難経十一難・呼吸と脈数にて臓氣を診る

難経 十一難のみどころ

本難では臓氣を診る脈診法が紹介されています。臓氣をテーマとした脈法について四難五難が記憶に残りますが、十一難ではちょっと特殊な診かたになります。

これまでの脈診の“ものさし”は脈位や脈状でしたが、今回は脈数が指標となる脈診法です。脈数五十を目安にどのように臓氣をみるのか?
十一難を読んでいきましょう。


※『難経評林』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

難経 十一難の書き下し文

書き下し文・難経十一難

十一難に曰く、経に言う、脈の五十動に満たずして一止す。一臓に氣無きは、何の臓也?
然り。
人、吸(吸気)は陰に随いて入る、呼(呼気)は陽に因りて出づる。
今、吸、腎に至ること能わず、肝に至りて還る。故に知る、一臓に氣無き者とは、腎氣が先に盡きる也。

五十は大衍の数

まず最初に目に入るのは「五十動」という言葉です。
五十といえば大衍の数です。五十という数字の意味には諸説あり、「十干・十二支・二十八宿」の和、また「北辰・両儀・日月・四時・五行・十二月・二十四気」の和という説もあるとのこと、本記事ではその詳細を省きます(詳しくは『蒼流庵随想』大衍之数五十を参照のこと)。
いずれにせよ、天地の数理と人が相応じているという思想が垣間見れる設定であり、この点においては一難七難とも共通する天人相応の観点であると思います。

脈は五十至まで診るべし

重要な数字である五十。
この天地人の氣の大きな区切りとなる五十を重視して、脈を五十至まで診るべし!という姿勢は『傷寒雑病論』にも見られます。『傷寒卒病論』の張仲景の言葉を以下に抜粋します。

『傷寒卒病論』より

……今の醫を観るに、経旨を思求して以て其の知る所を演ることを念わず、各々家技を承け、終始 舊に順ずる、疾を省りみて病を問うも、務は口給に在り。相対して斯須すれば、便ち湯薬を処する。
寸を按じて尺に及ばず、手を握りて足に及ばず。人迎、跌陽、三部を参えず、動数発息、五十に満たず。短期なれば未だ決診を知らず、九候は曽て髣髴すること無し、明堂闕庭、尽く見察せず、所謂(いわゆる)管を窺いて已む。
……

■原文……観今之醫、不念思求経旨、以演其所知、各承家技、終始順舊、省疾問病、務在口給、相對斯須、便處湯薬、按寸不及尺、握手不及足、人迎跌陽、三部不参、動数発息、不満五十、短期未知決診、九候曾無髣髴、明堂闕庭、盡不見察、所謂窺管而已。……

以上は脈診をはじめ、診察・診断に対する戒めの言葉です。
「寸を按じて尺に及ばず」、これは脈口(広義の寸口)を診て尺膚を診ないとも解釈できます。
寸口に加え、人迎、跌陽と三部を参えないというのも問題です。
寸尺の“陰陽”、そして胃氣を候う“三部”を診ることの重要性を説き、そして五十至という脈数にて“五臓”の氣を診ることを指示しています。

五十営という概念

五十営という概念があります。
二十八脈・十六丈二尺を一日(24時間・百刻)で五十周する活動のことを言います。何のために五十周回するかといえば、もちろん生命を維持するためです。
循環機能としての経脈、裏(内部)を満たし精を産生し、神を藏する臓腑を維持するために、この五十営が必須の生命活動なのです。

このように中国医学をみると『ずいぶん数字に拘わっているな~』と思う人もいるかもしれません。
しかし数字とは規則性を表わす記号であり、人体における規則性とは安定した営みを維持することでもあります。これを現代医学ではホメオスタシスといいます。
数字という記号で恒常性を示そうとした当時の内経医学はまさに医学としての姿勢や意気込みを大いに感じるのは私だけでしょうか。

さて『霊枢』根結の一節をみてみましょう。ここには十一難の本旨と共通した話が記されています。

『霊枢』根結より

……一日一夜五十営、以って五藏の精を営す。数に應ぜざる者、名を狂生と曰う。
所謂(いわゆる)五十営とは、五臓皆 氣を受けて、その脈口を持つ、その数を数うる也。
五十動にして一代せざる者、五臓皆氣を受く。
四十動にして一代する者、一臓に氣無し。
三十動にして一代する者、二臓に氣無し。
二十動にして一代する者、三臓に氣無し。
十動にして一代する者、四臓に氣無し。
十動に満たず一代する者、五臓に氣無し、これ予め短期す。
要は終始に在り、所謂五十動にして一代せざる者、以って常と為す也。以って五臓の期を知る。……

■原文……一日一夜五十營、以營五藏之精、不應数者、名曰狂生。
所謂五十營者、五藏皆受氣、持其脈口、数其至也。五十動而不一代者、五藏皆受氣。
四十動一代者、一藏無氣。
三十動一代者、二藏無氣。
二十動一代者、三藏無氣。
十動一代者、四藏無氣。
不満十動者、五藏無氣、予之短期。要在終始、所謂五十動而不一代者、以為常也。以知五藏之期。……

脈が五十至(五十動)する間、一止もせずに安定した脈数であれば五臓の氣は安定している。
しかし五十動満たず、40動代で一止する場合は一臓の氣が無い(尽きている)状態である。
同様にみて、30動代で一止する場合は、二臓の氣が尽きている状態である。
20動代で一止する場合は、三臓の氣が尽きている状態である。
10動代で一止する場合は四臓の氣が尽きている状態である。
10動以内で一止する場合は五臓の氣が尽きた状態である…と、要約すればこんな感じでしょう。

『霊枢』根結で記されているのは臓氣と脈数の関係です。十動ごとに一止するのを観測することで、一臓の無氣(氣が尽きること)を診察するというシンプルな方法です。

しかし注目すべきは、『難経』十一難では、臓氣と脈数の関係に“呼吸を介在させている点”です。

なぜ五臓の氣を診ることが可能なのか?

