎるが、伝統医学には他のジャンルにはない強みがある。
なぜなら伝統医学は百年・千年単位の蓄積があるのだ。しかもありがたいことに書物としてそれらを遺してくれている。これら膨大な知識と経験を吸収することで、個の知識・経験を越えた直観を働かせることができるとも思っている。

学問と臨床経験を通じて得る理とは

もちろん書物を通じて得る知識・情報には偏りがある。実際に体験し感じないと得られないものもあるだろう。
学(知識・学問)と術(感性・感覚)の間を自在に往来できるようになることが、鍼灸師にとって必要な学び方だとも考えている。
知識や学問は有形であり、感性や感覚といったものは無形のものである。表現を変えれば主観(無形)と客観(有形)であろうか。

昨今は伝統鍼灸というものは主観に依るものとして批判される向きもある。
しかし我々が伝統医学を学ぶ意義は、客観的な価値観に染まることでもない。伝統医学を博く学ぶことで道理に至ること。そして、学び得た理によって主観と客観を自在に行き来することに意義がある。

両者の間を自在に逍遥することの鍵となるのが、理であり直観であるといえるだろう。

まさに『鍼道秘訣集』にある道歌「挽かぬ弓 放ぬ矢にて射日は 中ず しかもはづさざりけり」にて伝えんとする解の一つであろう。

鍼道五経会 足立繁久

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