難経三十八難では三焦の特殊性を学ぶ

難経 三十八難のみどころ

本三十八難では三焦と原気との関係性が説かれている。

すなわち三十六難と三十九難ではそれぞれ命門と原気、命門と腎との関係を明示している。本三十八難では三焦と原気との関係を示している。「原気に別あり(有原氣之別)」という言葉も意味深い。
原気と直接的な関係を持つものは命門である。三焦は敢えて“原気の別”と関係性を示し、間接的に命門と三焦とが原気を通じて関係があることを示唆している。


※『難経本義』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

難経 三十八難の書き下し文

書き下し文・三十八難

三十八難に曰く、臓に唯だ五あり、腑に独り六ある者は何ぞ也?

然り。
腑に六有る所以の者、三焦を謂う也。
原氣の別有るなり。諸氣を主持す①
名有りて形無し。
その経、独り手少陽に属する。此れ外府也。
故に腑に六有りと言うなり。

異質なり!三焦の存在

臓腑の数を問うことで、三焦について問答を行っている。
肝・心・脾・肺・腎の五臓に対し、配される腑は胆・小腸・胃・大腸・膀胱の五腑である。しかし五臓六腑との言葉の通り、なぜ五腑ではなく六腑なのか?その問いに対する解が三焦である。

六つめの腑が三焦に当たるのだが、そもそもこの三焦という存在は何物なのか?
確かに「三焦は孤の腑」(『霊枢』本輸篇)とも言われ、五臓五腑には該当しないイレギュラーな存在である。それだけに六番目の腑としてノミネートされた訳であるが、それにしても三焦の存在は異質である。この矛盾ともいえる三焦の異質さに気づいた人はどれだけいるだろうか?
この三焦の異質さを深く掘り下げるのが三十八難の主旨である。

三焦については三十一難で学んだハズ…

すでに三焦については「三焦は水穀の道路」にして「気の終始する所」である、と三十一難にて学んだ。
特に「三焦は水穀の道路」の定義に従えば、三焦とは水穀に由来するエネルギー発生機関である。衛気・営気が三焦に由ることは『霊枢』営衛生会篇にても記されている。

このようにみると、本三十八難における三焦の異質さに気づくだろう。
下線部①「原気の別あるなり。諸気を主持する」とあるように、三焦は原気の別(六十六難では原気の別使)であるという。三十六難にて触れたように、原気とは腎気や腎間動気に極めて近い存在で、ほぼ同義とも言ってよい。(『難経三十六記事』「原気=腎間動気」説を唱える医家たちを参考のこと)

ここまで書くと、三焦がもつ異質とも矛盾ともいうべき二面性が理解できるだろう。
八難三十六難三十九難の論旨を踏まえて本難をみると、胃気と腎気の異なるエネルギー系統により人体は運営維持されていることが分かる。
三焦はこの異なる系統のエネルギーに関与する稀有な概念的器官である、と扁鵲は指摘している。となると疑問に思うのは、以下の点である。

①胃気と原気(≒腎気)とは三焦を介して互換性を有するのか?否か?
②もしそれが可能とすれば、どの部位(器官・装置)にて、どのように?

といったところではないだろうか?この点を理解することで『難経』の鍼治観がよりクリアなものとなるだろう。
そのためには営衛と原気、これら三気の関係を整理する必要がある。この点に関して歴代の医家たちはどのように考察したのであろうか?

原気と営衛との関係やいかに?

