目次
難経 六十二難のみどころ
本難では五輸(五要穴)と原穴について論述されている。『なぜ陰経では原穴は兪穴と一緒なのに、陽経では原穴と兪穴は別々なのだろう?』という疑問について記されている。
この素朴な疑問に対して、歴代の医家たちの答えがまた意外なほど納得いくものが見つけられなかったのが印象的であった。
本難における原穴に関する素朴な疑問、これは当然ながら八難・三十六難・三十八難・三十九難・六十六難と総合して考察すべきである。六十二難でも三焦の特殊性を抜きにしては語れない内容となっている。となればさらに三十一難・三十二難の理解もまた必須となる。
※『難経註疏』京都大学付属図書館より引用させていただきました。
※以下に書き下し文、次いで足立のコメントと原文を紹介。
※現代文に訳さないのは経文の本意を損なう可能性があるためです。口語訳は各自の世界観でお願いします。
難経 六十二難の書き下し文
書き下し文・難経六十二難
六十二難に曰く、臓に井栄の五有り、腑には独り六有る者は、何の謂い也?
然り。
腑は陽也。三焦は諸陽を行く。故に一兪を置く。
名を原と曰う。
腑に六有る者は、亦た三焦と共に一氣なれば也。
ピンとこない問答
なぜ陽経には一兪すなわち原穴を置くのか?
この問いに対する答えとして「腑は陽である。腑に属する三焦は諸陽を行ります。だから一兪を足して原穴とします」
と、このような回答を示している。まったくもってピンとこない問答である。
さらにピンとこない問答は続く
「腑(陽経)に井栄兪経合と原穴の六穴あるのは、三焦は共に一氣なればなり」とこれもまたなんだかよく分からない回答が添えられている。このような問答のためか虞氏は鈌誤があるのではないか?と疑っており、多くの難経註釈本では虞氏の鈌誤説を採用している。
しかし忘れてはならない。鈌誤(の可能性)とはいえ陰経有五、陽経有六で陽経に原穴が多いのは事実である。
この理由は鍼灸師としては明らかにしておきたいところである。
まずは鈌誤説を唱えた虞氏の註文を一部引用してみよう。
虞庶の原穴論を確認
『難経集註』
虞氏曰く……三焦は原気を為して六腑に在り、陽脈中に自から一を立てて原と為す也。五臓を五行に配するは、肝木心火脾土肺金腎水。五臓は陰に法り原の一穴無き者は五行を謂う。陰脈の穴中に原氣が暗に之を主る。故に原は井兪と同一の穴也。故に三焦は共に一氣なり。その理明らかなり。この経義を詳らかにするには前後の問答文理に闕有らん。
■原文
虞曰……三焦為原氣在六府、陽脈中自立一為原也。五藏配五行者、肝木心火脾土肺金腎水、五藏法陰無原一穴者謂五行。陰脈穴中原氣暗主之。故原井兪同一穴也。故三焦共一氣。其理明矣。詳此経義前後問答文理有闕。
たしかに闕(鈌誤)を指摘しているが、それなりに解説も残してくれている。五臓(陰経)に原穴が加えられないのは五行に法っているからだという。陰経の穴中には原気が暗に主る(行く)という。この表現は滑伯仁のいう「潜行黙運」という表現にも似ている。
しかし続く文には「原穴と井栄兪経合は同じ(原気を受ける)経穴である」という。確かにそのように解釈すると「三焦は共に一氣なり」の文言にも通ずる。しかし、ここは異議を申し立てるべきであろう。
他の要穴と原穴とは厳然とした違いがある。(『六十六難では原穴の特殊性を学ぶ』を参照のこと)
また「陰経(五臓)は五行に配されているから原穴は別に一穴加える」という説も素直には首肯できない。臓だけでなく五腑もまた五行に配されているからだ。この虞氏の論法ならば、胆小腸胃大腸膀胱の経においては兪穴と原穴は同一であるべきであり、五行から逸脱する心包経と三焦経のみが一穴加わることになる。
とはいえ、五行から逸脱した存在として三焦・命門そして原気という解釈は参考にすべき意見である。
徐霊胎の『難経』原穴論に対する否定的意見
他にもユニークな論説を遺してくれている医家に徐霊胎(徐大椿)がいる。
『難経経釈』の註文では(六十六難註になるが)、陰経・陽経における原穴の有無について『霊枢』に遡って説明されている。そもそも『霊枢』九鍼十二原では、陰経の原穴を挙げ、六腑の陽経に原穴はなかったから、という主張。以下に該当部を紹介する
『難経経釈』(徐霊胎)
(「十二経皆以兪為原者、何也?」の文に対し)按ずるに、これも又 錯中の錯なり。
『霊枢』本輸篇に五臓に井栄兪経合の有るに止める。六腑には則ち別に一原穴有り。
然るときは則ち五臓は兪を以て原と為す、
六腑は則ち腧より腧にして原より原。皆の字は何に著き至る
腧を以て原と為すの説は則ち本(もと)『霊枢』九鍼十二原篇に云う、五臓に疾有れば当にこれを十二原に取るべし。
陽中の少陰は肺なり。その原は太淵に於いて出る。太淵二穴。
陽中の太陽は心なり。その原は大陵に於いて出る。大陵二穴。
陰中の少陽は肝なり。その原は太衝に於いて出る。太衝二穴。
陰中の至陰は脾なり。その原は太白に於いて出る。太白二穴。
陰中の太陰は腎なり。その原は太谿に於いて出る。太谿二穴。
膏の原は鳩尾に於いて出る。鳩尾一穴。
肓の原は脖胦に於いて出る。脖胦一穴。
凡そこれら十二原の者は五臓六腑の疾有るを主治する者也。
則ち十二原の名、臓を指して腑を指さず。(以上の鳩尾・脖胦を含む十二穴)十二穴を共にして、十二経の原を謂うに非ざる也。
その太淵を指して太谿に至る十穴は則ち、即ち『霊枢』本輸篇の謂う所の腧穴、蓋し五臓に腧有りて原無し。
故に曰く、腧を以て原と為す、豈にこれ六腑を概すべけんや!?何ぞそれを深考せざる也。
■原文
按此又錯中之錯、靈本輸篇五藏止有井榮兪経合、六府則另有一原穴。
然則五藏以腧為原、六府則腧自腧而原自原皆字何著至以腧為原之説、
則本靈九鍼十二原篇云、五藏有疾當取之十二原。
陽中之少陰肺也。其原出於太淵。太淵二。
陽中之太陽心也。其原出於大陵。大陵二。
陰中之少陽肝也。其原出於太衝。太衝二。
陰中之至陰脾也。其原出於太白。太白二。
陰中之太陰腎也。其原出於太谿。太谿二。
膏之原出於鳩尾。鳩尾一。
肓之原出於脖胦。脖胦一。
凡此十二原者主治、五藏六府之有疾者也。
則十二原之名指藏不指府、共十二穴非謂十二経之原也。
其所指太淵至太谿十穴、則即靈本輸篇所謂腧穴、蓋五藏有腧無原。
故曰、以腧為原。豈可概之六府乎。何其弗深考也。
上記のように、五臓陰経の原穴左右十穴、鳩尾と脖胦の二穴、これを足して十二原とする。
徐霊胎は『霊枢』九鍼十二原の説を提示して、『難経』の原穴論、とくに六腑陽経の原穴の存在を否定している。
しかし『霊枢』本輸では、五臓陰経の原には触れずに、六腑陽経の井栄兪経合にさらに原を加えている。この点には大した考察を加えずに「兪を以て原と為す」の説に六腑陽経は合わないとして否定している。
『経釈』の六十六難註ではさらに原穴に対する疑問が続いて述べられている。
前述の疑義と同じく『霊枢』の記述と比較して原穴の矛盾点を指摘している。
その内容は…
『難経経釈』(徐霊胎)
三焦は原氣の別使と為すとは則ち三焦の気の在る所、即ち原気の在る所なり。
故に即ち原を以て之の名とし、病の深き者には、当に此れに取るべし也。
『霊枢』九鍼十二原篇に云う、五臓に疾有るは当にこれ十二原に取るべし。
十二原は五臓の三百六十五節の気味を禀ける所以也。この説、最も明暁なり。
『霊枢』本輸篇を按ずるに、五臓は則ち注ぐ所を以て兪と為し、兪は則ち原なり。六腑は則ち過ぎる所を以て原と為す。
並びて三焦の氣を以て為すの説無し。
蓋し各経の気の留住して深く入るの處を即ち原と為す。
故に九針篇に云う、十二原は四関に出づる。その穴は皆、筋骨転接の地に在り。
故に病も亦たここに於いて留する。
若し三焦は気を主ると云うときは則ち井栄も亦た皆な三焦の気。
何ぞ独り注ぐ所を以て名を原と為す?
