胃氣『切脈一葦』⑥

『切脈一葦』第6弾のテーマは胃の気です。

『切脈一葦』これまでの内容

1、序文
2、総目
3、脈位
4、反関
5、平脈


※『切脈一葦』京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の青枠部分が『切脈一葦』原文の書き下し文になります。
胃氣

脈は血氣流注の名なり。
血氣は胃中の水穀、肺管の陽氣を受け成る者にして則ち人身の神なり。
これを元氣と云い、一に精氣と云い、一に胃氣と云う。
その源、胃より出るを以てなり。
脈を切する者は脈を以って胃氣を診し、色を望む者は色を以て胃氣を診し、声を聴く者は声を以て胃氣を診し、形を冩す者は形を以て胃氣を診す。その診する所同じからずと雖もみな胃氣を診する所以なり。

脈を診ることも、腹診を行うのも、聞診も望診もみな胃氣、神をみているのです。(→『各診法の違いー脈診と腹診と望診ー』
この胃氣、神がなければ、いくら表面上の情報・所見がよくても凶兆なのです。
と、この話は難経八難ですでに説かれている内容ですね。

故に古の脈法は胃氣を診するを以て第一義と為るなり。
素問に「平人は常に胃に於いて氣を禀ける。胃とは平人の常の氣なり。人に胃氣無きは逆と曰う。逆なる者は死す。(※1)」と云うは脈の胃氣を論ずるなり。
無は絶えて無きの謂いに非ず。有る中に無き状を見(あらわ)すを謂う。
いわゆる生氣無くして生色無しの類これなり。
胃氣無しとは、胃の常氣無きを云う。胃の常氣無きは脈の常度無きを云うなり。

「無は絶えて無きの謂いに非ず」
「有る中に無き状をあらわす」
「胃氣無しとは、胃の常氣無きを云う、胃の常氣無きは脈の常度無きを云う…」
よくよく考えておくべき言葉です。
常氣、常度とはひとつに恒常性を意味します。生物が持つ機能のひとつです。
『素問』平人気象論の脾の脈もこのことを示していると考えます。

浮沈遅数滑濇などの脈状は平脈に非ずと雖もこれ未だ條理乱れざる者なり。
因りてこれを胃氣有りと云う。
またこれを神有りと云う。
常度あるを以ての故なり。
胃氣ある者は大病と雖も尚 生意あり。

胃氣と神についてはコチラの記事を参照のこと。
「死脈を考える・その4」
「死脈を考える・その5」

結促代および七死の脈の類はこれ條理の既に乱れたる者なり。因りてこれを氣無しと云う。
又これを神無しと云う。常度無きを以ての故なり。
いわゆる紀綱を失うと云う者これなり。
胃氣無き者は大病に非ずと雖も死候に非ず。
当に全証を参考して、胃氣の有無を決断すべし。

條理、常度、紀綱、は平脈の条件なのです。

大概 卒病は病毒に痞塞せられて仮に胃氣無きの脈を見(あらわ)す者多く、久病は精気虚脱して胃氣無きの脈を見わす者多し。
或いは平人に胃氣無きの脈を見わす者あり。
これは禀賦の変脈にして平脈と異ならず。もしその人病むときはその脈にして過不及の脈を見わすのみ。
当に平生の脈と全証とを参考して、胃氣の有無を決断すべし。
また、浮沈、遅数、滑濇の類、條理乱れざる脈と雖もその度に過ぎて、極浮極沈、極遅極数、極滑極濇なる者は條理乱れたる者と同じて、即ち胃氣無きの脈なり。
これ軽重の辨にして胃氣有る脈と為り、胃氣無き脈と為ること、以て見るべし。

平脈の特殊ケースを例に挙げ、診断の重要性を説いています。
また、後段は浮沈、遅数、滑濇とはいえ、その度を失うと中庸・中軸を失ってしまうのです。
即ち冲氣が失われ陰陽が乖離した状態だといえます。

