『切脈一葦』中巻 脈状その2

昨年夏から更新が止まっていた『切脈一葦』シリーズ。2020年は早めの更新を心がけます。
『切脈一葦』(中莖暘谷 著)第8回は中巻その2です。
脈状が主テーマである中巻ですが、その内容に目を通すと、中莖氏が説く脈状論が特殊であることが分かります。

さらによく読むと論理的な思考の持ち主であることも分かってきます。この点、私は『切脈一葦』を推す理由でもあります。
ということで、中莖氏の脈状論の続編を以下に紹介します。

『切脈一葦』これまでの内容

1、序文
2、総目
3、脈位
4、反関
5、平脈
6、胃氣
7、脈状その1

本当に大切なものは脈状なのだろうか?

脈状の続きは弦脈、緊脈、革脈、牢脈、そして弾石脈です。
前回紹介した中巻 脈状①と同様、弦・緊・革・牢・弾石といった脈状を同カテゴリーに分類していることに個人的にセンスを感じます。もちろん賛否両論あるのでしょうけど…。
では本文を読んでいきましょう。

※『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。

弦 緊 革 牢 弾石

弦は弓弦の如く力ある脈を云う。実脈の力を形容したる者なり。
滑と同類にして、滑は形を主とし、弦は力を主とするのみ。
その実は一なり。

また緊と同類にして、少し異なり。弦は太くして力あり。緊は細くして力あるの別なり。
箏弦の如く、長くして指を過ぎて力ある者を弦と為る説あり。
一條にしてこれを按せども移らず。これを挙げれば手に応じて端直なる者を弦とする説(※1)あり。これみな弦の字を論ずるのみ。
固(もと)よりこの如く脈状あることなし。

又、脈の来たること糸を二筋引くが如き者を双弦と名づける説あり。
これは陰脈弦の句を誤りて解したる者なり。
陰証脈弦と云うことにて、陰証に陽脈を見わす者を云うなり。

緊は細くして力ある脈を云う。緩の反対なり。
緩はゆるまりて和らかなるの形容なり。緊はしまりて堅くして力あるの形容なり。
傷寒論に緊を以て傷寒の脈とす。浮緊は太陽の脈なり。沈緊は太陰の脈なり。
緊去りて緩と為る者は寒邪解するの候なり。緊去らざる者は寒邪解せざるの候なり。

又、痛む所ありて痛み劇しき者、緊脈を見わすことあり。
数にして縄を切る状の如き者を緊とする説あり。転索の常無きが如き者を緊とする説あり。これ何の脈状なるや?
痴人の夢を説くよりも甚し。この説は緊の字を論ずるにも非ず。
又、何故にこの如きの脈状を緊と名づけることを知らず。この説を出す人は、医事を何と心得ているや!?誠に医門の罪人にして言下に人を殺すこと少なからず。
一説に金匱要略の「脈緊にして転索常無きが如くなる者は宿食あり(※2)」の語を引いて、脈緊にして腹状索を転ずるが如く常なき者は宿食あるの候なりと云いて、転索無常は緊脈の事に非ざることを辨じたる説ある。頗る卓見なり。

革は弦と同類にして力ある脈の形容なり。必ず浮弦にして力なき脈とすること勿(なか)れ。
金匱要略に「婦人の半産漏下、男子の亡血失精(※3)」の候とすることを以て考えるときは、浮而弦の脈の形容に用いる者なり。
後世の人、この論を見て革を虚脈とすることは誤りなり。虚証にこの脈を見(あら)わすは即ち精氣脱して実脈を見わす者なり。

牢は緊と同類にして力ある脈の形容なり。必ず沈弦の脈とすること勿れ。
傷寒の脈を牢堅と形容したるを以て考えるときは緊脈の形容字に用いたる者なり。
鼓皮を按ずるが如きものを革とする説あり。禁囚の如く深く居て実大なる者を牢とする説あり。これみな字義を論ずる者にして、脈を論ずる者に非ず。
凡そ脈の形容は浮にして弦(浮而弦)と云う。浮虚にして濇(浮虚而濇)と云うが如く二三字を以て形容するときは、華牢などの文字を用いずと雖も脈を論ずるに足らざることなし。然るを文園の徒が文章を巧みに書かんが為に珍しき文字を用いて形容したる者なり。
後世の医、これを辨ぜず。その形容する文字を一字一字に分けてみな脈の名と為りて、その脈状を細かに論じ分けたる者なり。故にその論ずる所を見るときはその脈状一字一字に明白なりと雖も固より紙上の空論にして実事に非ざれば病人の脈を診するに至りてその脈状を一字一字に診し分かつこと能わざるなり。
これみな脈の一診を以て万病を診し別かたんと欲する誤りなり。

