ランナーの本分は走ること、鍼灸師の本性は…?

鍼道五経会の足立です。

最近、毎朝走るようにしています。
といっても、たかだか3~4キロの距離ですが…。といっても走り始めてまだ2週間も経ってないですが…。
運動不足による筋力低下、アルコール等々で湿痰がたっぷり澱んだ体にはなかなか堪えます。

なぜ走ろうと思ったのか?

写真は2キロ地点にある願照寺の五重塔
いろいろときっかけはあるのですが、走る目的は次のようなこと。

「走って体力的に追い込むことで余計な頭を削る体験をしよう!」

うまく伝わらないでしょうが、おそらくイメージしやすいのはいわゆる“ランナーズ・ハイ”という状態かもしれません。
ですが、私はランナーとしての身体ができていませんので、そこまで持っていけません。

ですが「ゼーハーヒーハー」と走りながら、その時考えるのです。
『手も足も重く、思考もままならない今。この状態で、どんな鍼ができるのか?』

身体を追い込んでいくと、自分の体を取り巻く世界(間・気の幅のようなもの)が極端に狭くなります。
単純に疲労で余裕が無くなっているのですが。

東医的に言うと“衛気や陽気の幅が狭くなっていく”という感じでしょう。
これをギリギリまで削っていくとどうなるのか?そんな興味もあるのです。

般若心経の境地、脈診書にある境地

この延長上にあるのが『般若心経』でいう「無眼耳鼻舌身意」「無色声香味触法」でしょうか。

ちなみに、これに似た境地を『切脈一葦』という脈診書では次のように書いています。
「専ら心を指下に留めて言うことなかれ。観ることなかれ。聴くことなかれ。齅(嗅)することなかれ、思うことなかれ。これ脈を診するの要訣なり。」と。

なるほど、文字を読むだけではわからない境地です。
ということで『眼も耳も鼻も思考も外してしまう。そんな体験を自身にさせてみよう!』と思い走ることにしたのです。

『走らなくても、他の手段でもできるのに…』そんなご意見もあるかと思いますが(苦笑)。

走りながら思いますに(全く思考を外せてないこの矛盾…)
人の気は二層構造(もしくは三層)になっていると思います。

衛氣と営気、表現を変えると陽気と陰気です。

衛氣は営気の外側に位置し、内部を守ります。陰気に対する陽気も同様です。
この外側の気の層を、一時的に削って削っていきます。

するとどうなるだろうか?

「その人の本性が現れる」…と、そんな状態に近づくのではないだろうか?と思っています。

「人間、追いつめられるとその人の本性が出る」と一般的にも言いますし、
いわゆる修行と呼ばれるものは総じて人の本性を顕わし磨くものだと思います。

また、武術武道における千本稽古のような訓練法もそうです。
余計なものを削ぎ落し、本来の動きを浮き彫りにさせる役割もあります。

では鍼灸師の修業は?

普段の生活が修行だと思います。

「治療家としての本性を揺らぎないものに磨き上げていくか」が主題です。

他のことはすべて削ぎ落し、治療に没頭できるようになった時。
それも単なる集中力が増したというレベルではなく、
陰も陽も、さらには彼我も問わず、邪正も越えた状態…
すなわち邪正一如という言葉が理解できるのではないだろうか?と夢見る次第であります。

と、今朝の走りながら思ったことをつらつらと書いてしまいました。
(思考を外せていないことがバレてしまいますが…)

 

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP