『切脈一葦』序文

鍼道五経会の足立です。

この度、鍼灸OSAKA 130にて【『切脈一葦』にみる分析派脈診法】という記事を寄稿させていただきました。

この『切脈一葦』という脈診書は、あまり知られていないようですが、私の中ではかなり優れた脈診理論を説いていると思います。
脈に対して非常に論理的かつ冷静な分析を基に診論を述べられているという印象を受けるのです。

とはいえ、まずは『百聞は一見に如かず』ということで、『切脈一葦』の内容を読んでいただければと思い、
まずは書き下し文を青枠にかきます。
そして私なりの意訳・注釈を付記しておきます。

下の資料ビューワーは「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」さんより引用させていただきました。

『切脈一葦』京都大学付属図書館所蔵

『切脉一葦』巻之上

切脈一葦序

脈は実事にして、脈色声形四診の一なり。その状、辨じ易からずと雖(いえど)も、指下に心を留めて診するときはその掌(たなごころ)を指すが如し。

(ただ) その辨じ難き者は脈状を全証に参考して、邪氣の緩急と精氣の虚実とを辨ずるに在るのみ。

その法、素問、霊枢、および扁鵲仲景二氏の書に備えると雖も、皆 分配家の為に真面目(しんめんぼく)を失する所多し。故に活眼を開いてこれを観るに非ざれば、その真面目を観ること能わざるなり。

晋の王叔和、これを辨すること能わず。唯(ただ)分配家の説を論じて、脈経を著わす。その書 詳らかなりと雖もただ文字を論じて脈を論ぜず。

文字を論じて脈を論ぜず…この批判の言葉は現代の私たちに通じる戒めです。
脈についての知識を増やすことはもちろん大事なのですが、何のための知識なのか?
手段が目的とならないよう戒めるべきしょう。

その言に曰く「脈理は精微にして、その体は辨じ難く、弦緊浮芤、展転し相い類す。心に在りて了し易く、指下に明にし難し。沈と謂いて伏と為すときは則ち方(まさ)に治永く乖(そむ)き、緩(脈)を以って遅(脈)と為すときは則ち危殆立ちどころに至る」と。

この「」内の文は『脈経』序文の言葉です。
脈状は似たような性状のものが多く、見分けることが困難です。頭では分かっていても指先の感覚で見分けることが難しい。沈脈と伏脈、緩脈と遅脈など似た要素を持つ脈状はあるが、それを間違ると正しい治療から離れてしまい、たちまち危険な目に遭う…と書かれています。
以下の文で書かれているのは「脈状の種類がやたら増えたことで、却って脈を診ても診察できない…という弊害を生むことになった」と書かれています。

この説出てより以来、脈を診する者、脈状を明むること能わず。その弊、遂に脈状は明じ難き大業と為すに至る。
これ医門の大厄なり。それ道は大路に如くにて知り易く行へ易し。
況んや脈は実事にして顕然たるもの。
何ぞ指を以って明じ難きの理あらんや。唯 心に在りて了し難きのみなり。弦緊、浮芤は相い類すと雖も重き脈はその状 分明にして診し易く、
唯 軽き脈のみ相い類して分明ならざる者あり。
然れども、分明ならざる者は固(もと)より相い類する者にして証異ならざれば、通じ用ゆと雖も害あることなし。伏は沈の極みなり。遅は緩の極みなり。
故に沈伏緩遅の分明ならざる者は、その証に因りて沈を伏として、緩を遅と為すと雖もまた害あることなし。
これ指を以て明にし難きに非ざる所以なり。

伏脈は沈脈の極み。遅脈は緩脈の極み。
そのため沈脈と伏脈は同じベクトル上にあるため、両者の誤差は少ないという論です。
一見、暴論に見えますが、この切は『切脈一葦』の上巻中巻下巻を通じて登場してきます。
枝葉末節に拘らず、大筋をまず理解せよ…この視点にたって脈を分析的に観ているのです。

仮令(たとえ)、沈伏緩遅 差(たが)わずと雖も、
その脈状を全証に参考するの時に当たって、もし医の心動くときはその証を決断すること能わず。

とはいえ、両者の性質が近しく、同じベクトル上にあったとしても、術者の心・精神が揺らぎ、迷いを生じてしまっては正しい決断はできません。

(いわん)や病毒に痞塞(ひそく)せられて虚脈を見わし、
虚損の極を反(かえっ)て実脈を見(あら)わす者に於いては脈状の疑似に論なく、
医の心を以て取捨して決断するに非れば、決断すること能わず。