まずは滑伯仁先生のご意見を拝聴させていただこう。

『難経本義』(滑伯仁)

三焦は諸気を主持して原気の別使と為す者は、原気その導引に頼(よ)りて一身の中に潜行黙運して間断すること或(あ)ること無き也。……

■原文
三焦主持諸氣為原氣別使者、以原氣頼其導引潜行黙運于一身之中、無或間断也。……

上記、滑伯仁の註文からは、原気が営気衛気を絶えず引率しているようにもとれる。しかしこの説を簡単に首肯するわけにはいかない。

間断なく営衛を導引(引率)するというのであれば、もし原気が尽きた場合、その異変は寸口脈にも現われ、諸気は体を巡り運営することが不可能となる。(もちろん原気が尽きるとはそういうことなのだが)となると『難経』八難に記されている理論に背くこととなる。

ここで難経八難を振り返る

難経八難では、寸口脈が平であっても死する人がいる。その故はなにか?という問いに対して「胃気と腎間動氣(すなわち原気)」の二元的な生命維持機能について説いている。
つまり滑伯仁が言う「原気が営衛を間断なく導引する」となれば、原気が尽きたとき全てが終わるという原気一元的な生命観となってしまうのだ。人体・生命は緻密精密であるが、それと同時にしたたかでしぶとい生存機能も有している。この点に着目したのが李東垣である。

滑伯仁は「潜行黙運」と表現する

この課題を意識した上でもう一度『難経本義』をみてみよう。
滑伯仁の言葉で目を引くのは「潜行黙運」という特殊な表現である。潜行とは文字通り潜(ひそか)に行くことであり、営衛の相随とは異なるものである。「黙運」もまた然りである。
原気のみが独立して、営衛とは無関係に行くのではなく、かといって営衛相随のように互いに関係する運行でもないことを示唆している。
と、このように解釈すれば八難とも矛盾せずに原気と営衛の関係を説明することができるのではないだろうか?

滑伯仁は「警蹕」という譬えを採る

ちなみに滑伯仁は六十六難の註において「潜行黙運」とは異なる表現を採っている。

『難経本義』(滑伯仁)

……三氣を通行するとは、即ち紀氏の謂う所の下焦真元の氣を禀く、即ち原氣なり。
中焦に於いて上達して、中焦は水穀精悍の氣を受けて、化して栄衛の氣と為り、真元の氣と通行して上焦に達する也。
原を三焦の尊号と為す所以にして、止る所を輙(すなわち)原と為すことは、猶お警蹕の至る所を行在所と称するがごとき也。
五臓六腑の病有る者、皆な是に於いてこれを取る、宜なるかな。……

■原文
…通行三氣、即紀氏所謂下焦禀眞元之氣、即原氣也。
上達至於中焦。中焦受水穀精悍之氣、化為榮衛之氣、與眞元之氣通行達於上焦也。
所以原為三焦之尊號、而所止輙(すなわち)為原、猶警蹕所至、稱行在所也。
五藏六府之有病者、皆於是而取之、宜哉。

ここで記されているのは「警蹕(けいひつ)」という譬えである。
「警蹕」とは「声をかけて周りを戒め、先払いをすること。天皇の出入の時、貴人の通行の時、あるいは神事の時など、下を向いて、「おお」「しし」「おし」「おしおし」などと言ったもの。(コトバンクより)」とある。

個人的な体験であるが、三輪の大神神社の神事(鎮花祭・薬まつり)に参加した際に「オオォォォー・・・」という先払いの声を聴くことができた。このような体験を振り返ると『なるほど…』と、営衛に対し原気は“警蹕”の如く先行きとして“潜行”“黙運”するのだということも、まぁ分かるような気もする。

確かに先払いがなくても貴人の通行や神事は行われるであろう。しかし「警蹕」がなければそれは貴人や神に対する畏敬は無くなり、それはすでに神事ではない。

また“先行き”という感覚は気功を行っている人はイメージしやすいかもしれない。
気を集めたり動かしたりする際に意念を用いるが、これはこれで陰の性質をもつ氣でもある。この意によって陽性の強い、すなわち遊走性を持ち不安定な氣を導き引き集める。この陰を性質を帯びる意はある意味 “先行き”としてみることも可能であろう。
もちろん原気はこのように気軽に意にて用いるものでは無いが、イメージとしては近いものがあるだろう。

さて、以上のように考えると「諸気を主持する」ことにも通じ、また八難の内容にも沿うと言えるだろう…と思うのは私だけであろうか。

原気をいかにして診る?