弾石は指にて石を弾くが如く、堅くして指を弾く力の強き脈を云う。これ即ち弦脈の極みにして七死の脈の一なり。

※1:傷寒論 辨脉法に「九、…弦者状如弓弦、按之不移也。…」
素問 玉機真蔵論に 「…故其氣来耎弱軽虚而滑、端直以長、故曰弦。」とある。
※2:金匱要略 腹満寒疝宿食病に「脈緊如転索無常者、有宿食也」とある。
※3:金匱要略 血痹虚労病に「脈弦而大、弦則為減、大則為芤、減則為寒、芤則為虚、虚寒相搏、此名為革。婦人則半産漏下、男子則亡血失精」とある。

「痴人の夢を説くよりも甚し」…と、なかなか手厳しい表現が出てきました。ノッてきたのしょうか。

と、茶化すのはおいておいて、中莖氏は「これ弦の字を論じるのみ」「この説は緊の字を論ずるにも非ず(論ずる以前の問題である)」「これみな字義を論ずる者にして、脈を論ずる者に非ず」と、強気ながら素晴らしいことを言っております。

脈診を勉強していくと、まず脈状という壁にぶつかります。

脈状とは文字通り、脈の状態です。それを他者に伝えるには、物の譬えに形容し表現するしかないのですね。
「弦脈は弓の弦のような脈状」
「滑脈はお盆の上を珠が転がるような脈状」
「渋脈(濇脈)は竹を小刀で削るような脈状」
こんなたとえ話がよく知られていますね。

でも、これはあくまでも比喩です。
極論でいうと、この比喩表現を言った当の本人にしかわかりません。それでも分かりたければ、その人に就いてかなり近しい感性を会得するしかないでしょうね。昔の徒弟制度は上手くできているのです。
しかし、現代日本のように本を読んで、感性も文化・経験も異なる人が文字づらだけ読んで分かった気になるというのが可笑しな話なのです。

そしてもっと重要なのは、別に脈状が分からなくても良いのです。我々が現場で分かりたいのは脈状の向こう側、つまり体質です。
●●のような体質があるから▪▪のような脈状が現れている。
この段落の話でいうと「激しい痛みがあるから緊脉を呈する」といった脈状と体質の因果関係が分かればよいのです。
脈状に名前を付けるのはさほど重要なことではありません…と、個人的には常々考えております。

本段の主張とはいささかズレますが、中莖氏の「医事を何と心得るか!?」という魂の叫びには共感する次第です。

実 長

実は陽証の脈の統名にして実を云う一種の脈状あるに非ず。
洪滑の類、惣て力ある脈を云うなり。
浮は実脈の位を云うなり。滑は実脈の体を云うなり。洪は実脈の形容を云うなり。数は実脈の数を云うなり。弦は実脈の力を云うなり。長は実脈の情を云うなり。

実証にして実脈を見わす者は論あることなし。虚証にして実脈を見わす者は真仮の別あり。
精氣脱して脈実する者は仮に実脈を見わす者にして極虚の候なり。
病毒に痞塞せられて仮に虚証を見わして脈実する者は真の実脈なり。全証を参考して脈の真仮を辨ずべし。

指を挙げて余りあり。これを按じて乏しからず。浮中沈みな力ある者を実とする説あり。
これ実は陽脈の統名にして、その脈状一ならざることを知らざるの誤りなり。
実脈は実の一字にてその義分明なり。もしこれを形容せんと欲するときは洪滑弦数などの形容字あり。
何ぞ別に実脈を論ずること有らんや。この説の如きは実脈の形容に害なしと雖も洪滑の形容と同じくして、その別を辨じ難し。
また沈実と二字用いるときは指を挙げて余りありの解、不用なり。

長は陽証の脈の舒暢なる情を形容したる者にて、長と云う一種の脈状あるに非らず。
唯 実は力を主とし、長は情を主とするのみ。その実は一にして滑脈を指すなり。
長竿を循るが如き者を長とする説あり。縄を引くが如き者を長とする説あり。三指の外に溢れ出る者を長とする説あり。これみな長の字義を論ずるのみ。脈を診する人の説に非ざるなり。

脈の位、脈の体、脈の形容、脈の数、脈の力、脈の情と区分しているのが卓見です。

私も脈診を指導する際には脈診を脈位(脈形)、脈力、脈状、脈数、脈機と5つに分類して教えるようにしています。
去年の記事に『脈診の三要素』という記事を挙げていますが、これはちょっと古い情報です。
ですが、内容そのものは変わっていないので、宜しければ参考にしてみてください『脈診の三要素』はコチラ

また「病毒に痞塞されて仮の虚証をあらわす」との記述がありますが、これは中莖氏が『切脈一葦』で伝えたい病理のひとつであります。
以下の内容を読むと、中莖氏が伝えたかった事が自ずとわかるかと思います。
この病理は臨床上しばしば見受けられる現象ですね。詳しくは下巻の時に紹介しましょう。

