氣血虧盈図説『博愛心鑑』上巻 その④

黄帝・岐伯・扁鵲・張仲景が経験したことのない病?

これまで苦戦しながらも痘疹医学の専門書『博愛心鑑』を紹介してきました。鍼灸業界では古典医学・伝統医学がマイナーな分野となりつつある今、天然痘(痘疹)医学ともなれば、なおさら見向きもされない領域といえるでしょう。
その上で、なぜ痘疹医学・痘瘡医学を学ぶ意義があるのか?

そもそも痘疹・痘瘡は5世紀の頃に中国に伝わった伝染病です。5世紀(400年代)となれば『内経』『難経』『傷寒論』の頃の医家たちは体験していないはずの病です。しかも痘疹(天然痘)は周期的に猛威を振るい、エンデミック(endemic)もしくはエピデミック(epidemic)を引き起こし、人々の命を奪ってきた疾患です。当然、伝統医学においても痘疹・痘瘡への対策は研究されてきました。そしてその研究の成果は、痘疹・痘瘡の専門科だけで独立するものではなく、その痘瘡医学も東洋医学の中に組み込まれてきた(もしくは、従来の伝統医学を基盤にして痘瘡医学が構築された)はずです。

なにが言いたいのか?というと、痘疹・痘瘡医学を理解することで、我々が理解していると思っている伝統医学を、別の角度から理解し直すことができるのです。

加えて天然痘を体験したことのない現代人でも、その致死率の高さもなんとなく想像がつくと思います。そしてなにより、致死性をもつ病であればこそ、生命観を学ぶ上でこの上ない教材だともいえるのです。(不謹慎な表現かもしれませんが、お詫びいたします)。


※『痘疹博愛心鑑』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

書き下し文・氣血虧盈図説

氣血虧盈図説

氣血は二五の精也。有形付受の先に始まり、以て有生長養の後に至り、五内百骸周流して息まず、日月の天を経て潮汐の海を運るが如し。同じく此れ枢機運行の停まること無し、而して少しも緩からざる也。故に人の真元も此れに籍(かり)て滋培する。一つでも礙ること有りて及ばざれば則ち諸証生ずる。信なるかな!痘毒が陰陽の偏氣に中り、氣血自ずと陰陽の正理を得ること、二者は一途に混ずると雖も、其の源を同じくして其の道を同じくせず。其の情を同じくして其の性を同じくせず。情と性、善と悪、各々分ける攸(ところ)あり。故に出さざることを得ず。人の生霊も亦た氣血の能に非ずんば、又烏(いずくんぞ)以て保全するに足らんや。且つ氣血の虧盈あること果して何の是の如くなる耶。
夫れ血は毒を載せて諸脉に奔流し、上は氣の位を犯す。是れ陰が陽を乗ずる也。陰血が盈つれば則ち陽氣は虧く、虧れば則ち交会及ばずして陰に陥る也。且つ陰には陽に乗ずる能ありて、陽に陥るの理は無し。故に氣は愈(いよいよ)虧けて血は愈(いよいよ)盈つる。
何ぞ則ち氣血自ずと咎ならん。各々其の政に失すれば則ち以て其の毒勢に当たること無し。誠とに所謂(いわゆる)、牀を剝に膚を以てする是也(※1。譬えば諸々君子と小人の相い得ざること、猶お氷炭の器を同じくすべからずに而して処(お)くが如し。則ち聖人の大化を天下に於いて行わると雖も、亦た之を如(ゆ)くに何ともすること無き也已(のみ)。是の故に虧盈の理は明かさざることあるべからず(不可不明)。陽を扶け陰を抑えるの能に非ずんば、豈に以て其の大患を捍(ふせ)ぐに足らんや!
然れども、氣血の要を治むるに、猶お大禹の治水に相山川の形勢を相(み)て、土地の高深を度するが如し。一鑿一濬(イッサクイッシュン)、地平らかに天成る。斯れを順利と為す。是を業とする者は小道と雖も、亦た観るべき者有らん。務めて須らく深く其の旨を究めて而して之を行うべし。庶(こいねがわくば)以て中和の道を全うすべし、孰(だれ)が能わざると曰わん!

