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パッと見、意味不明な二十難
二十難を何度か読んでみましたが、その印象は『不可解…』のひと言につきます。
どこが不可解なのか?
「いずれの臓に伏匿するのか?」と問いながらも、回答では臓について何ら触れていない点がまず一点。
また本難のキーワードである「伏匿」という言葉も、どのような病態・どの程度の異常を示すのか?今一つピンときません。
「陰陽相乗相伏」「陽中の伏陰」「陰中の伏陽」といった用語も分からないことはないのですが、どこか不明瞭さを漂わせています。
最後になって「狂」「癲」「見鬼」「目盲」といった病症の登場により、ようやくシビアな病態を伝えようとしていたことが理解できます。
しかし滑伯仁はこの最後のフレーズ「重陽は狂、重陰は癲」は五十九難の錯簡ではないかと指摘しています。錯簡の真偽は分かりませんが、先哲を悩ませる内容であったことが伝わります。
以上のことから、そして脈診章のセミ・ファイナルであることからも、二十難は丁寧に読む必要があるゾ…とちょっと身構えてしまうのです。それではチョット思わせぶりな二十難について読んでいきましょう。
※『難経達言』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
難経 二十難の書き下し文
書き下し文・難経二十難
二十難に曰く、経に言う、脈に伏匿有り。何れの藏に於いて伏匿するを伏匿と言うのか?
然り。
陰陽更々(こもごも)相い乗じ、更々相伏するを謂う也。
脈、陰部に居りて反て陽脈の見れる者は、陽が陰を乗ずる也。
脈、時に沈濇にして短なると雖も、此れ陽中の伏陰と謂う也。
脈、陽部に居りて反て陰脈の見れる者は、陰が陽を乗ずる也。
脈、時に浮滑にして長なると雖も、此れ陰中の伏陽と謂う也。
重陽なる者は狂い、重陰なる者は癲す。
脱陽なる者は鬼を見、脱陰なる者は目盲す。
二十難を丁寧に読んでみよう
陰陽相乗、陰陽相伏ではないということ
“丁寧に読む”という点では岡本一抱は「“更”の字は最も切緊(重要)なり」と記しています。
更を更々(こもごも)と読ませることで「陰陽更相乗更相伏」を「陰陽が更々相い乗じ、更々相い伏する」と陰陽が互いに代わる代わる交わり出ることを伝えています。
この点において次々文の“時”の字も同じ趣意でしょう。
単に「陰陽相乗」「陰陽相伏」とは書かずに「陰陽更相乗」「陰陽更相伏」とわざわざ書いているところに注目すべし!と岡本氏は言います。なるほどです。
更相乗・更相伏はわかったが…
しかし「陰陽が互いに相乗し、互いに相伏する」と、このように表現しても『分かるようでやっぱり分からないな~…』という印象を受けます。
そもそも陰陽関係には陰陽互根・陰陽消長の要素がありますし「陰中に陽あり」「陽中に陰あり」は状態としてはむしろ自然(平)であります。
平時では陰陽は「互いに根ざす」ものであり「消長する」ものですが、異常時になると相乗・相伏となり「陽中に伏陰」「陰中に伏陽」となる。これも分かります。そして伏匿の状態となる…。
ここまでは納得できますが、それが唐突に「狂」「癲」「見鬼」「目盲」といったシビアな病態に直結させているのが納得しにくい点ですね。滑伯仁が錯簡だと言いたくなる気持ちも分かります。
陰陽相乗が激しく起こり陰陽が互いに拒み合う関格の状態なら分かります。しかし陰陽相伏ではどうでしょうか?(関格については難経三難を参照のこと)
「伏する」という言葉からは、上記のような急激かつ深刻な病症に結びつけにくいものがあります。
錯簡と主張する滑伯仁の意見を仰ぐ
では視点を変えてみましょう。滑伯仁が錯簡だと主張する五十九難にはどのようなことが書かれているでしょう。
五十九難には狂と癲についてその症状と脈について記しています。
本文から引用しますと「(狂癲)その脈は三部陰陽俱に盛ん是(これ)也。(其脉三部陰陽俱盛是也)」とあります。
滑伯仁は『難経本義』にて「其の脈三部陰陽ともに盛んなるは、陽に於いて発するを狂と為すは則ち陽脈俱に盛ん。陰に於いて発するを癲と為すは則ち陰脈俱に盛ん也。(其脉三部陰陽俱盛者、謂發於陽為狂、則陽脉俱盛。發於陰為癲、則陰脉俱盛也)」と記しています。
つまり狂・癲の脈において、その陰陽を明確に区分しているのです。
なるほど、この二十難にある「重陽は狂、重陰は癲」とある通りです。
滑氏の錯簡説の是非
ここで寄り道ですが、滑氏の錯簡説について私見を述べておきます。錯簡説には一つ問題があると思います。
滑伯仁はこの「重陽は狂、重陰は癲」は本来五十九難にあるべき文だとしていますが、となると脱陽・脱陰に関する情報が五十九難では不足してしまいます。狂・癲と同様にその症状鑑別および脈証は記載しておいてほしい所です。