脈は胃氣の有無を診するの法と雖も、病証軽き者は唯 浮沈遅数滑濇などの脈状を以てその証の陰陽表裏寒熱虚実を決断するのみ、胃氣の有無を論ずるには及ばず。
病証重き者に至りては浮沈遅数滑濇などの脈状と雖も胃氣の有無を診て死生を決断すべし。
況や結促代および七死の脈を見わす者に於いては詳らかに論ぜずんばあるべからず。
素問に「脾の善悪、得て見るべし乎。善なる者、得て見るべからず。悪なる者、見るべし(※2)」とはこれを謂うなり。
浮沈遅数の中に冲和の神氣ありて、疾ならず徐ならざる者を胃氣と為る説あり。
吾未だ遅数の中に疾ならず徐ならざるの脈状ある者を見ざるなり。
又、脈浮ならず沈ならず滑ならず濇ならず、手に応じて冲和なる者を胃氣と為る説あり。
これ即ち平脈なり。
脈は胃氣なりと雖も平脈を以て胃氣の脈と為るときはその平脈ならざる者は皆胃氣無きの脈と為すべきか。
もし平脈ならざる者を以て皆胃氣無きの脈と為すときは何を以て胃氣の有無を診せんや!?
それ胃氣の有無は平脈ならざる者に於いて論ずる所なり。
又、重く按じて絶えざる者を以て胃氣有りと為る説あり。
力有る者を以て、神有りと為る説ありと雖も、これは虚実二脈の論にして、俱に胃氣の有無を論ずるに足らざるなり。

脈に神有るを貴ぶ(脈貴有神)においても、同様に脈が有力か否か?を判断の基準にする説があります。
『死脈を考える・その6-陰陽不測これを神と謂う-』の記事でもこの問題について触れています。

或(る人)云う、重く按じて絶えざる者を以て胃氣ありとし、力有る者を以て神ありと為ること、古今の通説なり。
然るに今、これは虚実の論にして胃氣の有無を論ずるに足らずと云いて、結促代および七死の脈の類、條理乱れたる者を以て、胃氣無しと云う。
又、極浮極沈極遅極数極滑極濇の類は條理乱れずと雖も、その度に過ぎるを以て胃氣なしと云う。
然れば則ち力の有無を以て診すべきか、将た條理の治乱を以て診すべきか。
その説両端にして決断しい難し。全く杜撰に似たり。

単なる有力か無力で、胃氣の有無を判定するわけではありません。
また、下の段落のように條理を失うからといって無胃氣というわけでもありません。
マニュアルとして胃氣の有無を判定するのではなく、しっかりと状況を分析して真理を見極めることが大事である。
そう思わせてくれる文章です。

謙(中莖氏)曰く、重く按して絶えざる者を以て胃氣ありとし、力ある者を以て神ありと為ること
古今の通説と雖も力の軽重に因りて胃氣の脈と為り、邪氣の脈と為るの別あり。
何ぞ一概に力ある者を以て胃氣の脈と為すべけんや。
力の有無を以て胃氣の有無を論ずることは邪正一源に引く所の、素問の語を以て見るべし。
その論、邪正一源に詳らかなり。(「邪正一源」は本書下巻にある)
又、條理の治乱を以て胃氣の有無を診することは前に引く所の素問の語を以て見るべし。
又、條理の治乱と力の有無と、両説併せて診することは陳遠公(※5)の『辨證録』に
「浮沈遅数滑濇の脈に論なく、秩然として條理乱れざる者は神あるの至なり。
充然として力ある者は神あるの次なり。
微微として鼓動する者もまた神ある候なり。
條理散乱する者、或いは有り或いは無き者、或いは軽按するときは有りて重按するときは無き者、或いは時に続き時に断ずる者、或いは沈細の中に依稀の状ある者、或いは洪大の内に飄渺の形ある者は皆神なきの脈なりと云えり。」
この説、古人の奥旨得たり。実に千古の卓見なり。神なきは胃氣なきを云うなり。
充然として力ある者は極弦に非ず。
微微として鼓動する者は極微に非ず。
これ神ありとする所以なり。
依稀の状は沈微の極みなり、飄渺の形は浮大の極みなり。
これ神なしと為る所以なり。

男      楨     同校

切脈一葦巻之上 畢

※1『素問』平人気象論;平人之常気禀於胃。胃者平人之常気也。人無胃気曰逆。逆者死。

※2『素問』玉機真蔵論「脾善悪可得見乎。善者不可得見悪者可見」
※5陳遠公:陳士鐸。『石室秘録』などの著作がある。
『辨證録』はコチラ(早稲田大学図書館 古典籍データベース)

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP