死生要訣『切脈一葦』下巻より

死脈を学ぶ意義

死脈という言葉があります。
『この脈が現れるということは…死は免れない!』という死を予期させる脈のことです。

死脈とは人の生死吉凶を占う脈として重視されています。患者さんの予後を把握するという点では重要な指標といえるでしょう。
しかし、私は死脈を解する意義はそれだけではないと考えます。

死脈を理解することは、人の生を理解することに直結します。その考えから「シリーズ 死脈を考える」を書いたのです。現在、死脈を考えるは第6回で止まっていますが、まだ続きがあるので、またその内に書くとしましょう。
まずは中莖氏の死脈観を拝見しましょう。『切脈一葦』の最終章「死生要訣」です。


『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。

死生要訣

扁鵲傳に、「血脈治也而何怪(血脈治まる也、而るを何ぞ怪しまん?)※1」とは、病重しと雖も、血色動脈倶に治るときはこの病必ず生くべし。疑うことなかれと云うことなり。
血脈を以て死生を決断するの法多しと雖も、治乱の二つに出ることなし。故に血脈の治乱を以て決断するときは万病の死生を決断すべし。
血脈の流行、常度を得るときは血色動脈倶に治り、常度を失うときは血色動脈倶に乱る。これ必然の理なり。

血色乱れ動脈乱れて後に、病を発する者は必ず虚損なり。その病軽しと雖も難治に至る者多し。
病久しと雖も血色治り動脈治る者は必ず実証なり。仮令、大病と雖も難治に至る者少なし。
病久しくして後に血脈乱れ動脈乱れる者は、仮令実証なりと雖も難治なり。
血脈乱れ動脈乱れて後に大病に至る者は極虚にして司命の神と雖も如何ともすること能わざる所なり。
これ血脈を以て死生を決断する常例なり。

また病毒に痞塞せられて乱れる者あり。
虚損の極、反て治る者あり。
これは仮の治乱にして常例と同じからず。
当に全証を参考して治乱の真仮を論じ定めて、その真なる者を取りて死生を決断すべし。これ血脈を以て、死生を決断するの変例なり。
血色乱れるは血色脱する者を云うなり。動脈乱れるは結促代および七死の脈を云うなり。

傷寒論に「脈病みて人病まざる、名づけて行尸と曰う。王氣無きを以て、卒かに眩仆して死す。人病みて脈病まざる、名づけて内虚と曰う。穀神無きを以て。困ずると雖も苦むこと無し。(※2)」とは穀氣ありと雖も死脈を見わす者は死し、穀氣なしと雖も死脈を見わさざる者は死せずと云うことなり。
人病まず(人不病)は無病の類に非ず。穀氣有りて衰えざる者を云う。
人病みて(人病)は、穀氣なくして衰える者を云うなり。
脈病まず(脈不病)は平脈の謂いに非ず。條理乱れざる脈を云う。
脈病みて(脈病)は、結促代および七死の脈の類、條理乱れたる死脈を云うなり。
穀氣有りて身体衰えざる者と雖も死脈を見わす者は、脈を主る所の陽気なきを以てこれを名づけて行尸と云う。
その人必ず卒かに眩暈して仆れて死す。
又穀氣なくして身体衰えたる者と雖も死脈を見わさざる者は、唯 人身を養う所の穀氣なきのみ。これを名づけて内虚と云う。その人、仮令、身体衰えると雖も、陽気あるを以て害あることなし。これ脈と穀氣とを以て、死生を決断するの常例なり。

又、死脈を見わさざる者と雖も久しく穀氣なくして身体衰えるときは脈もまた遂に脱して死することあり。これは穀氣なきの長短を以て論ずる所なり。
惣じて病毒なくして死脈を見わす者は精氣虚脱の候なり。故に結促の類、死脈に非ざる者と雖も死脈に変ぜんと為るの兆なり。況や代および七死の脈に於いては何ぞ治すべきの理あらんや。
然れども卒病に見われる者は治することあり。
誤治に因りて見われる者は治することあり。
久病に見れる者は決して治することなし。
また病毒に痞塞せられて結促代および七死の脈を見わす者あり。これは病脈にして死脈に非ず。
当に脈を捨て証に随いて治すべし。
これ脈と穀氣とを以て死生を決断するの例なり。

