脈診の基準は50拍?

鍼道五経会の足立です。

 「東洋医学には数字の概念が重要である」
師 馬場先生の言葉より

五十という数字は素問、霊枢、難経において重要な数字のひとつです。

なぜ脈診の基準に五十至を提唱したのか?

『霊枢』根結第五では次のような記述があります。

「いわゆる五十営とは、五藏みな気を受ける。その脈口を持ち、その至を数えるのである。
五十動にして一代もしない者は五臓が皆(みな)気を受けている。
四十動で一代する者は一臓に気無しという。
三十動に一代する者は二臓に気無し…」


『霊枢』(日本内経医学会さん発行)から引用させていただきました。

また難経十一難にも同様の記述があります。

 …経に言う脈五十動に満たずして一止するは一藏に気無し、これはどの藏のことなのか?
然り、人の呼吸で吸気は陰に随い入り、呼気は陽に因りて出る。
今、吸気に随い腎に至ること能わずして肝に至りて還る。
故に一藏に気無しは腎気が先に尽きることを知る也。


『難経集註』(日本内経医学会さん発行)から引用させていただきました。

両者には五十動と四十動の表現に違いはありますが、どちらも同じことを言っています。臓の気が尽きているかどうか?を脈数五十動(50拍)で診ているのだと。

臓気の尽不尽をみるための五十至

なるほど、経脈の大本、臓気の有無を診るために五十至までしっかり脈を診ることが大事なのですね。

『傷寒論』序文で「按寸不及尺、握手不及足、人迎趺陽、三部不参、動数発息、不満五十…」と脈診について戒めていた理由のひとつがこれにあたるのでしょう。

臓気(≒裏気)を確認することは治療でとても重要です。その有無で治療方針が大きく変わるからです。

この点、「脈の有力無力」や「脈の根」「押し切れの脈」を診ることにも通じるものがありますね。

脈を五十回 数えれば良いというわけではない

五十至を診るとなると脈を診る時間がある程度必要となります。

脈を入念に診るということは、患者さんの気に関わることでもあります。もし術者が未熟だと診られる患者さんに負担を強いる可能性があるので注意が必要です。

特に「臓気が尽きるか否か?」という状態にある患者さんに対して、荒々しく雑に脈を診続けるのは治療とは真逆の行為です。よくよく注意する必要がありますね。

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