難経六十五難では井栄兪経合の出入と小循環を学ぶ

難経 六十五難のみどころ

本難では井穴と合穴が主役となっている。とはいえ一見したところ六十三難の内容と重複しているようにみえる。しかし、六十三難とは明らかに異なり、強調されている内容がある。それを理解することで、井栄兪経合システムの理解につながる。

井穴・栄穴・兪穴・経穴・合穴は鍼灸治療でよく用いるが、この井栄兪経合システムをどのように理解するか鍼の運用も自ずと異なるであろう。

そのためにも井栄兪経合について記される「六十二難」「六十三難」「六十四難」本六十五難とそして「六十八難」を丁寧に読んで理解する必要がある。


※『難経或問』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。

難経 六十五難の書き下し文

書き下し文・難経六十五難

六十五難に曰く、経に言う、出づる所を井と為し、入る所を合と為す。其の法は奈何?

然り。
出づる所を井と為す、井とは東方春なり。萬物の始生。故に言う、出づる所を井と為す也。
入る所を合と為す。合とは北方冬なり。陽氣、臓に入る。故に言う、入る所を合と為す也。

方角ではなく“出入”が対となる表現、ということは…

後半文「出づる所を井と為す、井とは東方春なり。萬物の始生。故に言う、出づる所を井と為す也。」これは六十三難の内容である。しかしこの文と対になる文が本難には記されている。
「入る所を合と為す。合とは北方冬なり。陽氣、臓に入る。」である。

対とはいうものの、東方(木)に対する西方(金)の方角的な対にはなっていない。井穴(木)に対して水性を帯びる合穴を持ってきている。
六十四難のような夫婦関係の配合を横の関係とするなら、六十三難や六十五難では木火土金水のような相生関係、すなわち縦の関係を示している。

相生関係を用いて伝えんとしていることは二つ考えられる。
ひとつは母子関係である。井木・栄火・兪土・経金・合水(または井金・栄水・兪木・経火・合土)が木生火・火生土・土生金・金生水といったように各穴において五行的な繋がり・流れを意図している点である。

もうひとつは循環である。
相生関係は木火土金水とつながるが、水で終わる関係ではない。水はまた木を生じ(水生木)、また木生火と連環していく。
合水穴で氣は入るが、また井木穴に繋がるという末梢の小循環を示唆していることが、この文章から推察できる。

井栄兪経合システムは衛気を基盤とする

井栄兪経合の順序に疑問を感じた人はいないだろうか?

『経脈流注に逆流するように井栄兪経合が配されているのはなぜ?』
このような疑問である。

つまり手三陰経、足三陽経では、経脈流注と井栄兪経合の出溜注行入(もしくは出溜注過行入)が逆転しているのだ。
例えば、手太陰肺経は中焦より起こり、中府・雲門…と流れ少商に至る…という体幹部から末梢に流れるのに対して、井栄兪経合の並びは反対に末梢から中枢(肘まで)に向かっている。足三陽経も同様である。

この矛盾は衛気営気の定義を考えれば自ずと理解できる。

例えば「陽受氣於四末」(『霊枢』終始篇)という言葉がある。営衛を陰陽で分類するならば、陰が営気であり、陽が衛気である。
陽を衛気としてみると、この言葉は“陽気は四肢末端に受ける”とも読み取れる。
むろん「衛気は下焦より出づる」(『霊枢』営衛生会)も忘れてはいないが、ひとつの衛気の循環をみると、四肢末端は衛気(陽氣)に大きく影響する部位の一つである。

なにより衛気は脈外を行く氣であるため、経脈流注に制約を受けない氣である。とはいえ衛氣は衛気なりの流行法則を持つ。

このように見ると、手指・足趾の末端にある井穴は確かに氣の“出る所”であり、順に“溜り”・“注ぎ”・“行き”、そして肘膝の大関節にて“入る”ことで、営衛が合流するひとつの氣の小循環を形成している…と、文献から考察することができる。

一旦、六十三難・六十四難・六十五難をまとめると以下のようになる。

六十三難:井栄兪経合の順序「出溜注行入」と「木火土金水」を示した。(縦の関係)
六十四難:陰経と陽経の井栄兪経合における剛柔・夫婦関係を示した。(横の関係)
六十五難:井穴と合穴における「出入」を示しつつ小循環を示唆 (循環の関係)