留飲ある人、積聚ある人、常にこの脈を見わすことあり。これみな病毒の為す所なり。
故に危証なき者は害あることなし。卒病に見れる者もまた同じ。
危証なき者は害あることなし。

難経に「寸口脈平にして而死する者は生氣独り内に於いて絶する也。(※3)」とは、脈平にして死する者は腎間の動氣が内に絶するを以て死すると云うことなり。
腎間の動氣は父母より受けたる先天の氣にして人身の根本なり。因りてこれを生氣と云う。
平は平脈の謂いに非ず。死脈に対して死脈ならざる者を云う。
傷寒論に所謂「脈調和する者」と同じ。

腎間の動氣は呼吸を出納するの原なり。因りてこれを呼吸の門、三焦の原と云い、一に守邪の神と名づく。
呼吸腎間に出納する者はその氣必ず長じて平和なり。故に病有ることなし。仮令、病有りと雖もこの氣平和なるときは生氣を侵すこと能わず。これ守邪の神と名づける所以なり。
若しこの氣絶するときは呼吸腎間に出納すること能わずして、必ず氣急息迫する者なり。
氣急息迫は、呼吸胸膈を越えること能わざるの候なり。
痰飲少なくして、氣急息迫する者は腎間の氣絶するの候にして必死なり。
その証必ず少腹に力なくして氣胸膈に湊まり、或いは上逆、或いは欝冒して転側すること能わず。形氣にわかに脱して忽ちに死する者なり。

寸口の脈は、胃中の水穀、呼吸の化を得て成る者にして、後天の氣なり。
人身は固(もと)より先天後天の二氣相い須(もちい)て命を保つ者なり。
故に今、先天の気絶するときは後天の氣ありと雖も必ず死すること、譬えば瓶中の花の水を得て盛んなりと雖も根なきを以て必ず枯れるが如し。これ脈平にして死を決断するの例なり。
又、痰飲、気道を塞いで、氣息急迫する者あり。これは痰飲の為す所にして、腎間の氣絶する者と同じからず。故に病激しと雖も死証に非ざるなり。

素問に「形肉已に脱して九候調う者と雖も猶死するがごとし。七診見ると雖も、九候皆従う者は死せず。」とは、悪証見われても、死脈見われざる者は死せず。死脈見われずとも形肉脱する者は死すと云うなり。
この語は古人の確言と雖も分配家の潤色を歴たるを以て、意を害する所あり。故に潤色の語を改めて読むに非ざれば、古人の意を見ること能わざるなり。
九候は三部九候のことなりと雖も唯 脈と解すべし。
七診は飲食二便面色音声唇舌眼中等の診法を含めて七診とする者か。
姑(しばら)く考えべからと雖も七診見れるは、諸診倶に悪証見れると解すべし。
九候従うは、脈状が四時の気候に従うと云うことなりと雖も唯 脈調のうと解すべし。
脈調は、結促代および七死の脈の類、常度なき脈の見われざる者を云うなり。
諸診倶に悪証見われると雖も、死脈の見われざる者は死せず。死脈見われずと雖も、形肉脱する者は死す。
これ見証と脈と形肉とを以て死生を決断するの常例なり。

又、形肉脱すと雖も死脈見れざる者は死せざることあり。
これは病の時を以て決断すべし。病未だ癒えんとするの候なくして形肉脱する者は死脈見れずと雖も死す。病将に癒えんとする時に死脈見われずして形肉脱する者は死せざるなり。
又、死脈を見わさずと雖も諸診倶に悪証見われる者は死することあり。
これは病毒の有無軽重を以て決断すべし。病毒の重き者は死すべし。病毒、精氣を奪うの患あるを以てなり。病毒軽き者は治すべし。病毒、精氣を奪うの患少なきを以てなり。
病毒なき者は必ず治すべし。病毒、精氣を奪うの患なきを以てなり。
これ見証と脈と形肉とを以て死生を決断するの変例なり。