沈 伏

沈は沈みたる脈を云う。
病、裏に在るの候なり。沈にして力ある者は裏実なり。沈にして力なき者は裏虚なり。
表証にして脈沈微なる者は太陰の脈なり。
寒邪に閉じられて沈緊の脈を見わす者は太陽の脈なり。
又、病毒に閉塞せられて沈脈を見わす者あり。
雑病の沈脈は裏証に限らず全証を参考して表裏を決断すべし。

伏は沈み伏して有るが如く無きが如き脈を云う。
劇しき者は絶えて見(あら)われざる者なり。全証を参考して伏と絶とを決断すべし。
卒病にして脈の伏する者は病毒に痞塞せられて伏したる者なり。故にその気を調うときは脈自ら出ることあり。
久病にして脈の伏したる者は陽氣の絶したる者にして、その脈決して再び出ることなし。

個人的な意見ですが、沈脈、浮脉は脈位と脈状を混同して話されていることが多いように思われます。
本段における沈脈の文章でも、脈位として沈脈もあり、脈状としての沈脈もあるように読み取れます。
しっかり読み、考え、実践で検証し続けることが大事です。

また本段でも「病毒に痞塞されて●脈が現れる」が出てきましたね。脈と証をどのように整合性を持たせるか?が診断の腕の見せ所なのです。

濇 魚翔 釜沸

濇(澀と同じ)
濇は微弱にして粒粒分明ならざる脈を云う。一に澀(渋)と云い、虚脈の体なり。
浮濇は表虚なり。沈濇は裏虚なり。
又、病毒に痞塞せられて濇脈を見わす者あり。全証を参考すべし。
細にして遅く、往来難しくして且つ散じ、或いは一止して復た来たる者を濇とする説あり。
後人この説を潤色して、雨の沙(すな)を沾(うるお)すが如しと説く者あり。刀にて竹を刮(けず)るが如しと説く者あり。
後人、またこの説を釈して竹刀を以て竹皮を刮るときは濇る、これ往来難の意なり。
沙は聚まらざる物、雨これを沾すと雖も細かにして散ず。これ往来散ずるの意なり。
と、これみなその言巧みにして畫(か)くが如しと雖も、病人の脈を診するの時に臨みて斯くの如くにその脈状を細かに辨ずることは決して能わざる所なり。
惣じて後世の脈説、実事に害あることみなこの類なり。

魚翔は魚の止まり頭尾を動揺するが如く、ヒクヒク(ピクピク?)として流行せざる脈を云う。これ即ち濇脈の極みにして七死の脈の一なり。
釜沸は釜中の湯の沸くが如くにして流行せざる脈を云う。これまた濇脈の極みにして七死の脈の一なり。

ここでも出てきました!「このように言葉巧みに(脈状のことを)言っても、臨床でそのように細かく弁ずることはしないですよ」と。
それほどポエティックな表現をしなくてももっと大事なことがありますよ。というように私に読めます。
ポエティックと揶揄しましたが、私が『なるほど!』と理解できた詩的な脈状表現があります。

それは濇脈(渋脈)の表現。

「如病蚕食葉」という濇脈の比喩があります。
『病気のイモムシが葉っぱを食べるが如し…なるほど!これが濇脈を表わす言葉なのか!』と、ストンと腑に落ちた経験があります。

しかし、この脈状表現をみて濇脈の脈状を理解できる人はそうはいないでしょう。
私の場合、子どもの時から幾度となく昆虫観察をしてきた経験があったから理解できたのだと思います。
イモムシが葉っぱを食べる様子を即座に脳内再生できない人には「如病蚕食葉」の譬えは通じません。

同様に、竹を小刀で削る経験を持たない現代日本人に「濇脈は小刀で竹を削るような脈」といくら教えたところで通じるわけがないのです。

脈診、とくに脈状は主観的・感覚的な情報を集めて、客観的な論理にはめ込んで分析する技術です。それだけに主観と客観を冷静に行き来できることが必要となります。
これと似た条件をもつ職業にソムリエがあります(と思っています)。

脈診家は指先の感覚から得た情報を、診断治療といった客観的な形に変換して実用化しています。
ソムリエは味覚から得た主観的情報を分析し、ワインを判断し他者に勧めたりテイスティングに活かしたりします。

どちらも感覚+感性という主観的な方法で情報を集め、その情報を客観的に分析し、各々の現場に還元しています。
『たたかうソムリエ』で描かれているソムリエの分析する思考が、非常に鍼灸師の臨床的思考と共通していたことを記憶しています。
そのような理由から「ハリトヒト。の推薦図書』では『たたかうソムリエ』をお薦めしたのです。

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