況んや三焦自ら本経の道路有り。何ぞ必ずしも牽合せん。
■原文
三焦為原氣別使則三焦氣所在、即原氣所在。
故即以原名之而病之深者、當取乎此也。靈九針十二原篇云、五藏有疾當取之十二原。
十二原者、五藏之所以禀三百六十五節氣味也。説最明暁。
按靈本輸篇、五藏則以所注為腧(兪では)、腧則原也。六府則以所過為原。
竝無以三焦之氣為説。蓋各經之氣留住深入之處、即為原。
故九針篇云、十二原出四關、其穴皆在筋骨轉接之地。故病亦留於此。
若云三焦主氣、則井榮亦皆三焦之氣。何獨以所注名為原。
況三焦自有本経道路、何必牽合。
その内容は『霊枢』本輸にある兪・原の記述は「陰経の原兪は注ぐ所」であり「陽経の原は過ぎる所」である。そこに「三焦の気の行く所」との記載はないと指摘している。
しかし疑義もここまでくると、徐氏は少々ムキになりすぎではないか?と心配になるほどである。
八難・三十六難・三十八難・三十九難・六十六難を通じて、命門・三焦・原気という生命・身体の仕組みを提示しているのが『難経』の生命観である。
とくに『難経』が提示している原気-原穴の人体観は、胃気とは異なるエネルギー系統を示している。これは『難経』独自の人体観・生命観として大いに意義あることであり、その点を評価すべきと思う次第である。
故に上に紹介した徐氏の指摘「三焦は気を主るというのなら井栄兪経合もまたすべて三焦の気の関与するはずである。なぜ五臓(陰経)の兪穴だけが原穴とするのか?」も、胃気と原気の分別をした上で疑問を呈すべきであろう。この点から徐氏の原穴に対する指摘は残念に思える。
ちなみに徐霊胎は「三氣、三焦有上中下三者之氣也」と、三氣を上中下三焦の気としているが、これも肯定できない。原気・衛気・営気とすべきであろう。
さて、虞氏や徐氏の批判のような内容が続いたが、本題に戻ろう。
明らかにすべきは次の2点
さて六十二難の内容を考えるに、腑に落ちない点がふたつある。
①腑(陽経)に一兪を置く点
②三焦は共に一気なりという点
①腑(陽経)に一兪を置く理由として、本文では「三焦は諸陽を行る」を挙げているが納得しづらいものがある。また三焦は六腑に属するため諸陽経と共に一気である故に原穴を置く、これも納得のいく理由にはならない。
①②の疑問に対し、このほか歴代医家の注釈の中でも納得のいく説はあまりみられない。となれば、ここは自分で納得のいく解を考えるしかないだろう。
陽経に一兪・原穴が加わる理由とは?
