時代が変わると脈診書も変わるのか?
脈診書紹介シリーズ、続いては明代の『瀕湖脈学』をテーマとしましょう。
『瀕湖脈学』(1564年)は明代の李時珍による脈書です。以前にとり上げた『診家枢要』(1359年?)は元代の脈診書で、およそ200年ほどの差があります。
なぜ200年近くも時代をずらして脈診書を読む必要があるのか?
どうも『診家枢要』にはあまり主として記載されていない病理があるように感じたからです。
宋金元の時代から明代へと中国医学が変革変遷した時代であります。医学の変遷によって、診法もまた変化を見せます。この変化を脈診書を通じてみてみたいと思ったのが、このシリーズの目的に一つです。
まずは李時珍の紹介
李時珍(1518-1593年)は湖北省の生まれ。かの『本草綱目』の編纂を行ったことで有名です。この『本草綱目』はヨーロッパ諸国にも伝えられたことも知られています。
湯液を扱わない鍼灸師も目を通しておくべきです。というのも、各生薬や方剤の薬理知識は鍼灸の治法に大きく影響します。鍼灸の治療の幅が広がることに結びつきます。
李時珍は『本草綱目』の他にも本シリーズの『瀕湖脈学』そして『奇経八脈攷』も記しており、やはり鍼灸師が読んでおくべき書をいくつも遺してくれている偉人医家なのです。
※『瀕湖脈学』(『重刊本草綱目』内に収録)京都大学付属図書館より引用させていただきました
※下記の黄色枠部分が『瀕湖脈学』の書き下し文、記事末青枠内に原文を引用しています。
『瀕湖脈学』序
戴同父 常にその誤りを刊す。先考(亡父)月池翁が『四診発明』八巻を著わす。皆精しく奥室に詣(いた)る。浅学は未だ窺い造ること能わず。
時珍、因りて粹を撮り、華を擷(と)り、この書を僭撰して、以って習読に便、脈の指南と為す。
世の医家病家の両家、咸(ことごと)く脈を以って首務と為すも、脈診は乃ち四診の末なることを知らず。これを巧の者と謂う爾。上士はその全てを会んことを欲す、非四診を備えるに非ずして不可なり。明代 嘉靖甲子の歳、上元の日に 謹みて瀕湖の薖る所に書す。明代の嘉靖年間の甲子は1564年、上元の日は太陰暦1月15日のこと。
ちなみに中元は旧暦7月15日、下元は旧暦10月15日、これらの上元・中元・下元を三元の日とする。道教における祭日である。
『脈訣』をかなり意識してます?
いきなり『脈訣』の批判から始まります。短文ながらも痛烈に酷評しております。著者を俗子と称し、杜撰、鄙陋、紕繆、そして竟昧と、もう散々な評価を下しています。
『脈訣』とは宋代の『脈訣』がありますが(※後述)、おそらく『脈訣刊誤』の方のようです。
『脈訣刊誤(もしくは脈訣刊誤集解)』は、戴起宗(字 同父)の著書です。同書は『瀕湖脈学』と同じ嘉靖年間に著しており、嘉靖乙酉(1525年)や嘉靖十八年(1539年)に序があります。そして『瀕湖脈学』の刊が1564年とすれば、30~40年前の出来事なので、李時珍からするとかなり最近の出来事なのです。
そして李時珍の言葉が次のように続きます。
「亡き父、月池翁は『四診発明』を書き著わした」
月池翁とは李言聞(字は子郁)のこと、李時珍の父にあたります。彼も医家であり、いくつか医書を書き記しています。
そして李時珍は言います。
「父の遺した『四診発明』はハイレベルなため、浅学の者には理解が得られないだろうと、筆をとりそのエッセンスを分かりやすく脈診習得のための書とする。」と。
かなり『脈訣(脈訣刊誤)』をライバル視しているようです。
実際、『瀕湖脈学』の本文には『脈訣刊誤』からの引用も多数あり、決して「鄙陋」や「紕繆」と見なし、全否定しているわけではなさそうです。
脈診は四診の末である
また序文の続きを少し紹介します。
「多くの医家は脈診を主要な診法とする傾向があるが、四診の中においては望聞問切の切診の中の一つに過ぎない。」とあり、脈診書の序でありながらも、一歩引いた冷静な視点で脈診に関わるよう示唆しています。脈診を貴び大事にするのは良いことですが、それだけに拘泥してしまわないように戒めてもいるわけです。
※『脈訣』とは南宋の医家、崔嘉彦(字は子虚、号は紫虚真人)の撰による脈書です。又の名を『崔氏脈訣』や四言脈訣』ともいい、四言詩の形で脈診を教授する形式を採っています。
鍼道五経会 足立繁久
以下に原文を付記しておきます。
■原文
李時珍曰、宋有俗子、杜撰『脉訣』、鄙陋紕繆、医学習誦、以為權輿、逮瑧頒白、脉理竟昧。
戴同父常刊其誤。先考月池翁著『四診発明』八巻、皆精自詣奥室、浅学未能窺造。
珍因撮粹擷華、僭撰此書、以便習読、為脉指南。
世之医病両家、咸以脉為首務、不知脉乃四診之末、謂之巧者尓。上士欲會其全、非備四診不可。
明 嘉靖甲子 上元日 謹書于瀕湖薖所