生井 眉
酒井 恒
門人     黒田 禮    同校
三田 恵
大里元瑞

天保二辛卯歳 春三月 発兌

※1;扁鵲傳「血脈治也而何怪(血脈は治まる也、而るを何ぞ怪しまん?)
この言葉は『史記』扁鵲倉公傳の「エピソード趙簡子」にみられる。
「…當に晉の昭公の時、諸大夫が彊く公族は弱く、趙簡子が大夫と為りて国事を専らとす。(その)簡子が疾して五日人を知らず(意識不明)。大夫みな懼れて、是に於いて扁鵲を召す。扁鵲入りて病を視て出づ。董安子が扁鵲に問う。扁鵲曰く、血脈治まる也。而るを何ぞ怪しまん?昔、秦穆公、嘗て此れの如く七日にして寤めん。寤めるの日、公孫支と子輿に告げて曰く、我、帝所に之きて甚だ楽しまん。…(略)…、今、主君の病、之と同じ。三日を出ずして必らず閒(癒)えん。閒(癒)れば必ず言有らん也。居ること二日半、簡子寤め、諸大夫に語りて曰く「我、帝所に之きて甚だ楽まん。百神と釣天に遊ばん…」云々。」

※2;『傷寒論』平脉法にある
「 53)師曰、脈病人不病、名曰行尸、以無王氣、卒眩仆不識人者、短命則死。人病脈不病、名曰内虚、以無穀神、雖困無苦。」とある。
脈に異常があり、形(症状としては)病がない状態、これは一見無病健康に見えて要注意であるといいます。

『無症状ならイイじゃないか!?』とも思われるかもしれませんが、この文が示しているのは脈と症の乖離です。
不病(無症状)と脈証の差が大きいという設定なのでしょう。つまりは逆証・凶証を示すのです。なによりも次の言葉「以無王氣」がそのことをよく表わしています。
故に行尸という言葉でその様子を表現しているのだと解釈します。

ちなみに、形と脈の病・不病を論じるものに『難経』二十一難があります。
「二十一難曰、経言、人 形病脈不病、曰生。脈病形不病、曰死。何謂也?
然、人 形病脈不病、非有不病者也。謂息数不應脈数也。此大法。」

この二十一難でも、脈と形(症状)の病不病で順逆吉凶を占っています。
しかし二十一難の深い点は、形と脈と息と3つの指標に言及している点です。
難経における脈診章の最後である二十一難では、脈数と息数の協調について焦点を当てているのです。非常に重要です。

一般的には遅数(脈数)によって寒熱をみると言われていますが、これは極めて表層的な脈の観かたです。
脈数から読み取るべきは寒熱ではなく、気の流行、すなわち生命の力です。故に脈数と息数が応じていないということは極めて悪証なのです。

視点を変えれば、脈と息とは陰と陽の関係でもあります。脈の世界だけの陰陽平衡に留まらず、大きな陰陽の平衡を観るという点においても非常に優れた観点であり、高位な診法であるとも言えます。
同様に大きな陰陽の協調を観るという点では、中莖氏が引用している難経八難も同様です。
難経八難の説明では、無根の花(切り花)と有根の花との比較がよく譬えに挙げられますが、それだけでは説明は不十分です。以前、私の脈診の師、馬場先生の難経講義を受け、そのことを気づかされいたく感動した記憶があります。
※3「寸口脈平而死者生氣独絶於内也。」は難経八難の文ですが、腎間動気と寸口脈、脈と呼吸はいうなれば陰陽関係にあります。この陰陽関係が破綻していれば、たとえ無病であっても(無病であるからこそ)逆証凶兆であるといえるのです。これ以上、詳しく書くことは私の仕事ではありませんので、この辺で伏しておきます。

足早にまとめに入りますが、「死生吉凶を脈で判断する」こと、これは脈診のすごいところです。
もちろん、各診法にも死の兆候を候う教えは伝えられています。
望診にも舌診にも腹診にも悪候・凶兆の教えがあります。

しかし、死脈という言葉が伝えられており、加えてそのレパートリーが多いのは脈診が唯一でしょう。
冒頭にも書いたように死脈を解することは生を解することと同義です。
死の兆候を占う脈証(死脈)が多く伝えられているということは、それだけ脈を通じて生命を観て理解しているということに通じるのです。

鍼道五経会 足立繁久

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