※1:剝牀以膚;六十四卦の山地剝の四爻爻辞にある。

太極図でみる氣血虧盈と痘疹

冒頭に登場する「二五の精」とは宋代の周敦頤の『太極図説』に登場する言葉です。この周敦頤の「太極図」はよく知られ、医書にもしばしば引用されています。よく知られているものでは明代の『医旨緒余』(孫一奎 著)にも引用されていますね。

本章においても前半部の内容は、陰陽消長・陰陽互根・陰陽対立の法則を用いて、人の生命、氣血の営み、そしてその氣血に混入する痘毒の機序を解き明かそうとの試みがなされています。

陰陽氣血と痘毒の病理関係をひも解く

「血は毒を載せて諸脈に奔流し、上は氣の位を犯す。」との文は、それまで抽象的・概念的であった話から一転して、具体的なイメージができる表現に変わります。
痘毒は血分に潜伏しながら、全身に行きわたります。痘疹が全身的に発する様をみて、一ヶ所に潜伏する毒では説明がつかないと判断したためでしょう。この辺りの痘毒観が、下巻「弁胎血致毒」に紹介される魏氏の痘毒観に影響しているのでしょう。

全身に及ぶ痘疹症状から、その痘毒の居場所は全身に分布する要素である氣血に魏氏は託しました。また、痘疹の病情・病性の重さからみて、どう考えても氣分のような軽症ではない。故に「血載毒」という表現に至ったのでしょう。
痘疹の発症機序をシンプルに言い換えると、血中(陰)に潜伏する痘毒が皮膚(氣位)に発出する病です。この様を陰(血中毒)が陽(氣位)に乗ずると表現しています。本文では「夫れ血は毒を載せて諸脉に奔流し、上は氣の位を犯す。これ陰が陽を乗ずる也」にあたります。

人体の発生と遺毒の制御には極めて絶妙な配剤がなされる

しかし痘疹という病はそんな簡単なものではありません。
「陰血が盈つれば則ち陽氣は虧く、虧れば則ち交会及ばずして陰に陥る也。」とありますが、ここでは陰陽氣血の虧盈と交会が重要となります。

陰陽相対の観点でみれば、陰血が盈すれば反対に氣は虧けます。単純な陰陽関係・陰陽消長にみえますが、そうではありません。こと人の発生という“造化”の過程においては、陰陽氣血が盈虧を繰り返しながら人体を形成していきます。ここには“絶妙な”生命誕生の困難さが隠れているのです。

簡単に言いますと、理論上の陰陽消長・氣血盈虧を繰り返すだけでは、それほど困難ではありません。(これも十分絶妙な配合・バランスだと思いますが)萬物はこの陰陽消長・陰陽互根・陰陽対立の理に従って生長化収藏を行うのです。しかし人の生のサイクルにはさらに“病”という要素が加えてみる必要があります。
これが魏直先生の提唱する氣血盈虧の説のキモであります。
人の造化において、氣血の盈虧の波に乗せて人体を形成するというプロセスだけでみても、これは相当に絶妙なバランスを要するものです。しかしここに先天遺毒、すなわち痘毒という存在を加えて考える必要があります。端的にいうと、人の生命は純粋培養で作られたものではないということですね。(魏直の本旨から外れるかな?)
「痘毒」という存在を制御しつつ、それと同時進行で絶妙な氣血盈虧の波を起こしつつ人体形成を行うのです。これを絶妙と言わずして何と言い表しましょう!