しかし、二十難の本文として(錯簡ではないとして)読むと、重陽・重陰から脱陰・脱陽の流れとしてスムーズに読むことができます。
二十難の本旨をまじめに考える
さて、そろそろ二十難の本旨に戻りましょう。
二十難では陰陽を基軸に更相乗・更相伏を説いています。これらは関格とは異なりますし、単なる相乗や相剋とも異なることを本難では主張しています。
では更症状・更相伏から、どのようにして重陽・重陰や脱陽・脱陰の病態へと発展するのでしょうか。
セオリーとしては、まず陰陽相乗が起こります。もしこれが五行であれば相剋(相勝)や相侮をはじめ五邪の病伝パターンが起こっていることでしょう。
本難では五行(五臓)ではなく、陰陽に限定しています。陰陽に限定するということは、一つシビアな局面であることを暗に示唆していると考えます。
臓に伏匿するのか?臓 or 藏
陰陽更相乗更相伏に戻りましょう。
陰陽が互いに乗じ、互いに伏する…これはまだ仕込みの段階ですね。
「仕込み」を考えるとなると「藏」についても考える必要があります。
冒頭文では「何れの臓に於いて伏匿するを伏匿と言うのか?(伏匿於何藏而言伏匿耶)」とありますが、本難は陰陽を基準に展開していますので、五臓(五行)に拡げて読むのは得策ではないと思われます。ですので「臓」として読まずに「藏・蔵」として読み「何処(いずこ)に蔵するを伏匿と言うか?」と解釈した方が良いかもしれない…と思います。
意訳すると「陰陽の何れが陰陽の何処に伏匿することを伏匿の脈というのか?」と読むと、後文の内容に繋がりやすいと思われます。
それでは仕込みの脈についてみてみましょう。
二十難の脈状・六脈
本文には「脈、時に沈濇にして短」そして「脈、時に浮滑にして長」と記されています。この脈証をそのまま読んでも今一つピンとこないものがあります。
浮沈・滑濇・長短と脈名が列挙されていますが、これらは脈状として読むのではなく、陰陽を示す単位として読むと良いでしょう。これは難経四難の六脈と同じみかたです。
虞庶先生の記述に「寸口を陽と曰う。今、重ねて陽脈が三倍以上見(あらわ)われる故に重陽と曰う。(寸口曰陽、今重見陽脈三倍以上、故曰重陽)」とあります。
この言葉からも上記六脈を陰脈・陽脈の単位として診ている意図が感じられます。
二十難では、脈位と脈の陰陽によって陰陽の相伏を診ることを本旨としています。
脈位とは陰部(沈・尺・内)、陽部(浮・寸・外)であり、脈の陰陽とは上記六脈であることは言うまでもありません。
その上で二十難のセオリーを見直してみましょう。
相伏から重陽重陰・脱陽脱陰まで
この難のストーリーは、相伏を出発点として、陽中伏陰・陰中伏陽という仕込みを経て、重陽・重陰、そして脱陽・脱陰の病態に発展します。
例えば重陽へと至るプロセスを想定してみましょう。
まず陰中伏陽からスタートします。
脈では陰部である尺中に強い陽の性が潜みます(伏陽)。この伏陽が病的に熟成することで、陰部が陽邪に乗じられます。陽乗陰の段階です。しかし陽乗陰の段階で食い止めることができず、陰部・陰位における陰陽の交流が阻害される段階まで病が発展すると重陽となります。
このとき尺中脈は陽脈で塗りつぶされます。そして寸口脈は当然ながら陽脈ですので、寸尺は陽脈で埋め尽くされることとなり陰陽(尺寸)三部俱陽盛となるのです。
同様に重陰は陽中伏陰からスタートします。陽部の脈(寸口部)に強い陰の性が潜みます。それが病的に熟成することで、陽部が陰邪に乗じられます。さらに陽部における陰陽の交流が阻害される段階までくると重陰です。このとき脈は寸口陰脈、尺中も陰脈ですので三部寸尺俱に陰盛となります。
『難経本義』五十九難における滑伯仁の言葉を借りるならば、「狂(と為す)は則ち陽脈が俱に盛ん」であり重陽を示します。「癲(と為す)は則ち陰脈俱に盛ん也」であり重陰を示します。
さて、ここまでくれば脱陰・脱陽に至ることは容易です。重陽は脱陰に進み、重陰は脱陽に進みます。
二十難まとめ
二十難でいう「伏匿」とはかなり繊細かつ精密な分析力を要する脈法のようです。
陰中の陽、陽中の陰を触知し、それが陰中の伏陽なのか?否か?(同様に陽中の伏陰なのか?否か?)を見極めて対処し、重陽・重陰に至ることを防ぐ…というのはかなり高度な治未病であると感じます。
と、このようにみると確かに脈診章のセミファイナルにふさわしい難易度です。
鍼道五経会 足立繁久
原文 難経 二十難
■原文 難経 二十難
二十難曰、經言、脈有伏匿。伏匿於何藏而言伏匿耶。
然。
謂陰陽更相乗更相伏也。
脉居陰部而反見陽脉者、為陽乗陰也。
脉雖時沈濇而短、此謂陽中伏陰也。
脉居陽部而反見陰脉者、為陰乗陽也。
脉雖時浮滑而長、此謂陰中伏陽也。
重陽者狂、重陰者癲。
脱陽者見鬼、脱陰者目盲。