となれば、寸口脈のみで腎間動気を診るには難しくなる。
原気≒腎気としてみた場合、腎気を診る寸口脈法の一つに難経五難の菽法脈診がある。「按之至骨挙指来疾者腎也」とあるように、骨に至るまで脈を按じて脈に圧をかけ、その圧を解放した際の脈力・脈状をみる診法である。

しかし基本的には寸口脈で診るのは胃気を主とした脈気であり、原気・腎間動気を診るのは別の診法が適する。
後代になると“潜行黙運する腎間動気(原気)”を診るための別の診法が考案提唱されている。が、本記事では割愛させていただく。

ちなみに「その経、独り手少陽に属する。これは外府である」との言葉。
これは単純に以上のような三焦の特殊性とは独立した存在(外の装置・外府)として手少陽三焦経がありますよ…と、特殊機能としての三焦と、通常の経脈との区別を記しているだけの文と考えている。

総括 三焦と命門

三十六難において右腎命門は6番目の臓であることを示唆し、三十八難では三焦を6番目の腑とした。
これにより暗に命門と三焦が対であることをも示唆している。

さらに「命門は原気に繋がり」(三十六難)「三焦は原気の別使である」(六十六難)として、原気を通じた命門-三焦の関係も提示している。

以上のように、三焦と命門が対をなすということは「水穀の気と原気」が、表現を変えると「胃気と腎気」が対になっているということを示唆している。

そもそも陰陽をつなぐ存在として真っ先に挙げられるのが胃気である。(『死脈を考える 4 胃の気と脈』を参照のこと)
胃気が有する陰陽を結びつなぐ働きは、土の性質そのものである。三焦の機能のひとつ「水穀の道路」がまさにそれである。
これに対し、命門は諸神精の舎る所という「火と水」をむすぶ働きを有する。

となれば、三焦-命門の両器官がもつ五行的な観点では、火-土-水の3者に介在・介入する性質を有すると考えることも可能であろう。このように火-土-水の上中下をむすぶ存在として三焦はまさにうってつけである。

以上のように概念的にも、機能的にも三焦の意義は非常に奥深いものがあるといえよう。
…と、ここまで書けば上記の疑問①②の答えも自ずと出てくると思われるので、記事末に『難経評林』『難経達言』の注釈も付記して本記事を締めるとする。

鍼道五経会 足立繁久

難経 三十七難 ≪ 難経 三十八難 ≫ 難経 三十九難

原文 難経 三十八難

■原文 難経 三十八難

三十八難曰、藏唯有五、府獨有六者何也。

然。所以府有六者謂三焦也。有原氣之別焉。主持諸氣、有名而無形、其経屬手少陽。此外府也。故言府有六焉。

以下に『難経評林』『難経達言』の三焦・原気の別使に関する論を付記しておく。

『難経評林』における三十八難の注釈では、腎間動気と原気をほぼ同義としている。
また「三焦が原気の別」なれば「腎を原気の正」としている点も、原気=腎気ともいうべき立場を採っているといえよう。

『難経評林』(王文潔)

蓋し人に腎間動氣有るは、即ち原氣也。三焦は右腎に於いて合し、原気の別使と為す。
腎は原気の正と為し、三焦は原氣の別を為す。均を見るを以て重と為す也。
分によりて言えば、吾が身の諸気を主持し、体によりて言えば則ち名有りて形無し。経によりて言えば則ち手の少陽に属し、而して心包絡の腑と為す。
惟だ外に経有りて内に形無し。此れ内腑と為さずして外腑を為す所以なり。
此れ三焦の外に在る者を以て、而して五腑の内に在るを加うる者、故に府に六有りと。

■原文
……蓋人有腎間動氣、即原氣也。三焦合於右腎、為原氣之別使焉。
腎為原氣之正、三焦為原氣之別。以見均為重也。
自分而言、主持吾身之諸氣、自體而言則有名而無形。自經而言、則属手之少陽、而為心包絡之腑。
惟外有經而内無形。此所以不為内腑而為外腑也。
以此三焦在外者、而加五腑之在内者、故言府有六焉。