陽経には一兪(原穴)を置く理由として、「陽経には一兪(原穴)を敢えて加える必要がある」と考えた方が妥当ではなかろうか。
ここで原気、原穴のスペックを整理しよう。
☞ 原気は命門に繋がる(正しくは「命門者、諸神精之所舎。原氣之所繋也。」三十六難)
☞ 原気とは臍下腎間の動氣であり、生命の根本である(六十六難)
☞ 命門の気は腎に通ずる (三十九難)
☞ 原気の別使は三焦である(三十八難・六十六難)
☞ 原とは三焦の尊号である(六十六難)
☞ その(原気の)止まる所を原穴とする(六十六難)
上記のように原穴と原気の関係を踏まえて、冷静に陽経を見つめ直すと、陽経に一兪・原穴を加えるのは当然とも考えられる。
まず腑の基本的な性質を考えてみよう。「五藏とは精氣を藏して寫ざる也。」「腑は寫して藏さず」(『素問』五臓別論より)である。「寫而不藏」の性質を持つ腑の道路・陽経に、原気を恒常的に供給するわけにはいかない。
三焦という特殊な器官の気を介してのみ、原穴を陽経に設置できるのである。三焦のスペックも整理しよう。
✓ 三焦は営衛を産生する“水穀の道路”であり、“氣の終始する所”である(三十一難)
✓ 三焦は原気の別使である(三十八難・六十六難)
✓ 三焦は諸氣を主持する(三十八難)
✓ “三気を通行を主る”という性質をもつ(六十六難)
✓ 三焦は“五臓六腑を経歴する”(六十六難)
上記の中で特に三焦の特殊性を示しているのは「水穀の道路」であり「原気の別使」であるということである。
これを言い換えれば、“水穀の気”にして“先天の気”に関わる器官であること。
もっと言い換えれば、“胃気”と“腎気”に関与する器官である。
さらにもっと言い換えれば“衛気・営気”と“原気”に関与する器官が三焦であること。
このような特殊な機能をもつ器官が、六臓六腑の中で三焦以外に存在するだろうか?
以上の性質を有する三焦であるからこそ、六十六難には「(三焦は)三氣を通行する」とあり「原とは三焦の尊号」とあるのだ。この三気(衛気・営気・原気)が共に三焦が関わることを「三焦と共に一氣なれば也。」という言葉で六十二難本文にて示している。
余談ながら、『霊枢』本輸でいう「原穴は過ぎる所」という表現、これもまた当然である。経脈とは内外ともに胃気が流行するインフラであるが、原穴は原気の留止する所である。となれば、陽経の原穴は胃気にとってはさして関係のない穴処なのである。通過するという表現も当然であろう。
寸口脈において原気の変は診ることができるのか?
「原気をいかにして診る?(三十八難記事)」にて、原気は寸口脈にて診ることは難しいと書いたが、厳密には診察可能である。
実際の臨床では、原気に介入せずとも寸口脈を調えて平脈に近づけることは可能である。
筆者の治療においては、先月までの治療がそうであった。今月に入り、営衛と原気への治療を意識して使い分けることで明らかに治療後の脈が変わることが触知できた。
もちろん「脈診=主観的な診法としてエビデンスにならない」と考える人々にとっては検証しづらいものであり、受け入れられないことではあろう。が、これまでの命門・三焦・原気・原穴の身体観そのものが、東洋医学に対して否定的な人たちにとっては受け入れられない案件であるので致し方あるまい。
さて原気・原穴を意識した鍼法についてはまた機会をみて紹介したいと思う。「三氣、三焦有上中下三者之氣也」
徐靈胎は三氣を上中下三焦の気としているが…これは肯定できない。
鍼道五経会 足立繁久
難経 六十一難 ≪ 難経 六十二難 ≫ 難経 六十三難
原文 難経 六十二難
■原文 難経 六十二難
六十二難曰、藏井榮有五、府獨有六者、何謂也。
然。
府者、陽也。三焦行於諸陽。故置一兪、名曰原。府有六者、亦與三焦共一氣也。
ここで六十二難に関する註文を記す難経系の書を以下に付記しておく。
まずは名古屋玄医の記した『難経註疏』である。名古屋玄医いわく、原穴は命門の気の留止する所であるという。
『難経註疏』(名古屋玄医)
井榮兪経合は五行に属して五つ有り。六腑には一原多し、故に腑に六有りと。
その原は命門の氣の留止する所なり。三焦とは原気の別使なり。故に共に一氣と曰う也。
■原文
井榮兪経合屬五行有五、六府多一原、故府有六。
其原者命門之氣所留止也。三焦者原氣之別使也。故曰共一氣也。
滑伯仁の書『難経本義』では、虞氏の鈌誤説を採用しており、その他の註文には注目すべき内容は記していない。滑伯仁自身も六十六難に乞うご期待と記している。
『難経本義』(滑伯仁)
臓の井栄五有りとは井栄兪経合を謂う也。
腑の井栄六有りとは、三焦は諸陽を行くを以ての故に又た一兪を置き、名づけて原と曰う。
腑に六有る所以の者は、三焦と共に一氣也。
虞氏が曰く、この篇疑くは鈌誤あらん、當に六十六難と参考すべし。
■原文
藏之井榮有五、謂井榮兪経合也。
府之井榮有六、以三焦行於諸陽故又置一兪、而名曰原
所以府有六者、與三焦共一氣也。
虞氏曰此篇疑有鈌誤、當與六十六難参攷。
『難経或問』も虞氏の鈌誤説を全面的に採用している。滑伯仁と同じく、詳細な解説は六十六難に回して本難では一切の言及を避けている。この点は逆に印象的である。
『難経或問』(古林見宜)
「或る人問うて曰く、六十二難の答辞の文義通ぜず。
虞氏以て鈌誤ありと為す。何如(いかに)?