これは四難にある一節「呼は心と肺に出て、吸は腎と肝に入る。(呼出心與肺、吸入腎與肝)」に基づいています。臓氣と呼吸と脈は密接な関係にあるのです。
四難の記事にも書きましたが、この呼吸と五臓の関係に注目した扁鵲は秀逸であると思います。

難経系の書で十一難の註で、呼吸に触れているものに「新刊晞范句解八十一難経」があります。

『新刊晞范句解八十一難経』より

……呼吸とは陰陽相い随い、上下して五臓を経歴し力めて平人と為す。今、呼は心肺に於いて出でて吸は腎より却り肝に至ると雖も、而して竟に還り腎に至るを得ず。此れ是の腎は父母の元氣を受けるも、先ず已に耗散する。故に脈は不満五十動に満たずして一止するは、其の必ず死することを知る。

■原文……呼吸陰陽相隨、上下経歴五臓力為平人。今呼雖出於心肺而吸却至肝而還竟不得至於腎、此是腎受父母之元氣、先已耗散。故脉不満五十動而一止、知其必死。
※「今呼雖出於心肺而吸却至肝而還竟不得至於腎」のフレーズは『黄帝八十一難経纂図句解』では「今呼雖出於心腎而吸腎至肝而還竟不得至於腎」となっており、この語句も参考にさせていただいた。

(『刊晞范句解八十一難経』『黄帝八十一難経纂図句解』は『難経古注集成』東洋医学研究会 発行に収録されています)

呼吸とは陰陽相随して、上下し五臓を経歴する…とあります。これによって我々は生きていられる(平人でいられる)のです。呼氣は心肺より出るのはもちろん、吸氣は腎より却(かえ)り至り肝に至るのです。この「吸氣は腎より却り至り肝に至る」という表現は分かりやすいですね。
しかし何らかの原因で、腎に至らせることができなくなります。そうなると、元々腎は父母の精を禀る藏とはいえ、それだけでは臓気を維持することができず、消耗してしまいます。
五十至未満にして一止することはこの腎氣の絶を意味します。
…と、意訳するとこのようになります。

呼吸がなぜ五臓の氣絶にまで悪影響を及ぼすのか?
これは言うまでもなく、五十営という生命活動を安定維持することができず、綻びが生じるからです。

腎間動気は別名「呼吸の門」

また、先に腎氣が尽きるという点では「八難の腎間動氣の話と似ているじゃないか!?」としてしているのが虞庶先生です。

『難経集註』より

……虞曰く、此れ第八難の生氣独り絶するの義と、略(ほぼ)相い似たり。八難に言う父母生氣の源が已に両腎の間に絶する故に死すると云う也。此れ(十一難)に言う一臓の氣無きとは、言わば呼吸の間、肺は穀氣を行らす。腎間父母の原氣も亦た穀氣の養う所無く、原氣漸く耗すれば、乃ち四歳にして必ず死することを知る。故に云う腎氣先ず盡きる也と。

■原文……虞曰、此與第八難、生氣獨絶之義、略相似。八難言父母生氣之源已絶於両腎之間、故云死也。此言一藏無氣。言呼吸之間、肺行穀氣、腎間父母之原氣、亦無穀氣之養、原氣漸耗。乃知四歳必死。故云腎氣先盡也。

(『難経集註』は早稲田大学図書館古典籍総合データベース『王翰林集註黄帝八十一難経』をご覧ください)

呼吸の間に脾胃由来の穀氣(水穀の精微)を肺が行らすのであるが、脈一止により五十営の失調が起こる。当然、腎間原氣も穀氣の養いを受けられずに徐々に消耗していき、いずれは(四年の内に)死するのだ、これが十一難にいう一臓無氣である。・・・と、意訳に過ぎるかもしれませんが、このように解釈します。

この虞先生の註で秀逸だと思う点は、呼吸に関して言及して腎間動気の話に紐づけているところです。腎間の動気は別名を「呼吸の門」といい(難経八難)、生命と呼吸そして脈は不可分の関係にあることは言うまでもありません。

呼吸の大切さ

十一難の内容から普段からの呼吸が如何に大事であるか、改めて気づかされる難でした。

この十一難では臓氣と脈、両者に介在する存在として呼吸を挙げています。
なぜ呼吸が重要なのか?
虞先生の言葉を借りると、胃氣を他臓に運ぶ要となるからです。

また他に重要な点として、脈数の目安として五十という大衍の数を用い、人体と天地の氣の運行との協調・相応を説いています。
これは言い換えると、人体と時間との関係を示唆しています。人体の時間をさらに言い換えると、生長と老化、生と死です。
ここに呼吸と体の深奥にある藏氣とを絡めた本十一難は実に意味深いと思う次第です。

おまけ・一止する脈

蛇足かもしれませんが、一止する脈は後代になると結脈・代脈・促脈として整理されます。

『診家枢要』における結脈代脈促脈

『瀕湖脈学』における結脈代脈促脈

代脈は脾脈という点から、十一難における一止の脈・臓無氣の脈の機序としては代脈が近いのではないでしょうか。この点に関しては『瀕湖脈学』代脈「不能自還とは…」が参考になるかと思います。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 難経 十一難

■原文 難経 十一難

十一難曰、経言、脉不満五十動而一止、一臓無氣者、何臓也。
然。
人吸者隨陰入、呼者因陽出。
今吸不能至腎、至肝而還。故知一臓無氣者、腎氣先盡也。

 

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