おっと、話が逸れてしまいました。
「陰血が盈つれば則ち陽氣は虧く、虧れば則ち交会及ばずして陰に陥る也。」の解釈ですが、この文は「陰血の勢いが強すぎると、その勢いに負けて陽・氣の力を発揮することができず、氣血交会が上手く成されずに、痘毒を制御することができずに陰に陥る」と読むことができるでしょう。

氣血の盈虧・交会・制毒を陰陽の理で表す

「陰には陽に乗ずる能ありて、陽に陥るの理は無し。」この言葉も一見すると、違和感を覚える言葉です。
陰陽互根という視点でみれば「陰は陽に乗ずる能力があるし、陰が陽に陥いることもある」のではないか?とも思えるでしょう。無形の陰陽であれば、それは十分可能だと思います。

しかしこれが有形の氣血という単位に変換すると少し事情が変わり、単純な陰陽理論としては通用しにくい事態となるのです。これを氣血虧盈と痘毒の関係を表現すると「血中邪毒は氣位に乗ずることはある」しかし「有形の血が無形の氣中に陥る・侵入することはない」と表現できます。それ故に「氣は愈(いよいよ)虧け、血は愈(いよいよ)盈つる。」という氣血バランスの不和が生じる要因とその流れを説いています。

本来であれば、氣と血は絶妙のバランスの元に互いに助け合いながらも消長を繰り返して、益するものです。しかし、その絶妙なバランスを崩すホンのちょっとの要素(痘毒)のために、一転して両者の発展的な関係が崩れ落ちていきます。この様を剝卦の四爻爻辞「剝牀以膚」を借りて言い表わしているのだと考えます。

それ故に「虧盈の理は明かさなければならない!」との言葉で強く訴えています。
具体的には「陽を扶け陰を抑える」、すなわち血中痘毒を制する氣を扶けなければ、痘疹という大患をふせぐことができないと魏氏は言います。この話は「氣血交会不足」「保元済会」の章に繋がるのです。

以下に太極図の文を引用しておきます。

無極而太極、太極動而生陽。無極而靜、靜而生陰、靜極復動。一動一靜、互爲其根。分陰分陽、兩儀立焉。陽變陰合。而生水火木金土。五氣順布、四時行焉。五行一陰陽也。陰陽一太極也。太極本無極也。五行之生也。各一其性、無極之眞、二五之精、妙合而凝。乾道成男、坤道成女。二氣交感、化生萬物、萬物生生、而變化無窮焉。惟人也、得其秀而最靈、形既生矣。神發知矣。五性感動、而善惡分。萬事出矣。聖人定之、以中正仁義。聖人之道、仁義中正而已矣。而主靜、無欲故靜。立人極焉。故聖人與天地合其徳。日月合其明、四時合其序。鬼神合其吉凶、君子脩之吉、小人悖之凶。故曰、立天之道、曰陰與陽。立地之道。曰柔與剛。立人之道、曰仁與義。又曰、原始反終、故知生死之説。大哉易也、斯其至矣。

 

氣血虧盈図 ≪ 氣血虧盈図説 ≫ 氣血交会不足図

鍼道五経会 足立繁久

原文 『博愛心鑑』氣血虧盈圖

■原文 『博愛心鑑』 氣血虧盈圖説

氣血者二五之精也。始於有形付受之先、以至於有生長養之後、五内百骸周流不息、如日月之經天潮汐之運海同此樞機運行無停而不少緩也。故人之眞元籍此而滋培。一有礙而不及則諸證生焉。信乎痘毒中乎陰陽之偏氣、氣血自得陰陽之正理。二者雖混于一途、同其源而不同其道。同其情而不同其性。情性善惡各有攸分。故不得不出、人之生靈亦非氣血之能、又烏足以保全哉。且氣血之有虧盈果何而如是耶。夫血載毒奔流諸脉、上犯氣位、是陰乗陽也。陰血盈則陽氣虧、虧則交會不及而陷於陰也。且陰有乗陽之能、而無陷陽之理。故氣愈虧而血愈盈矣。何則氣血自咎。各失其政則無以當其毒勢、誠所謂剝牀以膚是也。譬諸君子小人之不相得、猶氷炭不可同器而處。雖則聖人大化行於天下、亦無如之何也已。是故虧盈之理不可不明。非扶陽抑陰之能豈足以捍其大患哉。然治氣血之要、猶大禹治水相山川之形勢度土地之高㴱。一鑿一濬、地平天成。斯爲順利。業是者雖小道亦有可觀者焉。務須㴱究其旨而行之。庶可以全中和之道、孰曰不能。

 

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