『難経達言』では「相火は位を以てす」との言葉を用いて、命門・三焦を説明している。
「宗気の海と称し、その気の下は命門に於いて俱にす」との言葉は胸に積む氣=宗気は命門に繋がるとしている。
この時点で宗気と原気を同義とし、位(部位)によって宗気といい、また位によっては原気という…とのメッセージを記している。
「命門は権に当たらず別使を以て通行し、之をして諸気を主持して三焦に尊号と為す。」
この言葉からは命門はあたかも君火のような印象を受けるが、、、深くは『達言』を理解していないので、ここまでとしよう。

『難経達言』(高宮貞)

命門、腎を生じて復た心を生ず。心はその神を守りて君たり。
君は自らその明を用いず。自ら用いるときは則ちその神を失う、宮城を膻中に為(つくり)て、己れが主を立てて之を尸(つかさど
らしむ)る。
故に相火は位を以てすと曰う。
又、宗気の海と称して、その気の下は命門に於いて俱にす。
命門は亦た権に当たらず別使を以て、而して通行し、之をして諸気を主持して三焦に尊号と為す。
三焦は外より内に注ぐ、心主は内より外に達す。
陰陽なり、表裏なり。
両火にして一火と為す。一相にして両相と為す。
介賓張氏(張介賓)、難経を駁して云う、三焦の形 大嚢の若くなる者、府の中に有りて外に経を為すと謂うは、名有りて実無し。
誠に越人の一失なりと。固哉。
その賢者の言を究めて之を三復せざる也。
已に外府と曰い、又 少陽と曰う。何ぞ越人、その自ら本(もと)之有りと謂うことを記せずして、翻してその無きと為すことを称して、以て千載の一張洎(および)諸々の佗の堅白の人の笑を待つ者ならんや!?
之を内経の中に攷るに、その三焦を言う者、一に非ずして府の名に於いて因ること也。
一語にてその形に及べること無し、遺して言わざるに非ず、その言うべきに非ざるを以てなり。越人、斯くに悟りて而して亦た然りと曰う也。
命門はその火の機を含むと雖も、物を爇(や)いて成ること能わず。これを爇(や)いて焔と為す者、焉んぞ焦の名に非ざることを得ん?水穀の間に居り、その街に化府と為す、氣の府と為す、焉んぞ形有ることを得ん!?
攖寧(櫻寧生・滑伯仁)はこれを指して、その経は少陽に属して外府と為すと謂うが如く、三焦は外に経有りて内に形無し則ち亦たこの府を無何の郷に徒(うつ)す、返すべからず乎、何ぞその邈(はるかなる)矣。

■原文
命門生腎而復生心、心守其神而君。
君不自用其明。自用則失其神、為宮城於膻中、立己主而尸之。
故曰相火以位。又稱宗氣之海、其氣之下俱於命門。命門亦不當権以別使、而通行使之主持諸氣為尊號乎三焦。
三焦自外注内、心主自内達外。陰陽焉、表裏焉。両火而為一火。一相而為両相。
介賓張氏駁難経云、三焦之形若大嚢者有府乎中為経乎外、謂有名而無實。
誠越人之一失。固哉。其究賢者之言而不之三復也。
已曰外府、又曰少陽何越人不記其自謂本有之、而翻稱其為無、以待笑千載之一張洎諸其佗堅白之人者哉。
攷之内経之中、其言三焦者非一而府之因於名也。
無一語及其形非遺焉、而不言以其非乎可言。越人悟於斯而亦曰然也。
命門雖其含火之機、不能爇物而成爇之。之為焔者焉、得非焦之名。居乎水穀之間、為化府於其街、為氣之府、焉得有形。
如攖寧之指其経屬少陽而為外府謂、三焦外有経而内無形則亦徒此府無何之郷、不可返乎、何其邈矣。

 

おすすめ記事

  • Pocket
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す




Menu

HOME

TOP