六十三難から始まり六十五難にて完成する衛気を基盤とする井栄兪経合システムである。

とはいえ、井栄兪経合システムが「井穴と合穴の単純な出入循環」ではないことが六十五難に記されてもいる。さらに六十八難には「井栄兪経合と出流注行入」の関係が記されている。
続く「陽気が臓に入る」である。

陽気が臓に入るには…

ここで「陽氣」という言葉で氣を指定している点も注目である。陽気とは営衛でいうと衛氣に相当する。
井栄兪経合システムは衛気をベースとした小循環の要素を持つ(という可能性)は既に述べた。
「陽氣(≒衛氣)が臓に入る」というのは、合穴にて衛氣が入ることで営気と合流する必要がある。なぜなら衛気は臓腑に至ることはできない。これに関する衛氣の守備範囲は『素問』痹論篇に明記されている。

『素問』痹論篇第四十三

衛氣は水穀の悍氣なり。
その氣、剽疾滑利、脈に入ること能わざるなり。
故に皮膚の中、分肉の間を循り、肓膜を熏じ、胸膜に散ずる。

■原文
岐伯曰、衛氣者、水穀之悍氣也。其氣剽疾滑利、不能入於脈也。故循皮膚之中、分肉之間、熏於肓膜、散於胸腹。

以上のように衛気は脈に入ることはできず、脈外を行く。そして「皮膚の中、分肉の間を循り」「肓膜を熏じ」「胸膜に散ずる」のである。この範囲に臓腑はない。
この衛気の守備範囲に対し、営気の流行範囲は以下の通りである。

『素問』痹論篇第四十三

営氣は水穀の精氣なり。
五臓に於いて和し調え、六府に於いては陳を灑す。
すなわち脈に入ること能うなり。
故に脈の上下を循り、五臓を貫き、六府に絡うなり。

■原文
営者、水穀之精氣也。和調於五臓、灑陳於六府、乃能入於脈也。
故循脈上下、貫五臓、絡六府也。

営氣は「五臓を和し調え、六府の陳を灑す」「五臓を貫き、六府に絡う」とある。

六十五難にある「陽氣、臓に入る」とは、この陽氣を衛気に相当させて考えるならば、衛気は一旦営気の層に合入することで肘膝より遠位の小循環が独立したものでなく、全体と機能的に和していることを示唆している。このような衛気と営気の相関性がなければ、三十二難の営衛相随(栄衛相随)だけでは人体と衛気・栄気の関係を説明するには不十分でであると感じる。

衛気が栄気(営気)に合入する仕組みがなければ(栄衛相随のみだと)、主に衛気に働きかける鍼を行った場合、臓腑に対する影響力が少ないことになる。
遠位末端における繊細な氣の動きを理解し、さらに営気の周行に合流することで、以表治裏を行うことができると考えている。

このような衛氣タイプの鍼の仕組みを示しているのが六十五難であるといえよう。

鍼道五経会 足立繁久

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原文 難経 六十五難

■原文 難経 六十五難

六十五難曰、経言、所出為井、所入為合。其法奈何。

然。
所出為井、井者東方春也。萬物之始生。故言所出為井也。
所入為合、合者北方冬也。陽氣入藏。故言所入為合也

以下に『難経或問』の註文を付記しておく。
氣脈の流注を衛気と営気に分けていない点は本記事で述べた私見と同じではないが、人身は小乾坤すなわち小天地である、ということを六十五難の本文から帰着せしめた点が流石である。

『難経或問』六十五難

或る人問いて曰く、六十五難には謂うべきの事無きや、否や?
対て曰く、是只(これただ)経穴の始終を挙げて、氣脈の流注、井木に始まりて合水に終わることを示す。
猶お四時の運行の如し、春木に於いて始まり而して冬水に終わるの義也。
初めより別義無し。
然れども亦た見るべし、人身は天地に於いて離れず、天地も人身より違わざることを。
噫、人とは夫れ小乾坤なるかな。

■原文
或問曰、六十五難無可謂之事乎、否。
對曰、是只擧経穴之始終而示氣脉之流注。
始於井木而終於合水。
猶四時之運行、始於春木而終冬水之義也。初無別義。
然亦可見、人身不離於天地。天地不違於人身。
噫、人者夫小乾坤乎。

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