“病毒に痞塞”
この言葉も『切脈一葦』によく登場することばです。
病毒という強い実邪の存在が正気の流れを遮断し、表面上・一過性に虚証を呈することを具体例として挙げています。

何ぞ唯 脈の一診に止まらんや。これ心に在りて了し難き所以なり。手は心を得て能く探り、足は心を得て能く踏む。
もし心、手足に在らざれば探れどもその探る所を知らず。踏めどもその踏む所を知らず。今、その探る所を知り、その踏む所を知る者は、心能くこれを明むるを以てなり。王叔和、この理を知らず。心と指とを分けて論ずること一笑に余れり。

手足は持ち主の心・精神・意識の元によく動き、探り、歩きます。
逆に手足末端にまで意識が行き届かなかったら、手足の動きはあいまいなものとなります。
ましてや脈の微細な動き・変化を探ろうと思うならなおさらのことです。
しかし、脈状の分類を複雑に分類しすぎた結果、それを把握することもままならず…。
脈を診ようにも、術者の心・意識が指先から離れ、心と指先は別々のはたらきをしてしまいます。こうなるといくら知識を増やしても迷いを深めるだけです。

又、指を以て診する法は、世に伝えて教と為すべし。心を以て了する法は、その人に非ざれば伝えること能わず。然るに今、その伝えること能わざる法を易しとし、その伝えて教えと為すべき法を難しとす。思わざるの甚しきなり。
又、その明じて難き所の脈状を書に著して、教えを世に垂れんとす。これ全く己を欺き、人を欺くの甚しきなり。
歴代の医、これを辨ずること能わず。却ってその説を潤色して脈の一診を以て、病を知るの法とす。これ古人の脈法廃して、唯 王叔和の脈法のみ、世に盛んなる所以なり。

今の脈の明らかにし難い点をわざわざ書に文字にして伝えようとしている。この過ちに自分も人も気づいていない。それどころか、さらにその説に言葉を尽くして脈診を難解なものにしようとし、本来の古(いにしえ)より伝わる脈法を棄ててしまっている。

家君嘗て曰く、凡そ脈の変態多しと雖も、その状十余種に過ぎず。
唯 これを形容する所の文字多きのみ。
王叔和の徒、これを辨ぜず。
形容する所の文字を以て、脈状の名を定めて、一字一字に註解を加えて、二、三十の脈状と為す。
これ脈学塗炭に墜ちる所以なり。
謙(中莖氏)、敏ならずと雖も、黙してこれを看過するに忍びず。
因りて切脈一葦を作ると、これ家君が文字の脈状を破りて、脈状の文字を活用するの大意なり。この書は固(もと)より大河の一葦にして、脈学を盡すこと能わずと雖も、
これを学ぶときは、古人の流れに泝(さかのぼ)るべし。
古人の流れに泝るときは、古人と異なることなし。
古人何人ぞ、今人何人ぞ。
唯 古人は志を厚くして、深くこの道を窮めるのみ。
これ今人の能わざる所に非ず。為さざる所なり。
もし今、志を厚くして深くこの道を窮める者あらば、脈を診するに臨みて何ぞ古人に譲らんや!
もし古人に譲る心有りて脈を診するときは必ず心に安んせざる所あり。
もし心に安んせざる所あるときは必ずその病を決断すること能わざるなり。

この書はそもそも脈学という大きな河に生える一本の葦のようなものである。
脈学を論じ尽くすことは不可能ではあるが、脈学を学ぶという行為により、
古人の意・志を汲み取り、それを継ぐため古の源流にまで遡ろうとする。
この姿勢においてなんら古人と変わりはない。
(いにしえ)の人は志を篤くして、この道を深く窮(きわ)めた。
今に生きる我々もまた古の人となんら違いはあろうか!?
窮められないのではない、ただ窮めようとしていないだけなのだ!
ただ志を篤く脈の道を窮めようとする者であれば、古人に譲ったり劣ることはない。
もし古人に引け目を感じて脈を診ようとすれば、
心は不安定なものとなり、正しい診断を下すことはできなくなるであろう。

故に脈を診するに臨みては、震(序文の著者)が如き浅劣の者と雖も、必ず古人と異なることなき心を以てこれを診す。況や明達の人に於いては震が古人と異なることなき心を以て診すると同じからず。
必ず古人と全く同じき者あらん。
(あに)(ただ)古人と同じきのみならんや。
必ず古人の未だ発せざる所を発する者あらん。
後生畏るべし。これ震が議する所に非ざるなり。
天保辛卯春三月十五日 男震謹みて序とする
2、総目はコチラ
3、脈位はコチラ

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