対て曰く、虞氏の説その理を得たり。
腑に六有るは亦た三焦と共に一氣也(府有六者亦與三焦共一氣也)の十二字、文理通ぜず、必ず鈌脱有らん。
強いて解その義を解すること無くして可なり。
原穴の義を知らんと欲せば、当に六十六難に因りて看るべし。
■原文
或問、六十二難答辭文義不通、虞氏以為有鈌誤。何如。
對曰、虞氏之説得其理矣。
府有六者與三焦共一氣也。十二字文理不通、必有鈌脱、無強解於其義而可也。
欲知原穴之義、當因六十六難而看焉。
『難経達言』では「五臓の陰は命門に於いて統べる」と記しており、五臓の精と命門との密接な関係を記している。達言では言葉少なながらも、他の書にはない五臓の陰と命門との関係を示している。
『難経達言』(高宮貞)
五臓の陰、命門に於いて総ぶる、陽を六腑に行ること則ち別使に因りて各々至る。
兪餘してこの兪原の名と為り。
■原文
五藏之陰、統於命門。行陽乎六府則因別使而各至兪、餘之兪為原之名。
『難経評林』では宗気・営気・衛気との三気を三焦・上中下に対応させている。この上中下三焦の三気を如何にしてまとめるか?が、著者 王氏の課題であろう。本文を読まれたし。
『難経評林』(王文潔)
これ腑の井栄兪経合に六有りて、臓の井栄兪経合は五に止まること、同じからざるを論ずる也。
五臓各々井あり栄あり兪あり経あり合あり。即ち井栄兪経合。
これを論じて五有るのみに止む。
惟だ六腑も亦た井あり栄あり兪あり経あり合あり、又 原あり。
則ちこれ五臓の五に止まらずして、これ(原)を加えて六と為す。
腑に独り六あるは何ぞや?
六腑は陽なり。
唯だ宗気は上焦に出で、営気は中焦に出で、衛気は下焦に出づる。
三焦の氣は諸陽経の中に行る。故に六腑に一腧穴多し、これを名づけて原と曰う。
乃ち三焦の気の行く所、留止する所なり。
この原穴をして、六腑を摂治するを以て得るのみ。
所以六腑于井榮兪経合の外、又一原あるの所以。
その名、六正あり、この原と三焦は共に一氣を以て也。
非これ上中下の三焦と六腑の原、それ一氣を為すに非ず。
何ぞ必ず腑の是れ六有らんか。
■原文
此論、腑之井栄兪経合有六、與藏之井栄兪経合止有五、不同也。五臓各有井有栄有腧経有合。
即井栄兪経合論之止有五耳。
惟六腑亦有井有栄有腧有経有合。又有原則此五臓不止於五、而加之為六矣。
腑獨有六何也。
六腑者陽也、唯宗氣出於上焦、營氣出於中焦、衛氣出於下焦。
三焦之氣、行於諸陽経之中。故六腑多一腧、穴名之曰原。乃三焦之所行、氣所留止也。
使此原穴、得以攝治六腑耳。所以六腑于井栄兪経合之外、又有一原。其名有六正以此原與三焦共一氣也。
非此上中下三焦與六腑之原、其為一氣、何必腑之有是六者哉。